第51話 愁いを帯びた瞳
寝殿の西側にある西対は普段、悠蘭が寝泊まりしている部屋である。
寝に帰るだけだと思い、特に何も置いてはいない。
中央に御帳台があるだけだった。
板張りの床の上に寝る場所の分だけ畳を敷き、その四隅に支柱を立て鴨居を張らせた御帳台は、悠蘭にとって最も安らげる場所だった。
帳をすべて下ろし小さくなった空間には布団だけが敷かれている。
悠蘭はその上にそっと菊夏を降ろした。
横たわる彼女の横に腰を下ろして胡坐をかくと、仰向けで寝息を立てる菊夏の手を取り、指を絡ませた。
もう片方の手で自分の膝に頬杖をつきながら、悠蘭は呟く。
「あんなに冷たく突き放したのに、どうして君はまた俺の腕の中にいるんだ……もう2度と逢うこともないと思っていたのに」
そんな悠蘭の声はすやすやと眠る菊夏の耳には届いていない。
無防備に眠る彼女の顔を見ていると、悠蘭は心が洗われる気がした。
こうやって毎晩、菊夏の寝顔を見ながら眠りにつけたらどんなに幸せなことだろう。
菊夏と六波羅門の前で別れてから、彼女を忘れるために忙しくしてきたが結局、彼女への想いが薄れることはなかった。
菊夏と繋がった指先を眺めながら、安らぎを感じるこの場所で悠蘭も静かに目を閉じた。
どれくらいの刻が経ったのか——菊夏がまどろみながら薄っすらと目を開くと、目を閉じてうたた寝をする悠蘭の顔が目に入った。
赤茶色の前髪の隙間から長い睫毛が垣間見える。
胡坐をかいた膝に頬杖をついて小休止しているようだった。
気がつくと、指を絡めるようにして菊夏と悠蘭の手が繋がれていた。
思わず声が出そうになるのを堪えていると、微妙な彼女の身動きに目を覚ましたのか悠蘭の瞳が菊夏を見下ろしていた。
「菊夏……目が覚めたのか」
「あ、あの……私……」
「下戸のくせに酒を呑むなんて、なんて無茶をするんだ。具合は悪くないか」
悠蘭は呆れながらも横になる彼女の前髪を優しく撫でた。
「は、初めて呑んだのですから仕方がないではないですか。私だって、お酒を受け付けない体質だとは知りませんでしたっ」
むっとした菊夏に対して、悠蘭は苦笑するだけだった。
まだ酒が抜けきっていない様子の菊夏を労わるように悠蘭は黙って彼女の頭を撫で続けた。
あんなに冷たく突き放したのに、どうしてまた自分の手の中にいるのか。
本当は手放さなければならないとわかっているのに、悠蘭はその繋いだ手を離すことができなかった。
「そ、そう言えば宴、宴はどうなりましたか? せっかく李桜様の快気祝いだったのですから戻らないと……」
そう言った菊夏は急に起き上がると立ち上がろうとしてよろめいた。
酒のせいか平衡感覚を失い、そばにいる悠蘭の方へ倒れかかる。
「わっ……」
気がつくと菊夏は悠蘭を押し倒していた。
悠蘭の体に馬乗りになった状態で、彼の両肩に手をつくと菊夏の長い髪の先が彼の頬にかかった。
見上げる悠蘭の瞳は煽情的に揺れていた。
「ご、ごめんなさい。すぐにどきますからっ」
恥ずかしそうに目を逸らす菊夏の頭を悠蘭は引き寄せた。
自分の胸板の上に菊夏の頭が密着する。
菊夏の髪が頬に触れ、甘い香りが悠蘭の鼻を掠めた。
「やっぱりまだ酒が抜けきっていないな。もう少し休んでいなきゃ駄目だろう?」
「……悠蘭様?」
彼の声が耳元で響き、菊夏の鼓動は今までにないほどに高鳴った。
これ以上ないほど頬から耳まで赤くなっていることを悠蘭に気づかれているのではないかと思うと、まるで裸を見られているかのような心地だった。
菊夏は押し倒したまま悠蘭に抱き締められている恥ずかしさに耐え切れず、ぽつりと呟いた。
「……ずるい」
「……ん?」
「……ずるいです。私ばかりがどきどきさせられて、なぜあなたはそんな、平然としていられるのですか。こ、こんな……私がお、押し倒したような状況で」
耳元で呟く菊夏の声に全身が痺れるような感覚を覚え、悠蘭は彼女の背中を強く抱きしめた。
より密着した体から菊夏の高鳴る鼓動を感じる。
自分の速まる鼓動も伝わっているに違いない。
「余裕なんてあるわけないだろう? 平然を装っていないと気が狂いそうなだけだよ」
「……っ!」
菊夏が勢いよく顔を上げると目の前に迫った悠蘭の熱を持った瞳が菊夏を見つめていた。
悠蘭の手が優しく頬に添えられると、その熱を持った掌の熱さに菊夏の鼓動はさらに早鐘を打った。
「この間、冷たく突き放したはずなのにどうして君はまた俺の腕の中にいるんだ……。俺があの時、どんな想いで君を手放したと思ってる?」
「そんなこと……」
