第42話 後悔に寄せて
催吐薬作りを菊夏に任せた悠蘭は、その足で華蘭庵に向かっていた。
月華が華蘭庵から現れた時、障子は少し開けられたままになっていた。
昨日、李桜と仲たがいした椿が百合のもとに身を寄せていると聞いていたため、おそらく椿も外で話していた内容を聞いていただろう。
履物を脱いで襖に手をかけた悠蘭は一瞬、開けるのを躊躇った。
外での話が聞こえていたなら中にいる椿はきっと青ざめているに違いないと思ったからである。
事実を告げないこともできるが、仲たがいしているとはいえ生きた心地がしていないだろうことは容易に想像がつく。
自分に置き換えて考えてみるとわかる。
もし菊夏に毒が盛られ、倒れるようなことがあればじっとしているなどできるはずがないのだ。
そう思うと椿に李桜のことを告げないわけにはいかなかった。
大きく息を吸って静かに襖を開くと、思った通り血の気が引いた椿と目が合った。
彼女は腰を抜かしたようでその場に座り込んでいる。
こちらを見つめる瞳は悲壮感に満ちていた。
気の抜けた掠れた声で椿は言った。
「……悠蘭様、李桜様が毒を盛られたって、本当なの?」
「本当です」
「で、でも解毒薬を呑めば助かるんでしょ?」
「……残念ながら、李桜さんが盛られた毒には解毒薬がありません」
「……えっ、嘘でしょ……」
「ですが今、毒を吐かせるための薬を作っています。全身に毒が回るまでにはまだ半刻ほどある。接種した毒を吐かせることができれば助けることができるはずです」
「…………」
椿は口元に手を当てたまま言葉を失っていた。
百合が椿の背をさすりながら不安げに悠蘭を見上げた。
「悠蘭様、何とか李桜様を助けてください。椿は彼と仲たがいしたまま、まともに話もできていないのです。このままなんてことには……」
「事情は李桜さんから聞いています。俺にも大切な人がいるから椿殿の気持ちはよくわかります。このままにはしませんよ、義姉上」
悠蘭は座り込む椿の顔を覗き込んだ。
焦点が合わない様子で呆然としている彼女の不憫さに胸が締め付けられる。
「椿殿、一緒に行きましょう」
「…………?」
「俺はこれから毒を吐かせる薬を持って李桜さんのもとへ行きます。あの人のそばにいたいでしょう?」
「一緒に行ってもいいの?」
「李桜さんだって目が覚めた時、一番にあなたの顔を見たいでしょうから」
「で、でも私の顔を見たら逆に具合が悪くなるかも……だって、私、彼にひどいことを言ったし、私こそが彼のことを信じてあげられなかった……」
「李桜さんはあなたの帰りを待っていますよ」
「……どうしてそう思うの」
「俺は朝廷で李桜さんをずっと見てきました。あの人は百官が恐れるほどの切れ者で、あの人に睨まれたら朝廷では仕事ができないと噂される人です」
「……それは、私も聞いたことがあるわ」
「その切れ者の李桜さんがあなたのこととなると急に判断力を失うんです。俺はあの人が悩みを吐露するのを今回初めて見ましたよ。それだけあなたのことが大事で、失いたくなくて、どうしていいかわからないんです。それだけあなたを愛しているからでしょ? そんな李桜さんが口喧嘩したくらいであなたのことを手放すとは思えません。あなたたちふたりは同じ人生を歩んでいくことができるんだから、諦めないでください」
そう、自分と菊夏とは違うのだから。
悠蘭は厨に置いてきた菊夏の姿を思い出した。
たすき掛けをして袖をまくり気合を入れた菊夏は勇ましく、薬師であることに誇りを持っているのだと感じた。
鬼灯に言われたからではなく、悠蘭自身がもし妻を迎えるなら菊夏を、と思っている。
だが、それは菊夏に薬師を辞める選択を迫ることになる。
薬を作ろうとする菊夏の姿を見てしまっては、彼女からその天職を奪うことはやはりできない。
菊夏を愛しいと思うからこそ——。
悠蘭は座り込んだ椿を立たせた。
「さあ、そろそろ薬もできる頃でしょうから行きましょう、李桜さんのもとへ」
菊夏に対する感情を封印するように、悠蘭は気持ちを入れ替えて椿を華蘭庵から連れ出した。
悠蘭は催吐薬を作る菊夏を迎えに行くために、椿を伴って厨へ向かった。
足早に行く彼の跡を追いかけるように続いた椿はおもむろに口を開く。
「李桜様、どうして毒なんて……」
「それはわかりません」
「今、彼はどこにいるの」
「白檀という茶人の邸宅にある茶室です」
「え……菫荘にいるの!?」
「はい。椿殿はその茶人から茶の湯を習っていたそうですけど」
「ええ。でも白檀様が李桜様に毒を盛ったと言うの!?」
「その茶人の男が毒を盛ったのかどうかはわかりません。俺たちが到着した時にはすでに茶室の中はもぬけの殻でしたから」
