第4話 父との約束
陰陽頭に就任してから半年——九条悠蘭はかつての師が纏っていたものと同じ紫の狩衣に身を包み、九条家の邸へ帰ってきた。
土御門皐英がこの世を去ってからというもの、皐英が抱えていた仕事の多さに悠蘭は改めて驚かされた。
悠蘭は皐英のような呪術使いではないが、陰陽寮を取り纏める才を発揮し、さすがは九条家の一員だと朝廷でも認められるようになっていた。
彼はこの日も、地方へ祭祀に出向いた帰りに、京都御所へ向かう途中で九条家へ立ち寄った。
仕事の息抜きに邸に戻ってきた時には必ず華蘭庵に顔を出すことにしている。
声をかけながら静かに襖を開くと、そこには文を胸に抱え涙を流す百合の姿があった。
「義姉上、具合でも悪いのですか!」
悠蘭は慌てて百合のもとに駆け寄った。
百合は一瞬驚いた様子だったがすぐに涙を拭うと満面の笑みで答えた。
「悠蘭様、ご心配には及びません。ただ、月華様がもうすぐお戻りになると文をくださったので嬉しくて」
「兄上が鎌倉から?」
「ええ。この文が届いたのは3日前なのですが、何度読み返しても嬉しくて涙が出てくるのです。何でも急用だそうでしばらくはこちらに滞在できると……」
百合から文を受け取った悠蘭は急いで内容に目を通した。
確かにそこには2、3日の後に京へ戻ると書かれてある。
「兄上は帰ってきてもすぐに鎌倉に戻っていましたから、しばらく滞在できるのなら義姉上も安心ですね」
嬉しそうに頷く百合を見て、悠蘭はすっと肩の荷が下りた心地だった。
半年前、後ろ髪を引かれるようにして身重の妻を京へ置いて鎌倉へ向かった月華からは、後に百合を頼むという内容の文が悠蘭のもとに内々に届けられていた。
悠蘭と月華はよく間違えられるほど容姿が似ている。
そんな自分の姿を見れば少しでも気休めになるかもしれないと思い、ことあるごとに百合の話し相手になってきたが、月日が流れ百合と親しくなればなるほど、やはり自分では月華の代わりにはなり得ないのだと思い知らされた。
ふたりの絆はそれだけ深いところで繋がっており、百合の悩みは月華にしか解決することができないのだろうと悠蘭は痛感している。
自分には経験がないが、心から人を愛するとこんなにも惹かれ合い、互いが必要不可欠となるものだろうか。
考えてみてもやはり今の悠蘭には答えが出なかった。
彼がぼんやりと考えごとをしていると、急に後ろの襖から声が聞こえた。
「悠蘭、戻っておったか。探したぞ」
悠蘭が振り向くとそこには息を切らせて走ってきたと思しき父の姿があった。
遅れて追いかけてきた松島も大きく肩を上下させている。
「どうされたのですか、父上。そんなに急いで心の蔵に良くないのではないですか」
「お前、ますます言うことが月華に似てきよったな……いや、そんなことはどうでもよい。それより、月華がしばらくこちらに滞在できるようだと聞いたか?」
「今し方、義姉上からお聞きしたところです。それが何か?」
走ってきて確認することか、と悠蘭は訝しげに父を見上げた。
そんな悠蘭の様子を気にするでもなく、時華は悠々と言い放った。
「よい機会だ。月華が戻ってきたらこの華蘭庵の隣に土御門の慰霊碑を建てるぞ」
「…………」
悠蘭は一瞬、言葉を失った。
半年前に紅蓮寺で交わした約束のことを時華が覚えているとは夢にも思っていなかった。
ただ自分を励ますためにした話だと思っていたのである。
もうひとりの兄と慕った土御門皐英という人は、やはり罪人として処されその骨を拾うことも許されなかった。
悠蘭にとってその大切な故人の慰霊碑を建てることができるのは、この上なく嬉しいことだった。
「あの話、本気だったのですか父上」
「ん……? 私は約束を反故にしたことなどないぞ、悠蘭。お前は目を離すとすぐに邸から出て行ってしまうから急いで来てやったというのに、何を呆然としておる」
「ですが、文の内容からすると兄上が戻るのは間もなくですよ。今から石屋に依頼しても間に合わないのではないですか」
「石ならもうできておる。お前と約束した後、すぐに石屋へ注文しておいたのだ。先日、完成したと知らせがあってな。後は設置するだけだったのだが、お前は月華にも立ち会ってほしいと言っていただろう? この機を逃す手はない」
不敵に笑う父に悠蘭は大きく頷いた。
これで皐英の供養ができる。
悠蘭にとって、それが何よりありがたいことだった。
「よかったですね、悠蘭様。月華様もきっと望んでいらっしゃいますよ」
「……そう、でしょうか」
「ええ。対立してはおりましたが、月華様と皐英様のおふたりは通じ合うものがあったのだと思います」
