第31話 蝶の正体
月華が六波羅に到着する頃、すでに辺りは明るくなっており、朝議が始まる刻限になっていた。
ほとんど出廷することがない鬼灯は邸にいるのだろうと踏んでやって来たが、門番によると早朝に出て行ったきり、まだ戻っていないという。
月華は女中に案内された鬼灯の書院で、彼を待つことにした。
一昨日、月華は備中国にいた。
それはかつて近衛柿人が応援を頼んだ文が備中国宛になっていたと聞いていたからだった。
懐から紙を一枚取り出すと、そこに書かれた家紋を眺め月華は小さく息を吐く。
(もしかしたら俺たちは大きな取り違いをしていたのかもしれないな)
月華が手元の家紋に目を落としているとおもむろに襖が開き、待ち人ふたりが同時に現れた。
「月華、待たせたようだな」
鬼灯と李桜が一緒に現れたことに月華は目を丸くした。
「門の前でばったりお会いしたんだ。松島殿が言伝に来たことにも驚いたのに、息を切らせて走ってる鬼灯様にはさらに驚かされたよ」
「椿殿が九条家にいるのなら安心だ。取り越し苦労だったようだ」
「何の話かまったく見えないのですが……」
「ああ、そうだな。順を追って説明しよう」
鬼灯は李桜を促して腰を下ろすと、菊夏が襲われた理由、椿の身を案じて西園寺邸に行っていたことを詳細に伝えた。
「李桜の家へ行ったがもぬけの殻で誰もいなかった。仕方なく戻ってきたところ、門前で李桜と鉢合わせたのだ。椿殿が九条家にいると聞いて一安心だ」
「そうですか。確かに九条家の中までは何人たりとも簡単には入れませんから安全といえば安全ですね。李桜が昨夜、椿殿と仲たがいしたことがある意味、功を奏したかもしれないな」
「何だよ、月華。怪我の光明とでも言いたいの?」
むっとした顔の李桜をよそに、鬼灯は月華に向き合った。
「して、月華はここで何をしていたのだ。菊夏なら別の部屋にいるが……」
「鬼灯様に報告があって参ったのです」
「報告?」
「月華、それってもしかして西国の話?」
月華は頷くとふたりに手元の紙を差し出した。
そこには2枚の羽根を重ねたような揚羽蝶の家紋が描かれており、月華の手書きなのだとすぐにわかるものだった。
「実はこの一連の毒殺事件が半年前の件と関わっているのではないかと李桜が言うので、一昨日、西国に行っておりました。あの事件で鬼灯様が見たという、近衛柿人が文を送ろうとしていた国です」
「お前は備中国に行っていたのか。それで、何か掴めたのか?」
「助けを求めたという備中国と例の件はやはり関係があるかもしれません」
「それとこの家紋が関係あるってこと?」
李桜の問いに月華は困り顔で答えた。
「そのようだ」
「どういうことだ、月華」
「李桜の推察通り、近衛柿人が単独で倒幕を目論むのは考えにくいとするなら後ろ盾をしてくれた、柿人が助けを求めた家が必ずあるはずだと思い、備中国では一番大きいという、とある武家に向かいました」
月華はふたりに詳細を語った。
大きな邸を構えたその武家の門前近くまで辿り着いた彼は、そこに刻まれた家紋をはっきりと見た。
門には大きく三つ巴が刻まれており、多くの武士が出入りしていた。
しかしその中に出入りする一部の武士は違う家紋を掲げていた。
「実は出入りする武士の中に、その家紋を刀に入れた者が何人かおりまして……」
月華の言葉に、李桜と鬼灯はまじまじと手元の家紋を眺めた。
だが、それが何を意味しているのかふたりにはまったくわからなかった。
「その家紋は以前、百合の手に付けられたあざと同じなのです」
「…………」
「百合が土御門皐英に攫われたのは、やつが百合にその蝶の印をつけたことが発端でした。あの時、悠蘭は百合の手のあざを見て土御門家の家紋によってやつと百合の縁が強制的に結ばれていると思うと言っていたのです」
「つまり、その西国の武家と京の土御門家が繋がっている、と?」
「いいえ、少し違います。李桜——土御門皐英の記録は朝廷のどこにも残っていないと言っていたな?」
突然話を振られた李桜は一瞬、狼狽したがすぐに平静を取り戻して答えた。
「え、ああ、そうだよ。確かに、土御門皐英って何者なのかわからないっていう話を前にしたよね」
「俺は、百合に付けられた蝶の印は、悠蘭の言う通り土御門家の家紋なのだと思っていた。だが今回、西国に行ってみて実は違うんじゃないかと思えてきた」
「どういうこと?」
「皐英は土御門家の養子だ。やつを土御門家に連れてきたのは近衛柿人だと言っていたな。であれば皐英は柿人の手によって、あるいはその家の依頼で西国から連れてこられたんじゃないか。百合に付けられた蝶というのは土御門家の家紋ではなく、その西国に関係がある家紋だったとしたら?」
「ではそもそも倒幕を目論んでいたのは、近衛柿人ではなくその西国の有力武家ということか?」
「さあ、そこまでは……。ですが、もし皐英は柿人に拾われたのではなく、備中国から送り込まれたのだとしたら、あの三つ巴の家紋を掲げた武家には何かありますね」
3人は一様に首を傾げた。
三つ巴の家紋の武家、そしてその家に出入りしている蝶の家紋を持つ武士の素性がわからない限り、その目的や半年前の事件の真相はわかりそうにない。
「なぜ別の家紋を掲げる武士たちが同じ邸に出入りしているのか、何が目的なのかまではわかりません。ただ言えることはこの揚羽蝶の家紋を持つ何らかの勢力が我々幕府に敵対しようとしているかもしれない、ということです」
