第3話 白檀という茶人
九条家を後にした椿は牛車に乗り込み再び中務省を訪れた。
辺りはすっかり日が傾き、朝廷も昼間の騒がしさとは一変していた。
多くの官吏たちは帰宅した後のようで、中務省も人がずいぶん減っている印象だった。
李桜はすでに帰宅した後だったが、目当ての今出川楓はまだ残っていたようで取次ぎを頼むと、彼はすぐに現れた。
「驚いたな。椿殿、先ほどお帰りになったと思っていたが」
「お仕事中にごめんなさい。どうしても楓様にお願いがあって参りました」
楓は椿が再び中務省に舞い戻ったことにたいそう驚いたが、さらに椿の話を聞いて目を丸くしていた。
「白檀殿に茶の湯を教わりたい、と?」
「はい。九条家の家臣の方に、今出川家が懇意にしている茶人がいらっしゃるとお聞きして……ご紹介いただけないかしら」
「紹介するのは構わないが、なぜ急にそんなことを?」
「……李桜様のためになることをしたくて。家に帰られてもお仕事のことを考えていらっしゃるようなので、少しでも癒しになれればと思っているの」
恥じらいつつ上目使いで様子を伺いながら言う椿に、楓の中には再びいたずら心が芽生えていた。
「ふうん……李桜のためか。何だが妬けるな。紹介するのは構わないが、あなたをお助けするのだから何か礼をしてくださるのか」
「も、もちろんです! でもどうお礼をすればいいのか……私は何も持っていないので」
伏し目がちに言う椿の美しさに目を奪われ、楓は思わず彼女の顎に手を当て、顔を上向かせた。
意地悪く口の端を持ち上げると、顔を寄せて吐息がかかる近さで囁いた。
「では、今度私と逢瀬を楽しんでもらうのはどうだろう」
「お、逢瀬!?」
「別に何をするわけでもない。あなたとは1度ゆっくり話をしてみたかったのだ。茶でも呑みながら、一緒に過ごすだけだが」
「……わかりました。では楓様のご都合のいい日に」
椿は何をされるのかと一瞬、鼓動が早まるのを感じたがただ話をするだけなら、とその申し出を引き受けた。
これが後に大事になるとは、この時の椿は知る由もなかった。
椿の答えに満足そうに微笑んだ楓は1度、建物の中へ戻るとほどなくして地図を描いた紙を1枚持参し、椿に差し出した。
それは茶人——白檀の住まいを記した地図だった。
地図の印をよく見ると、椿が暮らす西園寺邸からさほど離れていないようだ。
(近くに茶人の方が住んでいらしたなんて、知らなかったわ)
椿が地図をまじまじと見つめていると、楓が言った。
「白檀殿へは椿殿が訪ねていくことを伝えておく」
「ありがとうございます、楓様!」
「私もあなたとの逢瀬を楽しみにしている」
「……はい」
椿は深々と楓に頭を下げると、中務省を後にした。
これで李桜の役に立てるかもしれない。
何とも言えない嬉しさを胸に抱き、椿は西園寺邸へ向かった。
邸の前に到着した牛車から降りると、門の前には着替えもせずに朝服のまま仁王立ちする李桜の姿があった。
「李桜様、どうしたの? そんなところに立ち尽くして……」
不思議そうに近づく椿の腕を強引に引くと、李桜はその腕の中に優しく包み込んだ。
「り、李桜様?」
「……無事でよかった」
李桜の腕の中で顔を上げようとすると、彼は一層強く椿を抱きすくめた。
まるでその存在を確かめるように。
椿は何が何だかわからなかったが李桜の腕に包まれていることがただ嬉しくて、自分の腕も李桜の背中へ添えた。
しばらく言葉もなく抱き合っていたふたりの影は日が傾くにつれ長くなり、空は茜色から紫に染まり始めていた。
「帰るのが少し遅くなってしまってごめんなさい」
「いや、いいんだ。あんたが無事ならそれでいい」
李桜は椿の頭を優しく撫でると体を離し、踵を返して先に邸の中へ入っていった。
(もしかして、私の帰りを待っていてくれたの……?)