言葉にしてくれなければわからない——菊夏はそんな想いを呑み込んだ。
悠蘭は、間近に迫る菊夏の瞳に自分しか映っていないことに気がつき、胸が苦しかった。
こんなに近くにいるのに、手に入れることができない遠い存在であることが、何よりも切なかった。
「菊夏——俺は君のことが好きだ。妻にしたいと思っている」
「悠蘭様……」
「でも君を妻にすることはできない」
「……どうして、ですか」
「俺は陰陽頭として京を離れることはできない。兄上のように鎌倉で暮らすことはできなんだ。でも、だからといって君を京に閉じ込めておくこともできない。菊夏が催吐薬を作っているのを見ていて思ったんだ。やっぱり薬師は君の天職だ」
「…………」
「君が俺の妻になってくれたとしても、君の活躍できる場は京にはない。菊夏にとって生きがいである薬師の仕事を奪ってしまうことはしたくないんだ」
「…………」
「どうか、聞き分けてくれないか。俺は君以外の人を妻に迎えるつもりはない。生涯、独身を貫き通すげど、君は君の好きなように生きて——」
「嫌です!」
菊夏は涙ながらに訴えた。
「菊夏……」
「私も、あなたのことが好きです。他の殿方のところへ嫁ぐことなど、もうできません」
「…………」
「私は薬師である前にひとりの女子なんです。あなたと出逢う前は伯父上の薦めで縁談を受け入れるつもりでいましたが、今は……あなたのもとにしか嫁ぎたくありません」
悠蘭は菊夏の涙が自分の頬に落ちてきて初めて、雪柊が言った意味がわかった。
——それは菊夏が決めることじゃないかな。
菊夏が薬師の道を捨てる選択をすることは想定していなかった。
ただ自分たちの生き方を変えずに一緒にいることはできないと自分勝手に結論づけただけだ。
そうか——彼女を突き放すことは逃げていることと同じなのか。
涙を零しながら訴える菊夏を見上げて、悠蘭はふと雪柊の提案を再び思い出した。
到底、実現できそうな内容ではなかったが菊夏自身が薬師を辞めてでも一緒にいたいと思ってくれているのなら、覚悟を決めるのは自分の方なのかもしれない。
そう思った悠蘭は、菊夏の腰を支えながら半身を起こした。
悠蘭の膝の上に腰掛けた状態になった菊夏とは目線が同じ高さになる。
軽く悠蘭の肩に手をおいたままの菊夏に額を合わせると彼は静かに言った。
「わかった」
雪柊の提案は誰も思いつかないような果てしない道のりの先にあるものだった。
実現できるのかはやってみなければわからない。
だが、挑戦する価値はある。
すべてを捨てた雪柊とは対照的にすべてを手にするための方法。
「君がそこまで覚悟してくれるなら、俺も覚悟を決める」
「……覚悟?」
「ああ。君も薬師を辞めずに済んで、京で俺の妻となってもらえる方法を探す。だからみ月ほど待っていてくれないか」
「私に、一度鎌倉へ帰れと言われるのですか」
「必ず迎えに行く。それまで俺を信じて待っていてくれるか?」
菊夏が見つめる悠蘭の瞳にはもう迷いはなかった。
何を考えているのかは皆目見当もつかなかったが、そんなことは菊夏にとってどうでもいいことだった。
「答えは決まっています。いつまででも待っています——」
悠蘭は菊夏の後ろ髪の間に手を差し入れると、強く引き寄せ口づけた。
菊夏も頬を赤らめながらそれに応えるように悠蘭の肩に置いていた手を彼の首へ絡めた。
呼吸が乱れるほどに深く口づけた後、悠蘭にすべてを預けた菊夏は嬉しそうに目を閉じた。
悠蘭にそっと髪を梳かれ気持ちよさそうにしていた菊夏は、彼が気づいた時にはその腕の中で眠ってしまっていた。
菊夏の体を布団に静かに横たえると、悠蘭は宴が行われている庭へ向かった。
西対を出ると廊下にはすでに月が浮かんでいた。
宴を離れたのはまだ日が傾き始めた頃だったから、優に半刻以上は経過していたようである。
月を眺めながら悠蘭はぼんやりと考えた。
今まで、これほどまでに何かに執着したことがあっただろうか。
兄が家を出て、父とも疎遠になり、家族がばらばらになっていてもそれを修復することには執着しなかった。
陰陽師となったことを快く思っていないはずの父を振り向かせることにも執着しなかった。
誰に何を思われようと、来るもの拒まず、去る者追わずと思い、失ったものを取り戻そうとしたり失いそうなものに縋ったりすることもしなかった。
そこまでの興味もなかった。
だが今は違う。
菊夏のことは手放そうといくら思っても、やはり手放すことができない。
手放したくない。
悠蘭は改めて覚悟を決め、1歩を踏み出した。




