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風雅の君  作者: 神間 那古井
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第35話 柿人の怨霊

 ようやく二日酔いから解放された九条悠蘭(くじょうゆうらん)は、高く昇った日に照らされながら眩しさで思わず目を細めた。

 そろそろ昼餉の時刻なのだろうが、食欲はまったくなかった。

 陰陽寮(おんみょうりょう)へ向かうために京都御所の門を潜りながら月華つきはなとの今朝のやり取りを思い出す——。

 西園寺さいおんじ邸から戻った悠蘭は、九条邸の前で兄の月華に遭遇した。

 兄は自分が酔いつぶれて寝ている間に六波羅ろくはら御所と紅蓮寺ぐれんじへ行っていたらしく、今戻ってきたところだと爽やかに語った。

 多量の酒を呑んだはずなのにまったく影響していないところが、いくら酒豪とはいえ悠蘭には理解できなかった。

「悠蘭、二日酔いなんじゃないか」

「……おかげさまで」

「まあ、二日酔いは病気ではないから酒が抜ければ体調は戻るだろう」

「……俺はもう子供じゃないんですから、大丈夫ですよ」

「そうだったな。お前も、もう妻を娶るような歳になったんだよな」

「……っ、兄上、その話は邸の中ではしないでください!」

 悠蘭は慌てて月華の口元を押さえた。

 嬉しそうにする月華を見ながら、そのやり取りがまるで子供の頃に戻ったようだと悠蘭も内心、嬉しかった。

 ふたりを見かけた門番に中へ通されると、悠蘭はおもむろに口を開いた。

「そんなことよりすでにお聞きかと思いますが皐英(こうえい)様の慰霊碑を華蘭庵(からんあん)の隣に建てたいのですが……」

「ああ、松島から聞いている。あの辺りがいいんじゃないか。石はもうできているんだろう?」

 そう言うと月華はその個所を指さした。

 中島に建つ華蘭庵の麓にあたる場所である。

 悠蘭がその辺りへ目をやると、そこにはこれまでなかったものが存在していた。

「あれは……曼殊沙華? あんなもの、今まであったかな」

 悠蘭は、慰霊碑建立場所にと月華が示したところの近くに咲く数本の紅い花を指さした。

「あの曼殊沙華は一昨日、紅蓮寺に行った時に雪柊(せっしゅう)様から分けていただいたものを俺があそこへ植えたんだ。なんとなく最期にあいつと会った風景が忘れられなくてな」

「最期に会った場所?」

「ああ。百合ゆりの異能のことは聞いているか」

「ええ、何となくは」

土御門つちみかどが死ぬ寸前、百合はその異能を使ってあいつの業を解き放った。その異世界のような場所が曼殊沙華の庭のような場所だった。どこまでも紅い花が広がっていた」

「俺も見たかったな、その庭」

 月華は苦笑しながら続けた。

「皐英が亡くなってからしばらく経ったある日、あいつは俺の夢枕に立ったんだ」

「夢に?」

「同じ曼殊沙華の庭で言葉を交わしたのが最期だった。あれ以来、夢にも出てこなくなったよ」

 確かに紅蓮寺で宴を開いた日、月華からそんな話を聞いたことを悠蘭は思い出した。

 丁重に弔ってやれ。

 そう言われたことが、涙が出るほど嬉しかったのを覚えている。

「兄上は皐英様のことを恨んではいないのですか」

「殺したいほど憎いと思ったことはあるが今はむしろあいつに同情している」

「同情、ですか」

「土御門皐英という男は左大臣の命で輪廻の華を手に入れようとしていたが、本人は百合の持つ異能などにはまったく興味がなかった。ただ、あいつは百合を女として欲していたから執拗に追いかけてきたんだ。だから、あんな企みに巻き込まれることなく、互いに違う形で知り合っていたなら正々堂々と恋敵として戦えただろうと思う」

 月華は遠くを見ながら優しく目を細めていた。

 その横顔を見ていると、もう憎しみや怒りといった感情はないのだとわかる。

 悠蘭は、月華が皐英のためを想って曼殊沙華を植えてくれたことがこの上なく嬉しかった。

「悠蘭、菊夏(きっか)殿のことだが——」

「で、ですから兄上、その話はここではしないでくださいと言っているではないですか」

 悠蘭は声を潜め、話が漏れはしないかとひやひやしながら辺りを見回した。

「大事な話だろう? 父上は武家の娘であってもお前が決めた相手なら構わないとおっしゃったぞ」

「父上に話したのですか!?」

 周囲の者が何ごとかと振り返るほど大きな声を出して悠蘭は月華の腕を掴んだ。

「ああ、話した」

「内緒にすると約束してくれたから話したのに、ひどいではないですか!」

「悠蘭——公家が武家の娘を嫁にもらうのは簡単な話じゃない。公家の娘が武家に嫁に行くのとはわけが違うんだ。家に認められなければ、お前だけでなく菊夏殿もいらぬ苦労をすることになる」

