第39話 盛られた毒
「今出川……殿? なぜここに……」
「走って御所を出ていったそなたが気になって追いかけてきたのだ」
悠蘭の疑問に答えると、楓は店内をぐるっと見回した。
袖の破れた悠蘭の姿、涙を浮かべる菊夏、その横には短刀が突き刺さり、床に伏せて縄を打たれる店主と思しき男と、それを取り押さえるようにする兵部少輔——どれをとっても何か事件が起こった後であることは明らかだった。
「説明してもらえるのだろうか、陰陽頭」
冷静に状況を見ている楓に悠蘭は頷いて語り始めた。
「御所の中でこのみつ屋の店主は実は偽物だと噂されているという話を耳にして、もしや一連の毒殺事件に関わっているのでないかとここへ来たのですが——」
「それでなぜ菊夏殿と兵部少輔がいるのだ?」
「彼らは偶然この店に入って来て、巻き込まれただけです」
「なるほど。で、兵部少輔——その者は一連の事件の犯人だったのか」
「それはわからねぇが、こいつ、俺たちのあんみつに毒を盛りやがったんだ。俺たちを殺そうとしてたのは間違いねぇよ」
憤然と言い放つ紫苑の話を、楓は腕を組みながら黙って聞いていた。
「俺たち3人は、同じあんみつを注文した。たまたま迷い込んだ野良犬が欲しそうにしてたから俺が餡を分けてやったんだ。そうしたら泡を吹いて死んじまったんだよ。俺たちの誰がどのあんみつを手に取るかわからなかったはずだ。だとすれば全部に毒が入ってるに違いねぇよ」
すると菊夏は楓に向かって気丈に言った。
「楓様、違うのです。たぶんあの人が殺そうとしていたのは私なのです」
「菊夏、どういうことなんだ。先刻も何かそのようなことを言おうとしていたな」
悠蘭は菊夏を心配そうに覗き込んだ。
「理由はわかりませんがどうやら私は三の姫と呼ばれる方と間違われているようなのです。昨日、何者かに襲われた時にもお前は三の姫か、と問われて……」
不安を滲ませ言葉に詰まる菊夏の肩を悠蘭は再び静かに抱き寄せた。
すると、それまで黙っていた店主がうなるような声を上げ、縄で縛られた体をよじらせた。
「ち、ちょっと待て。女、お前、三の姫ではないのか」
「何言ってやがる。この人は北条家の娘だ。近衛家の三の姫なら今頃、安全な場所にいる。そもそも何でそんな勘違いをしちまったんだ?」
店主を押さえつけながら紫苑は苛立ちを隠さなかった。
床に頬を擦りながら苦しげに店主は答えた。
「あの方がその女は例の事件に深く関わった家の娘だと教えてくれたからだ」
「あの方? それは誰のことなんだよ!」
「び、白檀様だ、茶人の……」
その場にいた全員が互いの顔を見合った。
菊夏以外の全員が少なからずその茶人を知っていたからである。
ただの茶人であるはずの男がなぜ店主を唆すようなことをしたのか、全員が同じ疑問を抱えていた。
「口から出まかせを言ってやがるのか?」
「嘘ではないっ。お前たちはあの方がどういう方なのか知らないだけだ!」
「お前の勘違いじゃねぇのか?」
そのまま店主は返事をするのも面倒になったとばかりに大人しくなった。
悠蘭は店主の口から茶人のことが語られたことで、事件の真相に一歩近づいたような気がしていた。
みつ屋に来た目的は、毒殺事件が始まった頃に店主が入れ替わっていたらしいという話を聞いたからだった。
目の前の店主を見る限り、やはり噂が本当だったことは明らかだ。
そして、同じ頃から出入りし始めた色白の茶人——白檀が、この店主を唆していたこともわかった。
こうなれば発端は白檀という男に違いない。
そう悠蘭が核心を得た時、それまで静観していた楓がおもむろに呟いた。
「そう言えば、李桜も白檀殿のことを調べていたようだったな」
「李桜さんも……? 今あの人は御所にいるんですか」
「いや、出掛けた……ん? 待て——李桜は今、白檀殿のいる菫荘にいるのではないか」