「でも月華、その備中国が土御門皐英とつながりがあったとしても、今も何かを企んでいるとは言い切れないんじゃない? だって皐英はもう死んでしまったんだから」
「そうだな。だから李桜にはこの蝶の家紋を持つ家がどこの家なのか調べてほしいんだ。その家がわかれば目的もわかるかもしれない」
李桜は頷くと家紋が書かれた紙を丁寧に折りたたみ、懐にしまい込んだ。
「わかった。毒殺犯の動向も気になるけど、こっちも放っておけないからとにかく調べてみるよ。どこかで毒殺犯に繋がるかもしれないしね」
そう言って李桜はそそくさと部屋を出て行った。
襖が閉まる音が静かな部屋に響き、不気味な空気を醸し出している。
「鬼灯様、ことと次第によっては大事になるかもしれません」
「まあそうなった時はそうなった時で、対処するしかないのではないか。まだはっきりとしたことはわからぬのだろう。その西国の武家と皐英との関係がわからぬうちは懸念していても何も始まらぬ。ところで、毒殺犯の方だが——」
「ああ、菊夏殿が何者かに襲われたことは悠蘭から聞きました」
「そのことなのだが、もし菊夏が三の姫と間違われているとしたら誰かがあれを三の姫だと教えた可能性がある」
「嘘を教えた、ということですか」
「こちらも目的はわからぬがな」
「確かに。椿殿に恨みを抱いているとすればやはり例の件で不利益を被った者の逆恨みと考えるのが妥当でしょうね」
「うむ……」
鬼灯は立ち上がると表情を曇らせたまま、障子を全開にした。
春のさわやかな風が一気に吹き込み、鬼灯の長い髪が風に揺れていた。
すると女中がふたり分の茶を持って現れ、ひとつを月華に手渡してきた。
「それはそうと月華、ひとつお前に相談があるのだが」
「相談、ですか? 鬼灯様が? 何だか気持ち悪いですね……」
「まあそう言うな。実はな、菊夏を悠蘭のもとに嫁に出そうと思うのだがどう思う?」
月華は女中から受け取った茶を口に含もうとしていたところで、手を止めた。
開け放たれた障子から吹き込む風に当たりながら、昨晩の悠蘭の話を思い返す。
酔いつぶれた李桜と紫苑はそのまま寝転がっていたが、相当量を呑んだはずの悠蘭は一度寝た後、目を覚まし辛うじて意識を保っていた。
まだ酔いが回ったまま虚ろな目をしながらも何かもの言いたげにしていた。
「何だ、悠蘭。目が覚めたのか」
「……李桜さんと紫苑さんは酔いつぶれてしまったみたいですね」
「ああ、そのようだ。お前も含め、朝廷の官吏はみな疲れているようだな。単に酒を呑み過ぎたわけでもないのだろう。気苦労が絶えないのだな……」
「……兄上こそ異常ですよ。先日鎌倉から戻られたばかりでお疲れのはずなのに、堪えていないのですか? まったく、酒豪にもほどがあります。あんなに呑んだのに平然としているなんて」
「そう言うな。これでも多少は酔っている」
「そうは見えないのですが……」
確かに顔色ひとつ変わることがない月華は、いつも酔いが回っていないと周りから思われていた。
不満そうな悠蘭に苦笑しながら、月華は言った。
「ところで悠蘭、お前は菊夏殿のことを好きか」
「す、好きに決まっているではないですか。そうでなければ鬼灯様に頼まれたからとて妻にすることを検討する余地などありません」
「そうか……」
月華は、酔いながらもその本心を打ち明ける弟を微笑ましく見つめた。
「菊夏は俺と同じなんです」
「同じ?」
「はい。自分の居場所がなかなか見つけられず、でも今自分が抱えている仕事に誇りを持っている」
「そうだな。確かに菊夏殿は幕府でも優秀な薬師だが、みなよそよそしく接しているのをよく見かける」
「俺は陰陽師である以上、京を離れることができません。兄上のように鎌倉へ行くことはできないんです。でもだからといって俺が菊夏を娶れば、彼女は知らない場所で薬師としての仕事もなく、ずっと家にいることになります。そんなことはさせたくない。だからどんなに望んでも俺たちは夫婦になることはできないと思います。菊夏のためにもならない……」
「——悠蘭。道はひとつしかないわけじゃない。俺と百合だって数々の苦難を乗り越えた。お前たちも夫婦になれる道が何かあるんじゃないのか?」
気がつくと悠蘭は徳利を握りしめたまま再び寝ていた。
当然、月華の言葉は耳に入っていなかった——。
手元の茶をひと口含むと、月華は鬼灯を見上げて言った。
「鬼灯様——悠蘭は菊夏殿のことを好いていますが、ふたりが夫婦になるには少々苦難があるようですよ」
月華の言葉に、鬼灯は振り返り眉根を寄せて言った。
「やはり九条家としては武家の娘をもらい受けることはできぬか」
「いえ、そうではありません。今朝、父にもその話をしましたがもろ手を挙げて喜んでおりました」
「では——」
「当人たちがどのようにそれぞれの苦難を乗り越えるのか、我々は多少の手助けをしながら見守るしかないのではないでしょうか」
そんな月華の言葉に、鬼灯も頷いた。
九条家が武家の娘を受け入れるというのなら、もっとも妨げになるのは菊夏が幕府の薬師であるということだろう。
その立ち位置を菊夏本人が手放さない限りは、確かにふたりが夫婦になることは難しいのかもしれない。
先が思いやられるな。
鬼灯はそんな言葉を呑み込んだ。




