第54話 神の祟りを恐れて
夕日を柔らかに抱く春茜が広がる頃。
中務省を一緒に出た紫苑と楓は新装開店したみつ屋ののれんをくぐった。
夜に酒を出すようになったことで、これまでとは違う客層も入り混じり開店初日にしては繁盛していた。
ふたりは空いている席に着くと、品書きにざっと目を通す。
酒の種類も豊富で甘味も昼営業同様用意されているようである。
内容に満足した彼らはさっそく注文した酒を呑み交わした。
軽く乾杯すると、紫苑は満足げに満面の笑みを浮かべた。
「それにしても、あっという間に半月が過ぎちまったな」
「そうだな、ここで捕り物が行われたとは信じがたい。まあ、京が平静を取り戻してよかったが……」
紫苑はここで様々な人と出逢ったことを思い返した。
警らの途中で入った折には、白檀と遭遇した。
初めてみつ屋で遇った際、すれ違い際に落とし物をした彼を思い出す。
慌てて拾い上げていた様子から、中身は附子だったのかもしれない。
あの時に中身を検めることができれば、違う結果になっていただろうか。
菊夏ともここで知り合った。
悠蘭に紹介された時には、すでにふたりは互いに想い合っていたようだが、月華とともに鎌倉へ帰ってしまった菊夏の話を、あれ以来、悠蘭の口から聞くことはなかった。
結局あのふたりがどうなったのか、誰も口にしようとしなかった。
「ぼうっとしてどうしたのだ、紫苑殿」
紫苑の持つ猪口に酒を注ぎながら楓が言った。
「いや——ここではいろんなことがあったなぁと思ってさ。白檀殿と初めて遇ったのもここだったんだ。そういや、あれからあんたのところにも何も連絡はないのか? もともと京での住まいを世話したのはあんただったんだろう?」
「ないな。菫荘もそのままになっているし、一体どこへ行ってしまったのだろうな」
「李桜に毒を盛った目的もわかってねぇし、何者だったのかも最後まで謎だったな。面白い御仁だったから李桜のことさえなけりゃ、もっと親しくなりたかったなぁ」
残念そうに酒を一気に流し込んだ紫苑は肴を口にしながら続けた。
「みんな認めなかったけど、俺はどこか白檀殿の雰囲気が月華に似てるような気がしてたんだよな」
「月華殿に……?」
「ああ。一見すると儚い世捨て人のような雰囲気を醸し出していたが、その実は何か強い願望があってそれにこだわってるんじゃねぇかって気がしてる」
「固執している何かがある、ということか?」
「それは何なのかって訊かれても俺にもわからねぇけど……何となくなく、な」
紫苑は再び酒に口をつけると、続けた。
「——月華は人の間に序列があることを嫌ってた。家臣や身分の低い者にかしずかれるのが嫌で公家である九条家を出たんだ」
「…………?」
楓は首を傾げた。
貴族の家に生まれた者として家臣にかしずかれるのは普通のことだと思っている彼にとっては紫苑の言うことが理解できなかった。
「俺たち公家は本人の努力とは関係なく身分で隔たれて、生まれた家が違うだけで役割や上下を決められるだろう? 俺もあんたも官吏をしてるのは公家に生まれたからだ。月華はそういった世界が嫌だったんだろうな。だから実力主義の世界へ飛び込んだんだろうさ」
「だがそんなに簡単に武士の世界へ飛び込めるものなのか」
「まあ、月華の場合は鬼灯様——六波羅探題の武士が迎えに来たからなんだけどな。俺たちが修業していた近江の寺にある日、月華を迎えに来たんだ。武士になろうと思って家を飛び出したわけじゃなかったみたいだが、結果的にあいつは自分の意思で鎌倉へ行ったんだ」
「……そうだったのか。名門の家に生まれていながら難儀なことだ」
「まったくだ。でも、あいつの場合は武士になってよかったんじゃねぇかな」
「そうなのか?」
「だって、いくら能力があったって朝廷の官吏に収まるような器じゃねぇよ、あいつは。武将として戦況を左右するような舞台が似合ってる」
「ずいぶんと月華殿のことを理解しているのだな、そなたは」
「付き合いが長いだけさ。月華は裏表のないやつなんだ。だから楓殿だってすぐにあいつと打ち解けられるようになる。でも——」
紫苑はのけぞりながら雄弁に語った後、急に顔を寄せると声を潜めた。
喧騒の中で聞こえないほど紫苑が声を潜めたため、楓も思わず顔を寄せた。
「楓殿、月華の嫁さんにだけは絶対に手を出すな」
「……はっ?」
「ほら、この間、九条邸の庭で李桜の快気祝いの宴をした時にいただろ? 月華の嫁さん」
「あ、ああ。近江の寺で知り合ったとか」
「月華の百合殿への溺愛は李桜の椿殿へのそれとは桁違いだからな。前の陰陽頭は、左大臣だった近衛柿人様の目論見に加担する傍らで月華の嫁さんに横恋慕してたんだ。結果として土御門皐英が死んだのは事故だったが、もしその事故がなければ間違いなく月華が殺してただろうって、現場にいた叔父上が言ってた」
