第50話 下戸な娘
日が傾き始めた頃——月華に招かれた関係者全員が揃った。
月華は池の中庭に建てられた華蘭庵の周辺に臨時の床を造らせ、女中たちに料理と酒を運ばせた。
それぞれが思い思いに座ると宴が始められた。
特に場所を決めたわけではなかったがなぜか男女に別れ、それぞれが少し離れたところに集まっている。
百合、椿、菊夏の3人は和んだ雰囲気で談笑していた。
「菊夏さんも遠慮なさらずに、たくさん食べてね」
「ありがとうございます、百合様」
「百合、食べるのはあなたの方よ。もっと栄養のあるものをたくさん食べないと元気な子が生まれないわ」
そう言って料理を無理やり口に運ぼうとした椿の手を百合はやんわり押しのけた。
「ちゃんといただいているから大丈夫よ。それより椿こそちゃんと食べなければ駄目よ。李桜様が寝込んでいる間、あまり食事を取っていなかったじゃない?」
「確かに李桜様が伏せっている間はほとんど食べ物が喉を通らなかったけれど、今はもう大丈夫。李桜様ったら、私のことをずっと離さないのよ。毒殺犯が狙っていたのは私だったらしくて、もう犯人は捕まったっていうのに李桜様ったら心配が尽きないみたい。なかなか離してくださらないから、今日は昼餉を食べ損ねたけれどね。以前から優しかったけれど、あんなに過保護な方だとは知らなかったわ」
「ふふっ。愛されているのね、椿も」
そう百合が小さく笑った隣で菊夏は胸を撫で下ろし、深く息を吐いた。
「……よかった」
「……? 菊夏さん、どうしたの」
「あっ、すみません。私、椿様と李桜様が仲たがいされるきっかけを作ってしまったのではないかと思ってずっと気になっていたので、それで昨日は椿様に嘘を……」
菊夏の突然の告白に、椿は目を丸くした。
菊夏は、事情を知らないだろう百合に対し、雨の日の出来ごとを詳細に語った。
「私を六波羅まで送ろうとしてくださっていた李桜様のことを椿様は誤解されているのではないかと思って、事情を説明しようとしたのですが余計話がこじれるからと楓様に止められまして……。お会いするたびに何度も事情を説明しようと思ったのですが、なかなか言い出せなくて」
肩を落としながら菊夏は続けた。
「あの日私は、いくら伯父が用意してくれた縁談だとしても好きでもない相手と夫婦になって幸せなのかと相談していたのです」
「李桜様は何と?」
「好きな相手から好きになってもらえるとは限らないから、信頼できる人が認める家に嫁いで、長い月日をかけて夫婦になっていった方が幸せかもしれない、と」
「でも、その縁談の相手って悠蘭様のことなんでしょ?」
「ち、違うと思います! 伯父ははっきりとどこの家の方との縁談なのか教えてくれませんでしたが……」
「おかしいわね。月華様はあなたたちふたりのことを恋仲だと言っていたわよ? 百合もそう聞いたわよね?」
「ええ。てっきり私も菊夏さんが私たちの義妹になってくださるのだと思っていたわ」
「そ、それはないと思います! 悠蘭様は私の気持ちに気づいていらしたようですが、私のことを想ってくださっているはずがありません。だって……先日、幸せにはできないと冷たく突き放されたのですから」
その時のことを思い出すと菊夏の瞳には自然と涙が溜まってくる。
零れ落ちないようにこらえながら、彼女は勢いづいて目の前に並べられた徳利を手に取った。
そのまま手酌で猪口へ並々に淹れるとそれを掲げ、静かに宣言した。
「もう、いいのです。相手にされていない私がいつまでも悠蘭様の近くにいては目障りになるだけですから、私は近々、鎌倉へ帰ります。そして、彼のことはすべて忘れることにしました」
そう言って、猪口に淹れた酒を一気に呑み干した。
「あ、ちょっと! そんなに一気に呑んでは体に毒よ」
椿の助言を無視するかのように、菊夏は無言で2杯目を呷ったのだった。
一方、男たち5人が集まる宴では明るい話が尽きなかった。
「それにしても、李桜もやっと椿殿と夫婦になったか……ちくしょう、羨ましいぞ」
「紫苑、それ、月華の時にも同じこと言ってたよね」
「だって羨ましいんだからしょうがねぇだろう? なあ、楓殿だってそう思わねぇか。あんたもまだ独身だろう?」
「そうだな。だが私は別に生涯独身でも構わぬ。見合いをしてまで妻を欲しいとは思っていない。椿殿くらいの器量の方なら喜んで受け入れるが……まあ、それは冗談だが」
「前科者の楓が言うと冗談に聞こえないね」
睨みを利かせる李桜に対し楓は肩を竦めただけだったが、ふたりのやり取りの裏に何があったのか、他の3人には皆目見当がつかなかった。
「ところで月華殿。そなたの奥方は鎌倉の武家の出身なのか?」
「いや、百合は奥州の出身なんだ。彼女とは俺が昔、世話になった近江の山寺で知り合った。半年ほど前にその寺に用があって寄った際に百合がいたんだ」
「そうか……やはり人の縁とは不思議なものだな。私も武士となったそなたとこうして酒を酌み交わすことになろうとは想像だにしなかった」
