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風雅の君  作者: 神間 那古井
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第46話 雨に濡れた紫陽花

 西園寺李桜さいおんじりおうの両親が亡くなったのは不運な事故だった。

 たまに旅に行きたいという母の我がままを聞き入れた父が家臣を伴って琵琶湖のほとりへ出向いた時のことだった。

 前日まで降り続いた雨でぬかるんだ道に牛車の車輪が取られ、横転。

 運悪く牛車は土手に転がり落ちたという。

 中にいた両親は打ち所が悪くそのまま帰らぬ人となった。

 長雨の続く、文月のことだった。

 両親の旅に同行していたのが家臣の三木みき家当主だった。

 長年西園寺家に代々仕え、支えてきた一族であったが三木家もまた不慮の事故によって当主を失ったのであった。

 両親の葬式に参列したのは、李桜が元服する少し前のことだった。

 朝廷でも要職に就いていた父を偲んで名だたる公家の当主たちが参列した。

 当然、幼馴染である九条月華くじょうつきはな久我紫苑くがしおんも駆けつけてくれた。

 ふたりは李桜を心配してくれたが、自身は状況を冷静に見ていた。

 親戚たちはこれ幸いと、李桜を排して自分たちが西園寺家を乗っ取ろうと暗躍しているのが手に取るようにわかったし、また、李桜に取り入ろうとする輩も多かった。

 この「家」というのは一体何なのだろう。

 父が亡くなったことにより、兄弟のいない李桜は必然的に西園寺家の当主に納まることになる。

 両親もいなくなり、息子のように可愛がってくれた家臣も亡くなり、大切なものはほとんど失ってしまった。

 残ったのは兄弟のように育った三木家の息子だけ。

 今後は彼が新しい三木家の当主となり、西園寺家に仕えてくれるのだろう。

 すべての葬儀を終え、広い邸にひとり取り残された李桜は寝殿から呆然と庭を見ていた。

 雨は相変わらず降り続いており、庭には美しい紫陽花が咲いている。

 かつて両親がよくこの庭を仲良く眺めていたことを思い出す。

「李桜様」

 声の主はわかっていたが、李桜は振り返らなかった。

 兄弟のいない李桜にとって彼は兄のようなもの。

 互いの信頼は揺るぎないものであった。

「ねえ、芭月はづき。僕は父上たちと一緒に旅に行くべきだったのかな」

 李桜は率直に思ったことを口にした。

 一緒に旅に行っていれば今頃、自分も両親と同じところにいたのではないか、と単純に思った。

「それは……」

「この邸にひとり取り残されて、僕はこれからどうするべきだと思う?」

「あなたは間もなく元服されこの西園寺家の当主となられるのですから、どうするもこうするもないでしょう。前に進むだけです」

「芭月の父上だって亡くなったのに、あんたは気丈だね」

 ——三木芭月みきはづきは苦笑した。

「私には李桜様を支えるお役目がありますので」

「僕にはどんな役目があるんだろう」

「どんなって……あなたにはこれから朝廷に仕えるという立派なお役目があるではありませんか。誰にでもできることはないのですから、あなたはそのお役目を果たし、民のために働くべきです」

「……そういえばそんなことを考えていたこともあったな」

 李桜はすっかり生きる気力を失くしていた。

 李桜の父は朝廷の要職に就く官吏のひとりだった。

 元服もしていない子どもの自分にはわからない世界だが、急逝した父の穴埋めにさぞ朝廷は荒れていることだろう。

 かつては父のように朝廷で働くことを当り前だと思っていた。

 だが、そうやって働き詰めだった父の末路はどうだろう。

 あっけなく命を失い、志半ばにしてこの世を去った。

 結局、何も報われないのではないか。

 家を守り、家を存続するために働いてきた父の背中を見てきたが、自分にとってそれは必要なことだろうか。

 家督を継ぎたい親戚がいるのであればその者たちに継がせればよい、そう思うほどに李桜はこの家に執着していなかった。

「しっかりしてください、李桜様」

「しっかりって……僕はいたって冷静だよ」

「いいえ、冷静じゃありません。あなたは朝廷に仕える官吏になることを望んでいたはずです。そのためには清華家である西園寺家を維持するしかないのですから、あなたは家督を継いで官吏になるべきです」