昼間の疲れた様子に加え過剰なまでの心配の仕方を、椿はかえって不審に感じていた。
何を隠しているのかわからないが、これ以上彼に負担をかけたくない。
李桜の背中を追いかけながら、以後彼よりも帰りが遅くならないようにしよう、と椿は心に誓った。
3日後——椿は早速、楓に紹介された茶人のもとを訪ねた。
西園寺邸からさほど離れた距離ではなかったため、椿は春の暖かな日差しを浴びながら徒歩で向かったのだった。
楓からもらった地図を見ると茶人の邸宅部分に墨で丸を付けてあり、『菫荘』と書かれている。
地図をもとに歩き始めると、目の前によく手入れされた生垣の庭が見えてきた。
ここで間違いないのか不安そうに中を覗き込んでいると、庭先で水を撒いている男が声をかけてきた。
「もしや……椿様ですか」
「は、はい! ここは白檀様のお宅でしょうか」
「私が白檀でございます。あなたのことは楓様からお聞きしています、どうぞ中へ」
白橡色をした着物を纏った茶人——白檀は不思議な雰囲気を醸し出していた。
年の頃は李桜と変わらないように見えるが、どこか現実的ではない幻想的な出で立ちで、地に足がついていないような印象さえ受けた。
その摩訶不思議な空気に呑み込まれるように、椿は庭の中へ入っていった。
露地を抜けると、そこには邸とは別の書院造の建物が存在していた。
その佇まいはよく訪れる九条家の華蘭庵に似ていた。
白檀に促され開かれた引き戸から中を覗くと、い草の香りが漂う畳敷きの茶室になっていた。
「遠慮なくどうぞ」
「あ、ありがとうございます。お邪魔します」
履物を脱いで畳の上に腰を下ろした椿は、さっそく茶を淹れてくれるという白檀の点前を見学することにした。
手際よく茶を点てていく白檀。
整った顔立ちに透き通るような白い肌、目の色も榛色をしており男性というよりは中性的な存在だった。
茶を点てるその仕草にすら色気があり、総じて美しかった。
「そんなに見つめられては穴が開いてしまいますね」
「す、すみません。あまりに所作がお美しかったので……」
「あははっ。おかしなことをおっしゃる。お美しいのはあなたの方ではありませんか」
「えっ?」
「楓様からよく美しい女性がいるという話をお聞きしていました。先ほど庭先でお見かけした時に、あなたのことだとすぐにわかりましたよ」
白檀は椿に向かって淹れたての茶を差し出した。
椿はそれを受け取ると赤くなった顔を隠すように呑み干した。
「それで、なにゆえ茶の湯を習いたいなどとお考えなのです?」
「……実は私の恩人で一緒に暮らしている方がいるのですが、仕事が大変忙しいようで家に戻ってもいつも眉間に皺を寄せている有様なのです。ですから、おいしいお茶を呑んで少しでも安らいでいただきたいと思って」
「ほう。その方というのは旦那様なのですか」
「い、いえっ! 私は居候でして、その方に保護されているだけです」
「そうですか。それは安心いたしました」
「安心……ですか?」
「ええ。だってもしその方があなたのご主人なのでしたら、私には婚姻を申し込む隙がないでしょう」
「こ、婚姻を申し込む!?」
椿は声を裏返らせて叫んだ。
あまりの驚きに腰も半分浮いた状態で前のめりになる。
そんな椿の様子に目を丸くした白檀は至ってまじめに答えた。
「そうですよ。こんな美人を前に婚姻を申し込まない男はいないでしょう。私もまだ独身ですので申し込む権利はありますよね」
「…………」
椿は、出歩くとどうしていつもこういうことになってしまうのかと頭を抱えた。
近衛家にいた頃は訪ねて来る者があっても御簾で顔が隠されていたせいか、こんなにも直に口説いてくる者はいなかった。
白檀を紹介してもらうよう頼んだ今出川楓からも逢瀬を約束させられたばかりだ。
その上、今日会ったばかりの茶人からも求婚の話が出たことを考えると頭が痛い。
だが、椿はここで引き下がるわけにはいかない。
そもそもここへ来た理由は、自分の愛しい人を癒す術を身に着けるためである。
余計なことは考えないようにしよう、と椿は改めて自分に言い聞かせた。
「まあ、冗談はさておき……」
「冗談だったのですか!?」
「半分本気ですよ」
どこまでが本当でどこからが嘘なのか境目がまったくわからない人物を目の当たりにして椿は困惑していた。
そんな彼女の様子を気にすることもなく白檀は話を続けた。
「さて、茶の湯を始めるためには道具が必要ですが、お持ちの物はありますか」
椿は白檀が茶を点てるのに使用した道具の数々を見渡し、首を横に振った。
「いいえ、何もありません……居候をしているお宅の中にはあるのかもしれませんが、誰にも知られずに身につけたいので」
「そうですか。ではまず道具を手に入れるところからですね。一緒に参りましょう、椿様」
白檀は立ち上がると椿に手を差し出した。
「行くってどこへ?」
「茶道具屋ですよ。私が一緒にお選びしましょう」
椿に差し出された白い手は傷ひとつない美しい手で、日ごろ筆を持つ李桜の手と似ているような気がした椿は、何の疑問もなく気がつけばその手を取っていた。
そうして椿は白檀に促されるまま、京の中にある茶道具屋へ向かうことになったのだった。