第5話 尽きない心配
悠蘭が御所に来たのは、中務少輔の西園寺李桜に呼びつけられたからだった。
九条家に寄り道したことで約束の刻限を少し過ぎてしまったため、官吏の案内で急ぎ李桜のもとへ向かった。
部屋の中に入ると、苦渋の顔をした久我紫苑と李桜が隣り合っていた。
相変わらず李桜は忙しそうに筆を動かしている。
書簡が山積みになっている文机の前まで進むと、悠蘭はふたりの官吏に軽く頭を下げた。
「遅くなりました」
「久しぶりだな、悠蘭。どこかに行ってたのか?」
陰陽頭となった悠蘭だけでなく、彼の目の前の少輔たちも多忙を極めている。
3人がこうして顔を合わせるのは確かに久しぶりだった。
悠蘭は、李桜に向かい合うようにして座った。
李桜の隣には紫苑が座している。
周りには中務省の官吏がそれぞれの仕事を続けており、部屋の中は騒然としていた。
「地方から戻ったところなので、九条家に顔を出していました。兄上が間もなく京に戻って来るそうで、その話をしているうちに遅くなってしまいまして」
「月華が戻って来るの?」
それまで何やら書き物をしていた李桜はその筆を止めて、悠蘭に顔を向けた。
「何か用事があるようで、しばらくこちらに滞在できると文に書いてありましたよ」
「へぇ、それは百合殿も喜んでるだろう」
「それはもう……。義姉上が甘えられるのはやはり兄上だけのようです」
悠蘭の言葉に同意した月華の友人たちは大きく頷き、3人は一様に口元を綻ばせた。
「さて、ふたりには足を運んでもらって悪かったね。でも次の犠牲者が出る前に何とかしたいんだ」
「何かあったのですか?」
悠蘭が目を丸くしていると、李桜と紫苑は顔を見合いながら互いに大きくため息をついた。
「お前、知らないのか」
紫苑は呆れ顔で言った。
「知らないって何をですか」
「今、京を騒がせてる事件をだ」
「さあ……俺は京を空けることも多いので、そういった世間の話題には疎くて」
そんな困惑する悠蘭の様子に、李桜は書簡の山からひとつ抜き出すと目の前に差し出した。
李桜から差し出された書簡を受け取った悠蘭は、それにさっと目を通し絶句した。
しばらく陰陽寮の仕事に没頭しているうちに京では恐ろしい事件が続いていたらしい。
「これは……」
「そこに書かれている通りだよ」
「本当にこんなことがこの京で起こっているんですか」
「紛れもない事実だよ。兵部省には警らを続けてもらっているけどまだ犯人は捕まっていない」
「本当に不思議なんだよな。まったく足跡が見えねぇんだ。このままじゃ、またいつ次の犠牲者が出るかわかったもんじゃねぇよ」
「何が起こっているのかは粗方わかりましたけど、兵部省が対処に当たっているのなら俺が呼ばれた理由がわからないんですが……」
悠蘭は手元の書簡を李桜へ戻しながら、訝しげに言った。
内容を読んだ限りでは陰陽寮の出番はなさそうだ。
「実は最初に事件が起こった時からしばらくは内々に犯人を捕まえようとしていた。でも被害が絶えないから兵部省に京の警らを頼んだんだけど——」
李桜はうんざりした様子で続けた。
「それが返って民の不安を煽ってしまったらしいんだよね。犯人の影が見えないせいで、悪霊の仕業じゃないかっていう噂も横行し始めて困ってる」
「ああ、なるほど。それで陰陽寮に悪霊退治の祭祀をしろ、と?」
李桜は真顔で頷いた。
「ですが、悪霊の仕業じゃないんでしょう? そんな祭祀を行ったところで効果はないと思いますけど」
「効果はなくていいよ。民の不安が少しでも安らげばそれでいい」
悠蘭は半ば呆れたが、現実主義の李桜が本気で悪霊の仕業だと思っていないことを理解している。
眉尻を下げながらも、仕方なく引き受けるしかなさそうだった。
「わかりました。急ぎ準備を整えましょう。俺で役に立てることなら協力しますよ」
「頼むよ」
「悪いな、悠蘭。俺たち兵部省もできるだけ早く解決できるように努力する」
「それにしても……この美人ばかりが狙われているというのが気になりますね」
悠蘭の疑問も無理はなかった。
被害にあった女子たちには美人という以外、共通点がない。
「ああ、これも謎のひとつだよな」
「何か理由があるんでしょうか」
「さあね。こんな卑劣なやつの考えることなんて理解しようとも思わないよ」
「美人と言うなら椿殿もいつ狙われても不思議じゃねぇぞ、李桜」
「……わかってるよ」
李桜は紫苑の言葉に不機嫌に答えた。
紫苑に言われなくとも、それは彼自身が最も懸念していることである。