「はっ? どうして……」
「今朝、私に菫荘の地図を書けと言って血相を変えて出て行ったのだ。そういえばあれからまだ戻っていない」
楓の話を聞いた紫苑は、縄で締め上げた店主を動けないように足で踏みつけると、腕を組みながら眉根を寄せた。
「おいおい、それってやばいんじゃねぇか。もしこいつが言ってる通り白檀殿が元締めだったとしたら、李桜のやつは単身で敵の懐に入り込んだってことだよな?」
「……様子を見に行った方がよいかもしれぬ。李桜は仕事熱心な男だが不用心ではない。危険があるとわかって長居するはずはないのだ。もし白檀殿の何かを掴んでいるのだとしたら危険を感じた時点で身を引くはず。それがまだ戻らぬということは、戻れぬ状態なのかもしれぬ」
「今出川殿、縁起でもないこと言うなよ。李桜は簡単にくたばったりしねぇよ」
楓に啖呵を切りつつ、紫苑は悠蘭に向かって言った。
「悠蘭、悪いが李桜の様子を見に行ってくれねぇか。俺は今こいつのせいで手が離せねぇ。今のお前の実力なら大抵のやつとは戦える」
「相手が大抵のやつの範囲に収まっていてくれることを祈りますよ」
頷いた悠蘭は、ひと言皮肉を漏らすと菊夏の手を取った。
「菊夏はここにいろ。俺は李桜さんのところへ向かう」
背を向けて立ち去ろうとした悠蘭の袖を菊夏は強く掴んだ。
「わ、私も行きます!」
「は……? 君も?」
「ここにいても、役に立ちませんし……」
だからと言って悠蘭について行ったところで役に立つわけではなかったが、勘違いだったとはいえ、自分を狙っていた人物と同じ場所にいるのはあまりにも不安だった。
袖を掴んできた菊夏の手が少し震えているのを見て、悠蘭はどうするべきか思案した。
この場所にひとり取り残されても不安なことは理解できるが、李桜のもとへ一緒に行ったところで危険がないとは言い切れない。
彼女を守りきれるのか……。
だがもしここで新たな何かが起こったとしても、紫苑の手は塞がっており誰も菊夏を守ることはできない。
答えはひとつしかなかった。
「わかった。君のことは必ず俺が守るから一緒に行こう」
「あ、あの……」
菊夏を伴って店を出ようとした悠蘭の袖を彼女は再び強く引いた。
「ん? まだ何かあるのか」
「悠蘭というのは——」
「ああ、そう言えば先刻、名乗ろうとしたのに話の腰が折れてしまったよな。悠蘭というのは俺の名だ。以後お見知りおきを」
悠蘭は不敵に笑い菊夏の頭にぽんと手を乗せると店の出入り口へ急いだ。
気にかけてくれる些細な心遣いに、菊夏はいつの間にかそれまで感じていた恐怖感が払拭されていた。
悠蘭の背中を追いかけながら、不謹慎にも鼓動が高鳴ってしまう。
「待て、陰陽頭」
「何ですか?」
「菫荘の場所はわからぬだろう。私が案内する」
「……昨日、あんなに冷たく当たってしまったのにいいんですか、今出川殿? 俺のことを不愉快に思っているのでは……?」
「昨日のことは気にしていない。私も悪かった。それに今朝、李桜から半年前の事件の片鱗を少し聞いたのだ。そなたたち兄弟のこともな。いろいろ事情があることは承知している」
「今出川殿……」
「楓でいい。そのように堅苦しく呼ばれることは好きではないのでな」
「では俺のことも悠蘭、と……」
新たな味方を得た悠蘭は、楓と強く頷きあってみつ屋を出た。
楓の案内で迷うことなく菫荘に辿り着くと、悠蘭は何かが潜んでいることも考慮して楓と菊夏を後ろ手に控えさせると勢いよく引き戸を開けた。
中を覗き込むと人の気配はなかったが、畳に倒れ込む李桜の姿が目に入る。
「李桜さんっ!」
慌てて履物を脱ぎ捨てると悠蘭は、駆け寄った。
倒れる李桜の口元に耳を寄せると、かすかに呼吸音が聞こえてくる。