「……っ」

「だが、父上がお認めになったからにはお前たちのことは俺も含めて九条家が全力で守る。だから菊夏殿を妻にと望むなら、何があっても彼女を離すなよ」

 そんなことは言われなくてもわかっている。

 悠蘭は肩を落として答えた。

「ですが、俺たちは夫婦になっても今のままでは幸せになれません」

「どうしたら障害を乗り越えられるのかは、お前が考えるべきことではないか。障害は誰にでもあるんだ。環境のせいにして自分を偽るようなことだけはするなよ。大事なのは決して諦めないことだ。いいな、悠蘭?」

 ——悠蘭は月華の言葉を思い出し、深くため息をついた。

 考えれば考えるほど障害しかないように思えたからである。

 どんなに好いた相手だとしても、ふたりが置かれている立場はあまりに違い過ぎる。

 公家と武家というだけでなく、互いに大事な仕事を持ち、それぞれの立場を離れることができない。

 その上、みやこと鎌倉ではあまりに遠い。

 すべての障害を取り除く方法があるようには到底思えなかった。

 悠蘭が呆然と歩きながら御所の門を潜ると、中から出てきた同じ年頃の官吏がふたり、不満そうに話をしながら歩いていた。

 面識はないが、ふたりは中務省なかつかさしょうで見たことがある男たちだった。

 近づいてくる彼らの話がすれ違いざまに自然と耳に入ってくる。

「おい、最近みつ屋の味が落ちたと思わないか」

 官吏のひとりが言った。

「ああ、それは他のやつらも噂していた。何でも半年ほど前に以前の店主が急にいなくなって気がついた時には今の店主が後を引き継いでいたらしいな」

「半年前か……それは気がつかなかった。いちいち店主の顔なんて覚えていないからな。だが、何だか気味が悪くないか?」

「気味が悪いとは?」

「半年前といえば、六波羅ろくはら柿人(かきひと)様が征伐された頃じゃないか。例の毒殺事件が始まったのも半年ほど前からだろう? おまけにみつ屋の前の店主が行方不明になったのも半年前だとすると、いよいよあれじゃないか」

「あれ……?」

「柿人様の怨霊だよ」

 すれ違ったふたりの話に興味が沸いた悠蘭はその足をぴたりと止めた。

 そっと振り向き彼らの話に耳を澄ませたがふたりは気づかずに通り過ぎていった。

 若い官吏のひとりは声を潜めて続けた。

「処刑された柿人様が毒殺犯を操って京に混乱をもたらしているんじゃないか。みつ屋の消えた店主が悪霊となった柿人様に操られて——」

 両手を上げて襲い掛かるようなそぶりを見せる官吏に、もうひとりの官吏は身震いした。

「やめろ、縁起でもない。昨日、陰陽頭(おんみょうのかみ)が悪霊祭を執り行ったばかりじゃないか。滅多なことを言うものじゃない。そんなことを言っているとお前が憑りつかれるかも——」

 悠蘭は会話をしながら去っていった官吏たちに背後から近づき、そのうちのひとりの肩を掴んだ。

 話に夢中になっていた彼らは悠蘭の存在に気づいていなかったようで、振り向きざまに陰陽頭に向けた顔は驚愕に満ちていた。

「お、陰陽頭っ! も、申し訳ありません。今のは決してあなたの噂をしていたわけではなく……」

「そんなことはどうでもいい。君たち、今のみつ屋の話をもう少し詳しく聞かせてくれないか」

「はっ……? みつ屋の話ですか」

「そうだ。半年前に前の主人が姿を消したと聞こえたが」

 噂話をしていたことを咎められるかと思って怯んだ官吏だったが、特に気にしている風でもない悠蘭の様子を見て平静を取り戻し、彼の問いに答えた。

「あ……え、ええ、そのように噂されています。半年ほど前から怪しい茶人らしき人物が出入りしているようで、どうもそのあたりからみつ屋の店主は別の人物にすり替わったのではないかと……」

「その怪しい茶人の特徴は?」

「さ、さあ。直接見たわけではありませんが、みなの噂では色白の不思議な雰囲気を持った男だったと聞いています」

 それを聞いて悠蘭は言葉を失った。

 色白の不思議な雰囲気を持った茶人——それは昨晩、紫苑(しおん)の話に出てきた白檀びゃくだんという男のことではないのか。

 椿つばきが茶の湯を習い始めた頃に牛車から見かけた男のことかもしれない。

 白檀はもともとみやこにいた人物ではないらしいが……。

 官吏たちの噂が正しいとすれば、半年ほど前からみつ屋に出入りしていることになる。

 そして、毒殺事件が始まりだした頃にすり替わったと噂されるみつ屋の店主。

 白檀とは知り合いなのだろうか。

 いずれにしてもすべては噂話であって証拠があるわけでない。

 直接、みつ屋の店主に確認する以外に、真実を知る術はない。

 悠蘭は御所の外へ出ると大路を勢いよく駆け出した。

 ただの噂であって、みつ屋も茶人も毒殺事件に関係ないとわかればそれでいい。

 みつ屋には菊夏も現れることがある。

 昨日、突如襲われた彼女に再び危険が迫っているような漠然とした感覚に全身を支配され、悠蘭は今すぐにでも真実を突き止めなければ気が済まなかった。

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