「椿殿と言えば——李桜さん。ここへ来る途中、知らない男と一緒にいる椿殿を見かけましたが、あれは誰です?」
悠蘭は先刻、牛車の中から見た椿の様子について告げた。
物見から見えたのは確かに椿だった。
仕事や役割を持たない椿は、日ごろ西園寺家の邸の中にいると思っていたが、なぜ表にいるのか不審に思ったのだった。
その上、悠蘭も知らない男と一緒にいたとあっては記憶に残らないはずはなかった。
御所に戻って来る用事がなければその場に牛車を停めていたに違いない。
李桜は悠蘭の言葉に眉根を寄せた。
「……何の話?」
「……? 牛車から見ただけなので事情はよくわかりませんけど色白の男とふたりで何かを見ていたようでしたけど……」
「……それ、いつの話?」
「ですから、ここに来る途中——」
李桜は悠蘭の言葉を最後まで聞くことなく、机の上に乱暴に筆を置くと急に立ち上がった。
「急用を思い出したから、僕はちょっと席を外すよ」
悠蘭と紫苑を見下ろすと無表情に李桜は言った。
「早く行け、李桜。後の打ち合わせは俺と悠蘭でしといてやる。ついでに中務少輔は急用で帰ったとみなに伝えとくから今日は戻って来るな」
紫苑は意地悪く笑うと、手をひらひらとさせながら李桜を追い出し、頷いた李桜は無言で立ち去っていった。
その背中を見送りながら、悠蘭は首を傾げた。
「紫苑さん、李桜さんは急にどうしたんでしょうか」
「どうしたって、お前が椿殿を見たなんて言うから心配で帰ったんだろうさ」
「はっ?」
「悠蘭、これまでの話をちゃんと理解してるのか? 今、京で起こってる謎の毒殺事件は美人を相手に連続して起きてる。犯人の目星はついていない。李桜のことだ、毎日椿殿のことが心配で仕事が手につかないに決まってるじゃねぇか」
「……あの李桜さんが、ですか?」
「わかってないな、お前は。求婚の返事をもらってなくったって、李桜は椿殿を溺愛してるのさ。見てるこっちが恥ずかしくなるくらいにな」
豪快に笑い飛ばす紫苑に、悠蘭は唖然として返す言葉がなかった。
「ということは俺が見た、椿殿と一緒にいた男の心当たりはないっていうことでしょうか」
「だろうな」
「……大丈夫でしょうか、椿殿。紫苑さん、一緒に行かなくてよかったんですか」
「お前が見たのはどんな様子だった?」
「どんなって言われても、牛車の物見から見ただけですけど……楽しそうではありましたね」
「ふうん。楽しそうだったなら知り合いなんだろう? 大丈夫じゃねぇか? 例の犯人だとしたらこんな白昼堂々と事件を起こすわけねぇよ。そんな短絡的な奴ならとっくにお縄になってる」
悠蘭は腕を組みながら首を傾げた。
なんとなく、釈然としない。
近衛椿という人は長い間、近衛家の三の姫としてほとんど邸の外に出ることはなかったと聞く。
邸を訪れる者とも御簾越しに会っていただけで、多くは椿の顔を知らないはずである。
西園寺邸に暮らすようになって自由に外に出られるようになったとはいえ、たった半年程度の間に、親しくする者がそんなに簡単にできるものだろうか。
「それにしても、李桜もすっかり変わっちまったな」
紫苑は悠蘭の懸念をよそに言った。
「そうですね……」
「昔、お前の家の茶会に李桜と呼ばれたことがあってな。まだ互いに元服する前だったが、元服したらどうするかって話をしたことがあったんだ。月華は官吏にはならねぇって豪語したから、お前は見合いしたくないだけだろって言ったんだよ」
「見合い? ……ああ、鷹司家の姫との見合いですか? 確かにそんな話はあったみたいですけど確か、兄上は断った上で家を出ましたよね?」
「そうなんだよ。でもその見合いの話が出た時の李桜なんて、まったくそっちは興味ねぇって感じだったんだぜ? 官吏になってからも西園寺家の親戚から見合い話を持ち込まれてたらしいが全部断ってきたあいつが、あんなに椿殿にぞっこんだなんて、俺は未だに信じられねぇよ」
「…………」
「やっぱ美人だからなのかねぇ」
「……そうじゃないと思いますよ」
「悠蘭、お前何か知ってるのか」
「いえ、何も聞いてませんけど。でも李桜さんと椿殿も兄上たちと同じで俺たちにはわからないところで深く繋がってるんじゃないですか」
「深く? 何かいやらしい表現だな」
「ち、違いますよ! そういう意味ではなく」
「冗談だよ」
悠蘭は顔を赤く染めながら、紫苑を睨みつけた。
結局、李桜が立ち去った後、紫苑と悠蘭は今後の対策について日が暮れるまで意見交換したが、李桜が戻ってくることはなかった。