「だと嬉しいのですが……」
はにかみながら笑う悠蘭の様子に、百合は安堵した。
月華が鎌倉へ旅立ってからというもの、ことあるごとに気にかけて声をかけてくれた義弟だったが、その心はどこか遠くに置いてきているのではないかと感じることよくあった。
表向きは以前よりも明るく振舞っているものの、ふとした瞬間に表情が陰ることに百合は気がついていた。
罪人となって供養すらできなかった皐英のことを悔やんでいるのだろうと思い、そのことには触れてこなかったが、これでひと区切りつけることができるだろう。
表立って口には出さなくても、月華だけでなく悠蘭にも深い愛情を注いでいるのだと改めて百合は義父に対し、尊敬の念を抱いた。
「まだ、話の途中で申し訳ないのですが、次の約束があって御所へ行かなければならないので俺はこれで失礼します」
悠蘭は立ち上がると一礼した。
「今来られたばかりなのに、もう行かれるのですか。もう少し休んで行かれては……」
「そうもいかないのです、義姉上。実は李桜さんに呼ばれていまして」
心配そうに見上げる百合に悠蘭は苦笑しながら言った。
「李桜様に?」
「ええ。用件は聞いていないのですが、何やら深刻な様子だったので」
「そうなのですか。悠蘭様、ご自愛くださいませ」
百合の言葉に頷くと、悠蘭はすぐに華蘭庵を出て行った。
「相変わらず忙しいやつだ。走ってきて正解だったな、松島」
松島は呼吸を整えながら何度も頷いた。
「それはそうと百合殿。月華がしばらく戻ってくるとなると華蘭庵は少し手狭ではないか」
時華は百合に向かい合って膝を折ると、心配そうにその顔を覗き込んだ。
「大丈夫です、父上様」
「そうか? 月華などはその辺に転がしておいても問題なかろうが……」
「こ、転がして?」
「戦場を駆けまわるようなやつだ。草の上でも寝られるのではないか」
冗談でなく本気で言っているとわかり、百合は笑いを堪えるのに必死だった。
「私の寝泊まりする寝殿の左右には対になる部屋があってな。昔、月華が使っておった東対が空いたままになっておる。そちらの方がここよりはずっと広いが……」
「いいえ、父上様。この華蘭庵で十分です」
百合は微笑んで答えた。
月華さていてくれれば、他には何もいらない。
百合はその言葉をそっと心の中にしまった。
一方、九条邸を出た悠蘭は次なる目的地——京都御所に向かうため、邸の前に停まった牛車に乗り込んだ。
ゆっくりと動き出した牛車に揺られ、悠蘭は物見から外を眺めた。
思い返せばいつでも月華を中心に物事が動いている、と悠蘭は思う。
月華がしばらく京に滞在できることを百合が喜び、父は悠蘭との約束を果たすという。
(どんなに背伸びしてもやはり兄上には敵わないんだな……)
悠蘭は苦笑した。
いつだって背伸びしても月華には到底及ばない。
武術の達人である雪柊が目をかけて育て、鎌倉一の武将と謳われる北条鬼灯が我が子のように可愛がり、朝廷一の切れ者の言われる西園寺李桜が一目置いているのだ。
遠く及ばないのは当然のことだった。
(それにしもて……李桜さん、一体何の用だろうか)
悠蘭は用向きも言わず至急と御所へ呼びつけた李桜のことを思い浮かべた。
李桜は理由もなく気分で人を招集するほど暇な人ではない。
何か必要なことがあるから招集しているのだろう。
(何か良くないことが待っているに決まっているな)
そんなことを悠蘭が思っていると、何の気なしに眺めていた路地に見知った人物を見つけた。
(あれは……)
それは京の中を出歩いていることが珍しい近衛椿の姿だった。
ひとりではなく、連れがいるようだ。
何やら楽しそうに談笑している様子だった。
外を出歩くと目立つからとたまに外へ出る時には牛車で行かせていると李桜から聞いていたが、今日は牛車を使っていないらしい。
しかも見知らぬ人物と一緒にいるのを不審に思い、目を離すことができず見えなくなるまで目を凝らしていた。
が、やがて牛車が京都御所の敷地に入ったことでその姿は見えなくなった。
牛車を降りて中務省の建物に辿り着くと、ひとりの中堅官吏が悠蘭を出迎えた。
「これは陰陽頭。こちらにおいでとは珍しいですね」
「中務少輔はいらっしゃるのだろうか。呼ばれて参ったのだが」
「ええ。兵部少輔もおいでです。どうぞ中へ」
官吏の案内で中に入り、廊下を歩きながら悠蘭は首を傾げた。
(椿殿と一緒の人物は、誰だろうか。色白の……男?)
椿と見知らぬ人物との映像が頭から離れず、悠蘭は厄介なことが増えそうな予感に深いため息をついた。