「そうして父上のようにあっけなく死ねって言うの? 結局、官吏になったって何も残らないんじゃない?」

「あなたはお父上が家を守り、俸禄を受け取るためだけに官吏をされていたとお思いですか」

「そんなことはないよ。父上は民のために働いていたんだ。昔よくそう言ってたよ」

「そうです。主人は民のために働いていらした。民のために働くことでこの家を、そしてあなたを守っていらしたのですよ」

「でも僕には何も残っていない。民のために働いた見返りが大事なものを守る手段だって言うなら、僕にはもう必要ない。守るものはもう手元に何もないんだから。僕に人身御供にでもなれって言うの?」

 李桜は自分の両手を見つめ、怒りを露にした。

 不運な身の上を呪っているかのような怒りだった。

 大切な父を失ったのは芭月も同じはずなのに、李桜は自分勝手な怒りをぶつける先が他になかった。

 すべてを投げ出したい衝動に駆られ、「責任を果たせ」という厳しい言葉を受け入れることができなかった。

「甘ったれるのもいい加減になさい」

 芭月はさらに厳しく李桜を突き放した。

 それまで庭の紫陽花しか見ていなかった李桜は初めて顔を向けた。

 目に入った芭月は今にも泣きだしそうな顔をしている。

 長年、兄弟のように育ってきて初めて見た顔だった。

「芭月……?」

「私ももうこれ以上大切な方がいなくなるのは耐えられないんです。最後に残された李桜様だけが唯一私にとって大事なのですから、そんなすべてを投げ出したようなことを言わないでください」

 師としてした父を失い、仕えていた主人を失い、確かに芭月も李桜と同じだけのものを一度に失ったのだ。

 想いは同じなのだと気づかされた李桜は、居住まいを正して芭月に向き直った。

「芭月、言いたいことがあるなら昔のように僕と向き合ってよ。寝殿ここには僕たちしかいないんだから、誰に気兼ねすることなく話して」

 李桜にそう言われ、芭月も居住まいを正す。

「李桜——お前の人生はまだ始まったばかりだ。この先、あの紫陽花のようにお前の周りにはたくさんの人が集まって来るだろう。月華様や紫苑様だけじゃない。将来は妻を迎えることもあるだろうし、子を授かることもあるかもしれない」

 芭月は幼い頃を思い出し、弟に諭すように続けた。

「今はひとりになってしまったかもしれないが、ずっと先もひとりなわけじゃないんだ。だからまた1から新しい家族を持ってほしい。そのためには官吏になるべきだ。それが将来の家族を守ることになるから」

 李桜は黙って芭月の話を聞いていた。

 将来、自分が家族を持つことなど考えたこともない。

 家を守ることに興味もない。

 だが、もし今、李桜が家督を放棄すればこの家を継ぐのは家督を狙う親戚ということになる。

 そうなれば芭月は必然的にその家督を継いだ者に仕えることになり、李桜とは離れ離れになることは必然である。

 互いに同じだけ大切なものを失った自分たちがそばで支え合うことができる方法、それは——。

「何より、俺から生きがいを奪わないでくれ、李桜」

「僕のそばにいることが芭月の望み?」

「そうだ。俺は図らずも三木家の当主になってしまった。西園寺家に仕える三木家として、俺はこの邸を離れることはできない。だが、弟のように可愛がってきたお前のこれからを隣で見続けられないのはあまりにも辛すぎる……」

 互いに同じだけ大切なものを失った自分たちがそばで支え合うことができる方法——それは李桜が家督を継ぎ、西園寺家当主となることだけである。

 李桜は家にもこの先の将来にも興味はなかったが、目の前の大切な人の望みには寄り添いたいと思った。

「わかったよ、芭月。僕は西園寺家を継ぐ。官吏にもなる。それであんたは救われるんだよね?」

 李桜がそう言うと芭月は一筋の涙を流した。

 すべての不安が流れ落ちたような涙だった。

「なんだよ、涙なんか流して」

「……お前が泣かないから代わりに泣いてやってるんだ」

 芭月は照れ隠しにそんなことを言ったがその涙を拭うことはしなかった。

 この涙は悲しい涙ではなく、嬉しい涙だからである。

「ぼ、僕が何で泣く必要があるんだよ」

「父上も母上も、何の別れの言葉もなく突然消えたんだ。悲しみがこみ上げてこないわけがないだろう? 今のお前は冷静なふりをして何も考えないようにしようと感情を殺しているだけだ」