「楓殿だけじゃない。俺だって1年前はこの実家である九条家に足を踏み入れることさえ想像しなかったし、父や弟やかつての友人たちと酒を呑む機会を得ることになるとは考えたこともなかったよ」
男たちは再会と新たな友情に乾杯をし直したが、悠蘭だけは一切、酒に口をつけなかった。
菊夏のことが頭から離れなかったからである。
今、酒を口にしてしまえば先日の二日酔いでは済まないほどのやけ酒になってしまうだろうことは容易に想像がついた。
とにかく今は、この場をやり過ごすしかない、そう密かに思っていた。
その時、少し離れたところで女同士で談笑していたはずの百合がそそくさと月華のそばへやって来た。
隣に膝をつくと耳元で小さく囁く。
「月華様……菊夏さんが大変なことになってしまいました」
「大変なこと……?」
百合の視線の先には椿に介抱され、真っ赤な顔をした菊夏が焦点の合わない様子で呆然としていた。
「菊夏殿はどうしたんだ?」
「それが……止めるのも無視してやけ酒のようにお酒を呑んでしまって」
「で、一体どのくらい吞んだんだ?」
「お猪口に2杯ほどです」
「たった2杯であんなになるのか」
「よくよく聞いてみるとお酒は初めて吞んだようで……もしかしたら下戸なのではないかと……」
百合は目が行き届いていなかったとすまなそうに月華に申告した。
目は据わっていて、眠そうにしている菊夏を見るとそのままにはしておけなかった。
月華は悠蘭を手招きすると、近寄って来た弟に耳打ちした。
「悠蘭、悪いが菊夏殿を休ませてきてくれないか」
「……はっ?」
「あの様子じゃ、間もなくその辺に寝転がる。そのままにしておけないだろう」
月華に言われ、椿に介抱される菊夏に目をやると確かに今にも寝てしまいそうな虚ろな表情をしている。
「何であんな状態に……」
「申し訳ありません、悠蘭様。まさか下戸だとは知らず、お酒を呑むのを止めなかった私が悪いのです」
「い、いえ義姉上のせいではないですよ——ですが兄上、休ませると言ってもどこで休ませるのですか」
「西対があるじゃないか」
「な、何で俺の部屋で休ませるんですかっ!」
「仕方がないだろう。菊夏殿の迎えを呼べば大事になるし、華蘭庵で寝込まれたら百合の寝る場所がなくなる。父上もお出かけになっていつお戻りになるかわからないんだから寝殿をお借りするわけにもいかないじゃないか」
「ひ、東対に兄上の部屋があるではないですかっ。昔のまま、誰も使っていませんよっ」
「そんな誰も使っていないような埃っぽい部屋に彼女を休ませるつもりか?」
「うっ……」
兄弟がひそひそと話をしているのを不審に思った紫苑が、酔った勢いで声をかけた。
「おい、そこ! 先刻から何をこそこそしてるんだ。何かあったのか?」
「な、何もありませんよ——……っ!」
紫苑に対してごまかそうと口を開いた瞬間、離れたところにいる菊夏が眠気で意識を失い倒れかかっているのが視界入り、悠蘭はすかさず駆け寄った。
間一髪で菊夏の体を支えると、彼女は悠蘭の腕に支えられ無防備に眠っていた。
彼女のことを忘れるために、なるべく接触しないようにしようと心に決めていたはずなのに腕の中にいる菊夏を見ると心が揺らいだ。
悠蘭は諦めて小さく息を吐くと菊夏の体を軽々と抱き上げる。
「とりあえずこのままにはしておけないので菊夏を休ませてきます。すぐに戻りますから」
背を向けて歩き出した悠蘭に月華は声をかけた。
「面倒をかけて悪いな、悠蘭」
「……乗りかかった船ですから」
そう言って再び歩き出した悠蘭の背中に今度は李桜が声をかけた。
「悠蘭、船はもう出てるんだ。後戻りはできない。前に進むしかないんだよ」
「…………?」
振り返った悠蘭は言われている意味がわからず黙していたが、李桜は続けた。
「その船の船頭は悠蘭、あんたでしょ。沈めるも前に進めるもそれは船頭次第なんだから、しっかり行く先を決めなよね。じゃないと、菊夏殿はいつまでも不安なままだよ」
皮肉がたっぷり含まれた李桜らしい言葉に頷くと、悠蘭は西対へ向かって歩き出した。
酔っ払いの紫苑と、事情を知らない楓には李桜が何を言っているのかわかっていなかったが、月華だけは微笑ましく見送った。
悠蘭が立ち去った後、百合は月華のもとを離れ再び椿のもとへ戻った。
「驚いた……悠蘭様って意外と力持ちなのね。いくら菊夏さんが軽いからってあんなに軽々と抱き上げるだなんて」
「椿……悠蘭様を誰だと思っているの? 月華様の弟君なのよ? あのくらいのこと朝飯前に決まっています」
「はいはい——それにしても、あの様子じゃ、悠蘭様は菊夏さんのことを相当好きね。だって見たでしょ? 倒れそうになった彼女を急いで支えに来たのよ? 私、あまりの素早さに驚いて声も出なかったわ」
「そうね。あのふたりの間に何があるのかわからないけれど、きっとうまくいく方法は何かあるはずだわ」
「ずいぶん自信があるのね、百合」
「私もあなたも、たくさんの壁を乗り越えてきたからこそ今、大好きな人と一緒にいられるのよ。喉元過ぎれば熱さも忘れるって言うでしょ。あのふたりだって乗り越えられないはずがないわ」
そう自信を滲ませる百合を、椿は頼もしく見ていた。




