第41話 九条家の兄弟
鈴蘭には解毒薬がない。
その代わり、体内に入った毒が体中に吸収される前に強制的に吐かせることができれば毒の作用を軽減することができる、悠蘭はそう皐英から教わっていた。
菫荘を出た悠蘭は菊夏を連れて九条邸の前に辿り着いた。
門の前に並んで立つと、菊夏はそびえ立つ大きな門にたじろいだ。
高い塀はどこまでも左右に続いている。
「お、大きなお邸ですね。どなたのお邸なのですか」
「俺の家だよ」
「……えぇ!?」
平然とする悠蘭の横顔を見上げ、菊夏は言葉を失った。
まだまだ知らないことがたくさんある。
考えてみれば彼について知っているのは、職業と名前だけで、どこの家の者なのかまでは知らなかった。
悠蘭の顔を見るなり、深々と頭を下げ無言で門を開けた門番の様子を見れば、彼の家であることは間違いないのだろう。
堂々と中に入っていった悠蘭は、突然叫び出した。
「松島、松島はいないか!」
何度もそう叫びながら敷地の中へ入っていく悠蘭の背中を遠慮がちに追いかけた菊夏は辺りを見回した。
滞在している六波羅御所とは違い、大きな池を囲うように左右対称に建てられた風通しの良さそうないくつかの建物が細長い廊下で繋がれている。
池の真ん中には茶室のような書院造りの建物がひとつ、建っていた。
菊夏にとっては見るものすべてが珍しい空間だった。
「松島は出かけているのか……」
池越しに見える建物を眺めながらふたりが立ち尽くしていると、悠蘭の声を聞きつけたのか前方の華蘭庵から月華が姿を現した。
悠々と向かってくる姿にふたりは同時に声を発した。
「兄上!」
「月華様!」
「悠蘭、ずいぶんと騒がしいな。何かあったのか」
菊夏は目前に現れた月華と悠蘭の顔を交互に見やった。
背丈は少し月華の方が高いが、同じ赤茶色の髪をしたその顔は、まさに兄弟というにふさわしく似ていた。
並んでいると瓜二つと言っても過言ではない。
片方が腰に刀を下げた武士、片方は紫の狩衣を着た陰陽師。
菊夏の頭の中は混乱を極めた。
「兄上、雪柊様から分けていただいたというあの曼殊沙華を一株、使わせていただけませんか」
「それは構わないが、あれをどうする気なんだ」
「実は急ぎ、催吐薬を作らなければならなくなりまして——」
悠蘭と月華が話をしている横で菊夏は事態を整理することに必死だった。
確かに悠蘭は、兄が鎌倉で武士をしていると言っていた。
紫苑の言う雪柊の特別扱いとは月華の弟だから、という意味だったのだ。
鬼灯も彼のことをよく知っていると言っていた。
それもそのはずなのだ、自分の腹心の弟なのだから。
ふたりが李桜の話を始めたところで耐えかねた菊夏は、話しかけた。
「あ、あの、おふたりはもしかしてご兄弟なのですか」
月華と悠蘭は互いに顔を見合わせた。
「悠蘭——お前はまだちゃんと名乗っていなかったのか」
疑わしい目を兄に向けられ、悠蘭は居心地悪そうに答えた。
「何度も話そうとしたのですが、いつも間が悪かったんですよ。名前なら先刻名乗りましたが」
そんな兄弟のじゃれ合いを見ていて、菊夏はなぜこれまで気がつかなかったのだろうと思う。
初めて京の外れで出逢った時、悠蘭のことを逢ったことがあるような気がしていたはずなのに月華の血縁だとは露ほどにも思わなかった。
だが考えてみれば美しく、勇ましく、時に優しい表情を見せるその姿は月華にそっくりだったのではないだろうか。
唯一、月華と違うのは刀を振るう代わりに知識を武器にしていることだ。
毒に関しては薬師である自分よりも詳しい。
そんな彼の魅力にどんどんと深くはまっていることを自覚した今、これ以上自分の心を偽ることはできないのだと菊夏は悟った。
顔を赤らめながら呆然と見つめてくる菊夏を不審に思い、悠蘭は彼女の額に手を当てた。
自分の額と体温を比較しながら心配そうに顔を覗き込む。
「顔が赤いけど、具合でも悪いんじゃないか。結果的にあちこち引っ張りまわすことになってしまったから疲れたのかもしれないな」
「い、いいえ、だ、大丈夫です! 何も問題ありませんから」
額に触れられた悠蘭の手をそっとどけると菊夏は一歩後ろへ退いた。
月華がふたりのやり取りを微笑ましく見ていると邸の中から、悠蘭の声をどこかで聞きつけた松島が走って現れた。
「悠蘭様っ! この松島をお呼びでしょうかっ——おや、月華様もお戻りでしたか」
「松島、厨を借りたいんだが構わないだろうか」
「……? それは構いませんが、どうされました」
松島の腕を掴むと悠蘭は迫った。
「実は李桜さんが毒を盛られた。解毒できない毒だが、幸いまだ全身には回っていないから毒を吐かせるための催吐薬を作りたい。時は一刻を争う」
「なんとっ! もちろんあなたのご実家なのですから自由にお使いくださいませ。私が案内しましょう。今、ちょうど昼餉の片づけをしている頃ゆえ、私が供に行って場所を空けさせますから」
「悠蘭、毒を盛られたとはどういうことだ? 李桜は無事なのか?」