「そう……」
なぜ李桜が白檀のもとを訪れていたのかはまだわかっていない。
だが、椿は李桜が白檀と会っていた原因は自分にあるのではないかと考えているのだろう。
今の椿を救うことができるのは李桜しかいない。
他の誰が何を言おうと彼女の耳にはどんな言葉も届かないだろうと悠蘭は思った。
だからこそ、李桜のことは何としても助けなければならない。
そう新たな決意を胸に悠蘭は菊夏を迎えに行った。
菫荘を出た白檀は山吹と待ち合わせている京都御所の前にいた。
少し前まで満開だった桜の花びらが風に舞い、儚く散っていくその様に自分の人生を重ねて見ていた。
輪廻の華の居所を探るためとはいえ、西園寺李桜には悪いことをした。
幼い頃、京を追われた自分を引き取った備中国には逆らうことができない。
たとえ自分を利用し、戦を起こそうとしているのだとわかっていても。
それを覆すだけの力も仲間も持ち合わせていないからである。
幕府を倒して積年の恨みを晴らし、栄華をもう一度取り戻して、朝廷の政を掌握したいのは理解している。
だが、だからといって輪廻の華を利用して戦を起こし、力で権力を取り戻そうとすることには賛成できない。
そんな矛盾したことを何年も考えてきた。
白檀はひらひらと舞い落ちてきた花びらを1枚、手に取って眺めた。
かつてこの御所の中で暮らした日々を思い出し、何とも言えない切なさがこみ上げてくる。
ここで暮らしていた頃、よく開かれていた茶会が何よりも楽しかった。
見知った者たちが腹を探りながら建前を吐き出すような汚れた茶会ではあったが、人が集まる場所は何よりも心地よかった。
自分がひとりではないのだと錯覚することができたからだ。
親もすでにこの世にはおらず、半分血の繋がった弟は自分の存在を恐れているのか、遠ざけたまま存在を気にしてもいない。
引き取られた備中国でさえ、自分を利用するためだけにそばに置いているのであって、ひとりの人間を必要としているわけではない。
結局、誰にも本当の意味で必要とされていない孤独を今は感じる。
だからこそ、近衛椿に慕われる西園寺李桜は羨ましかった。
薄めたとはいえ毒を盛った裏にはそんな嫉妬心も少しあったかもしれない。
あんな可愛らしい人に必要とされ、伴侶として得られるのならどんなに嬉しいことか、そう思ったのは本心からだった。
掌に舞い降りた花びらを握りしめると、白檀はふと大事なことを思い出した。
かつてこの御所に暮らしていた折、父から賜った茶碗をうっかり菫荘に置いてきてしまったのである。
ここぞという大事な客人をもてなす際に使用してきた大事な器であるが、李桜に最後に呑ませた茶を淹れるのに使ったまま、忘れてきてしまった。
ふと菫荘に向かおうと足を向けたところで迎えに来た山吹が姿を現した。
「白檀様、お待たせしました」
「そんなに待ってはいませんよ。みつ屋の店主には会えましたか」
「それがどこかへ出かけてしまったらしく、会えませんでした。後日、別の折に事情を説明しておきます。今は何より、白檀様が京を離れることが先決ですから」
山吹はこれ当然と頷いた。
「ところで白檀様。今、どこかへ行こうとされていませんでしたか」
「ええ。忘れ物をしたので菫荘に戻りますよ、山吹」
「はぁ!? 冗談でしょう」
「冗談ではありません」
「今頃、あいつらは邸に踏み込んでいるかもしれませんよ。そこに鉢合わせたらどうするんですか。みんな殺してしまっていいんですか?」
「物騒なことを言いますね。大丈夫、毒との戦いは一刻を争うのです。もし九条悠蘭が状況を把握したなら、もたもたせずにすぐに動き始めるはずですよ」
「それはすでに菫荘がもぬけの殻になっていることの証明にはなりませんっ」
「まあ、論より証拠と言いますから、まずは行ってみましょう」
山吹の反論すら受け流して白檀は再び1歩を踏み出した。
そんな彼の腕を山吹は強く引き寄せる。
護衛としては敵がいるかもしれない場所に悠々と戻ることは認められなかった。
「白檀様っ!」
だがそんな山吹に白檀はこれまで見せたことのない真剣な眼差しを向けた。
「忘れたのは本当に大事な物なのです」
その瞳の奥に深い悲しみのような闇を見て、山吹は自然と手を離した。
よほど大事な物なのだろう。
こんな見たこともない表情を見せられては、これ以上、引き留めることはできない。
「……まったく。どうなっても知りませんし、もし万が一誰かと遭遇するようなことがあったらあなたを守るために容赦なくその相手を殺しますからね」
憤然とした山吹を伴って白檀は再び菫荘へと引き返した。
懐かしい御所を尻目に、その思い出を詰め込んだような大事な器を取りに行くために。