「……そうなのか?」
「ああ。月華を怒らせると怖いぜ? 触らぬ神に祟りなしってのはあいつのためにある言葉かもしれねぇな」
「祟り……」
あまり話をすることもなく鎌倉へ戻ってしまったため、楓は月華についてあまりよくわからなかった。
紫苑の話から察する月華像と自分が菫荘まで案内した時の月華像があまりにも違い過ぎるため、楓はすっかり混乱していた。
九条月華とは一体どういう人間なのだろう。
紫苑の話に嘘はないのだろうが、結局自分で確かめない限り紫苑の話のすべてを信用することはできない。
そんな斜に構えてしまうのは職業病なのだろうと楓は苦笑した。
そんな楓をよそに紫苑は酒の肴としてぜんざいを店主に注文していた。
ほどなくして運ばれてきたぜんざいを頬張りながら嬉しそうに酒を呑む紫苑を、楓は呆れ顔で見ていた。
「紫苑殿……そなた、酒を呑みながら甘味を食べるのか」
信じられないと、げっそりとした顔で見られた紫苑はその苦言を気にしていなかった。
「あんたもどうだ? 意外と酒とぜんざいって合うんだぜ?」
「し、信じられぬ……」
楓は目の前に差し出されたぜんざいの椀を力いっぱい差し戻した。
「やめろ、私の前に甘味を差し出すな」
気が合うのか合わないのかわからないふたりの呑み会は日付が変わるまで続いた。
同じ頃——大倉御所の自分の文机で書き物をしていた月華は小さくくしゃみをした。
暖かくなってきた季節の中で、よもや風邪を引くなどということはありえないはずだったため、月華は首を傾げた。
近くで書簡の整理を手伝っていた早川蓮馬が訝しげに月華に言った。
「月華様、誰かに噂でもされているのではないですか」
「噂? 人の恨みを買うようなことはしていないと思うが……噂しているとしたら、李桜か紫苑あたりかもしれないな」
「ありえますね。あのおふたり、正反対のように見えますが息はぴったりですよね。さすが月華様のご友人だと感心しましたよ」
「蓮馬は妙に鋭いところがあるな」
「妙に、は余計です月華様っ!」
いつも通りのやり取りが繰り広げられる御所の一室で、月華はぼんやりと考えていた。
まさか悠蘭があんな大それたことを言い出すとは思ってもみなかった。
月華は、文机に頬杖をつきながら、思い返す——。
「父上には朝廷を、兄上には幕府を動かしていただきたいのです」
月明りの下で真剣に言う悠蘭の言葉がいまいち理解できずにいた月華だったが、父も同じようだった。
目を丸くした時華は珍しく狼狽えていた。
「悠蘭——い、今、何と申した?」
「ですから父上には朝廷を、兄上には幕府を動かしていただきたいと——」
「何を申したかはわかっておる。そうではなくて、その真意を問うておるのだ」
目を丸くする父に対して悠蘭は静かに口を開いた。
「父上——俺は菊夏以外を妻に迎えるつもりはありません。ですが、彼女が俺の妻になるということは鎌倉を遠く離れ、ほとんど知り合いのいないこの京で薬師の仕事もなく家に引きこもることを意味しています。それは、彼女を苦しめるだけなのでしたくないのです。だからといって、陰陽師が京を離れるわけにはいきません」
「…………」
「ですから、最初は菊夏を妻にすることを諦めていました。ある時、その相談を雪柊様にしたら、菊夏が朝廷で薬師をできる方法を探してはどうかと提案されました」
「雪柊様が?」
月華は目を見張ったが、冷静に考えれば自分の失敗を繰り返さないために今の悠蘭にできることを助言したのは頷ける。
「それで、菊夏を陰陽寮の専属薬師に迎えたいと思うのです——」
月華がそんな半月前のことを思い返し、ぼんやりと差し込む光を眺めているとだいぶ日が傾いてきていた。
悠蘭のとんでもない内容に、しばらく考えていた時華もそのうち大声で笑い飛ばした上に2つ返事で引き受けた。
そのため、月華も引き受ける他なかったのである。
京から鎌倉へ戻る前に鬼灯にことの委細を相談したところ、快く引き受けてくれたのが意外だった。
面倒なことは嫌がると思っていたが、ある程度根回しをした後に鎌倉へ向かうと言っていた鬼灯から、間もなく戻ると文があったのは2日前のことだ。
そろそろ着く頃だろうと思った月華は腰を上げた。
「あれ、月華様、もうお帰りですか」
「いや、今日は鬼灯様が京からお戻りになる日なんだ。だからお迎えに行ってくる」
「お迎えってどちらへ?」
「北条邸だ。鬼灯様なら、鎌倉に戻った折には必ずまず、葵様にお会いになるからな」
そう言って月華は、大倉御所を出るとまっすぐ北条邸へ向かった。