続いて入ってきたふたりもその光景に驚愕して立ち尽くしていた。
「悠蘭殿、李桜は無事なのか」
「息はまだありますが意識はありません」
「白檀殿はいないようだが……一体何があったのだろう」
悠蘭は李桜の体を駆け寄ってきた楓に預けると、室内を見回した。
人の気配はないが火を落とした囲炉裏にある釜からはまだかすかに湯気が立ち上っている。
茶道具はきれいに整えられているが使い終わったと思しき茶碗が残っているところを見ると、李桜は白檀の点てた茶をここで呑んでいたに違いない。
悠蘭は湯の入った釜に顔を近づけた。
ほんのりとゆりの香りが残っている。
「悠蘭様……どうされたのですか」
「……菊夏、李桜さんは毒を盛られたのかもしれない」
「毒を!?」
「ああ。この釜の湯から、かすかにゆりの香りがしないか」
そう言われ、菊夏も釜に顔を近づけてみた。
確かに彼の言うとおりほんのりではあるがゆりの香りが鼻を掠めた。
「ゆりの毒、なのでしょうか」
「いいや、おそらく鈴蘭の毒だと思う」
「鈴蘭、ですか」
「鈴蘭の毒は簡単に水に溶け出すんだ。水に溶けるとほんのりとゆりの香りを発するようになる。切り口を浸した水をこの中に混ぜて、これで茶を点てれば簡単に毒を呑ませることができるだろう。釜はまだ温かいから毒を盛られてからまだそんなに経っていないはずだ」
「ですが、鈴蘭の解毒薬なんて作ったことがありません」
「ないんだ」
「……えっ?」
「附子と同じで鈴蘭にも解毒薬がないんだよ」
悠蘭はかつて皐英に教えられた知識を必死に思い出していた。
附子同様、猛毒を含む鈴蘭にも解毒方法がないと教わった。
だが助ける方法がないわけではない。
それも皐英から教わった方法がある——。
「解毒薬がないとしたらどうすれば李桜様を助けることができるのでしょうか」
「方法がないわけじゃない。君は催吐薬を作ったことはあるか」
「あ、はい。それなら何とか……。誤飲した時に呑ませるように作ったことがあります」
「よし、じゃあまず薬を作りに行こう——楓殿、李桜さんはおそらく毒を盛られています。まだ全身に毒が回るまでには猶予があるはず……俺たちは薬を調合してきますので、しばらくここをお願いできますか」
悠蘭と菊夏は履物に手を伸ばしながら言った。
李桜の容態も気になるところではあったが、ここが安全である保障もない。
そんな状態で置いておかれて大丈夫なのかという不安がよぎった楓は訝しげに答えた。
「それは構わぬが、ここは本当に安全なのか」
「安全かどうかはわかりませんけど……おそらく毒を盛った者はここへは帰って来ないでしょう。あまりにもきれいに片付き過ぎている。ここへは誰か人を寄越します。それに間もなく手が空けば紫苑さんも駆けつけるはずです。紫苑さんが到着したら、李桜さんを西園寺邸へ運んでください。ここよりは幾分、安全でしょうから」
ひとしきり説明すると悠蘭は菊夏を伴ってすぐに菫荘を出て行った。
人けがなくなり静かになった菫荘の中で楓は意識のない李桜をじっと見た。
顔は青ざめて血の気を失い、うめき声すらあげない様子はまるで死んでいるかのようだった。
「……悠蘭殿はあんなことを言っていたが、本当にここは大丈夫なのか?」
かつて白檀の点てる茶を呑みながら談笑したこの菫荘も、誰もいないとなると不気味に感じる。
楓はぐったりとした李桜を相手にひとりごちた。
「それにしてもあの九条悠蘭という男、ただ者ではないな。朝廷内でかつて、優秀な兄の影に隠れる弟などと揶揄されていたが、あれは真っ赤な嘘だったということか。九条月華といい、悠蘭といい、お前はとんでもない者たちを味方にしているのだな、李桜」
白檀という主を失った菫荘の中で楓は茶人と楽しく語った日々を思い出す。
なぜこんなことになってしまったのだろう、と。