「今話した通りです。李桜さんは何者かによって毒を盛られたようなのです。李桜さんの同僚で今出川家の方がそばにいます。まもなく紫苑さんも到着するでしょう。紫苑さんが到着したら、李桜さんを西園寺邸へ運ぶように伝えました。俺と菊夏は催吐薬を用意して李桜さんのところへ戻るつもりです」
「そうか……では俺は李桜のところへ向かう。その薬ができたら届けてくれ——それにしても、お前はいつの間に毒の知識を身に着けていたんだ?」
「これは……昔、皐英様から叩き込ましたから」
そう言いながら悠蘭は慰霊碑建立予定の場所に目を向けた。
月華は肩を竦め苦笑しながら悠蘭の頭を撫でる。
「ますますあいつとは友として出会いたかったな」
月華は松島に弟たちのことを頼むと疾風のごとく勢いで九条邸を出て行った。
悠蘭たちは松島の案内で厨に向かった。
彼の言う通り昼餉の時刻を過ぎた頃のせいか、膳を片付けている女中たちが慌ただしく作業をしていた。
松島は女中たちに事情を説明し、厨の一角を空けさせるとすぐにその場を去っていった。
床には洗いかけの器が水を張った桶の中に沈められており、完全に邪魔になっていると思いながらも菊夏は催吐薬を作るため、紐をたすき掛けにして袖をまくった。
「菊夏、俺は曼殊沙華を摘んでくるから準備をしていてくれないか。ここにある物はすべて好きに使ってくれていい」
菊夏が頷くのを確認すると、続いて悠蘭は女中たちに声をかけた。
「みな、仕事中に申し訳ないがしばらくここを貸してほしい。彼女を手伝ってやってくれないか」
悠蘭の背中を見送った菊夏は鍋を借りると水を入れて沸かし始めた。
蓋を閉めてぐつぐつと湧くのを待つ。
そうして鍋を見つめながら、菊夏は考えていた。
先刻、悠蘭に熱を測るようにして額に手を当てられたことを思い出す。
自分でも額に手を当ててみたが少し熱いような気がした。
だが、これは熱があるのではなく高揚しているからなのだとわかっている。
悠蘭と一緒にいると、胸が締め付けるように苦しくなり、鼓動が速まるのを感じるのだった。
名無しの権兵衛と呼んでいた相手は、自分がかつて憧れた月華の弟だった。
そしていつの間にか彼を好きになってしまっていた。
出逢いはあんなに最悪だったはずなのに——。
菊夏がそんなことを考えていると後ろから強い口調の声が聞こえてきた。
「菊夏っ! 湯が溢れている!」
曼殊沙華を摘んで戻ってきた悠蘭にそう言われ、鍋の方へ向き直ると確かに沸いた湯が今にも蓋を持ち上げようとしていた。
慌てて蓋を取ろうとした菊夏は素手でそのまま触ってしまい、あまりの熱さに無意識で蓋を手放した。
床に落ちた鍋の蓋が大きな音を立てる。
左手の指先にじりじりと熱さを感じて咄嗟に耳たぶに触れたがその手を、駆け寄った悠蘭が掴んで近くにあった水を張った桶に突っ込んだ。
「大丈夫か!? 火傷したかもしれないな」
「だ、大丈夫です。一瞬のことでしたし……」
「痛みはないか」
「もう平気です。あ、ありがとうございます。それより悠蘭様、曼殊沙華を……」
菊夏は軽く赤らんだ頬を見られないように目を背けながらそう言った。
悠蘭から花を受け取ると水を張った桶に球根部分を浸し、沸かした鍋の湯にはすりおろすために使用する道具を入れ煮沸をし始めた。
菊夏が手際よく処理していく様子を見て安心した悠蘭は、少し出てくると厨を後にした。
悠蘭のいなくなった厨で菊夏は自分の手を見つめた。
ただの成り行きとはいえ、再び手を握られたことに動揺した心を鎮めようと深呼吸した菊夏は作業を続けた。
煮沸した道具を丁寧に鍋から取り出していく。
すると、それを手伝おうと近づいて来た女中が話しかけてきた。
菊夏よりもずっと年上に見える。
「あなたは悠蘭様のお相手なのですか?」
「お、お相手っ!? ち、違います。私はただ、あの人に頼まれて薬を作りに来ただけで……」
両手をぶんぶんと振りながら否定した菊夏を疑わしく見つめながら女中は彼女が鍋から取り出した道具を受け取り、次々と作業台へ並べていった。
「そうなのですか? 何だか悠蘭様のあなたに対する態度がこれまで見たことないほど優しそうだったから、てっきりお相手なのかと思いました」
「……え?」
「だって悠蘭様ったら、火傷したんじゃないかって慌てて駆けよっていらしたでしょ。いつもは他人に対して無関心なのにあんなに積極的に動いていらっしゃる悠蘭様は初めて見ました」
「…………」
「きっとあなたのことがとても大事なのですね。月華様といい、悠蘭様といい、お見合いではなくご自分で伴侶を見つけられるのだから、さすがです。あなたも百合様のようにそのうちこの九条邸に暮らすようになるのかもしれませんね。でも残念……月華様に続き、悠蘭様まで婚姻されてしまうなんて」
菊夏は、女中が言うとおり悠蘭のもとに嫁ぐことができればどんなに幸せだろう、とふと思った。
もはや、鬼灯が用意してくれた縁談にも興味はなかった。
ただ、今はその想いを告げるべきではない。
まずは李桜を助けるための催吐薬を作らなければ——菊夏は、水に浸していた曼殊沙華の球根を取り出すと、無心で細かく刻んですり鉢ですりおろし始めたのだった。