「な、何だよ。そんな何でもわかったようなことを言って……」

 芭月に深層を突かれ、李桜は不覚にも嗚咽を漏らした。

 それまで我慢していた感情が堰を切って流れ出し、李桜は芭月のもとで雨が上がるまで泣きつくした。

 そして誓った。

 芭月のためにこの西園寺家を守る、と。



「李桜っ」

 うっすらと目を開いた時、目の前には心配そうに青ざめた芭月の顔があった。

 ゆっくりと辺りを見回すとそこは見慣れた自分の邸であるとわかった。

「芭月……」

 普段は「三木」と呼んでいるはずの相手を、夢うつつの中で李桜は「芭月」と呼んだ。

 呼ばれた三木は面食らった顔をしていたが、意識があることに安心して苦笑した。

「ずいぶんと古い呼び名を……」

「ずっと昔の夢を見ていたんだ。ねえ、何で僕はここにいるの? 確か白檀びゃくだんの茶室にいたはずなんだけど」

 徐々に意識がはっきりしてきた中で李桜は額を押さえながらこれまでの記憶を呼び起こした。

「お前は毒を盛られたようだ。紫苑様が西園寺邸ここへお前を運んでくださった。後に悠蘭ゆうらん様が見知らぬ女子と現れて、毒を吐かせる薬だといってお前に呑ませたんだ」

「……悠蘭と菊夏きっか殿か」

「そんなことより、具合はどうなんだ」

「何だかまだ頭がぼうっとしていて混乱しているけど、体が痺れたりとかはなさそうだよ」

 李桜は横になったまま腕を上げて手を握ったり開いたりして見せた。

 ほっと安堵した三木はその場に足を崩して上げられた李桜の手を掴んだ。

「無事でよかったよ、本当に」

「芭月の生きがいは僕だもんね。僕は芭月より先に死ねないね」

「ん……なんだそれ」

「ちょうど父上たちが亡くなった頃のことを夢に見ていたんだ。あんたが僕を必要としてくれたから今の僕がある。この家を守っていくためにも僕は早く官吏として仕事に戻らないとね」

「そんな体じゃ、復帰は無理だ。もっと自分の体を大事にしなきゃ駄目だぞ、李桜」

 急に兄貴風を吹かせた芭月だったが、それは照れ隠しなのだと李桜にはわかっていた。

「これからは俺のためじゃなく、椿つばき様のためにも簡単に死ぬなよ」

「……彼女は、ここにはいないの?」

「実は悠蘭様と一緒に一度九条邸から戻られたんだ。死にかけているお前を見て号泣していた。自分のせいでお前が白檀とやらに毒を盛られたんじゃないかとずいぶんと自分を責めていらした。あの姿は見ていられなかったぞ」

「……それで椿殿は?」

「しばらく静養が必要だと聞いて椿様はここにはいられないと九条邸に戻られた」

「そうなんだ……」

「李桜、これで終わらせるつもりなのか」

「まさか。必ず彼女のことを取り戻すよ」

「それでこそ我が主だ」

「ねえ、芭月。あの雨の日、紫陽花に例えて僕を諭してくれたことを覚えてる?」

「ああ、そんなこともあったな」

「今、芭月が言ったとおりになったね。僕の周りには芭月だけじゃない、月華も紫苑も悠蘭もいてくれる。これから僕は椿殿を必ず妻に迎えるよ。そして将来、子を授かるんだ。そうやってあの時見た紫陽花みたいに僕はたくさんの小さな花に囲まれる。ひとつひとつは小さな花だけど、集まったら美しい大輪になるんだ」

「そんな景色を見るのが、何よりも俺の生きがいだ」

 三木は破顔して李桜を見下ろした。

 あの雨の日に泣き崩れた主人が頼もしく成長したことを誰よりも喜んでいた。

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