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風雅の君  作者: 神間 那古井
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第27話 家を守るもの

 朝靄が九条池のある庭を満たす中、月華つきはなはこっそり邸に戻っていた。

 月のきれいだった昨晩、酒を浴びるように呑んだ月華だったが、酒豪の父の血を色濃く継いだ彼はひとり平然としていた。

 呑み過ぎて寝込んでいる悠蘭ゆうらん西園寺さいおんじ邸に置いて、自分ひとりで戻ってきたのである。

 結局、昨晩は李桜と悠蘭の話で持ちきりになり、月華が西国で得た情報について話をする機会がなかった。

 急ぐことではないが、今回の毒殺事件に関わっているかもしれないと思うと李桜や鬼灯きとうの耳には早めに入れておきたい。

 月華が池をぼんやりと眺め、そんなことを考えていると朝靄の中から堂々たる姿が近づいて来た。

 珍しく厳しい表情を見せたその人物に月華は肩を落とした。

 一体何の説教をされるのやら。

「放蕩息子め。身重の妻を置いてふた晩もどこへ行っておったのだ」

 父、時華ときはなの咎めに月華は苦笑しながら答える。

「父上、人聞きの悪いことをおっしゃらないでください。昨晩は西園寺邸で久しぶりに呑んでいたのですよ」

「妻を置いて酒を呑んでいたと?」

「そうではなく……今、華蘭庵からんあんには椿つばき殿が滞在しているのです」

 月華は池の中島に建つ建物を指さして言った。

「昨日、李桜と椿殿が仲たがいをしたらしく、俺が戻ってきた時にはすでに落ち込んだ椿殿が百合ゆりに助けを求めてきたようで、代わりに落ち込んでいるだろう李桜を慰めに行っておりました」

「そうであったか。それでふたりは無事に夫婦になれそうなのか」

「さあ、どうでしょうか。こればかりはふたりの問題ですからね——それより父上、ひとつ相談があるのですが」

「相談? お前にしては珍しいな……よかろう。ついてくるがよい」

 父に促されるまま、月華は久方ぶりに九条邸の寝殿へ足を踏み入れた。

 最後にここへ来たのはいつだっただろうか。

 もう覚えていないくらい幼い頃だったように思う。

 寝殿の中は亡き母が存命だった頃と何も変わっていない。

 母の打掛が飾られたままになっており、父の母への愛の深さが伺えた。

 板張りの床に置かれた畳の上に向かい合って胡坐をかくと、足音もなく現れた松島が茶をふたつ持って現れた。

「松島……こんなに早くから父上のそばにいるのか」

「おはようございます、月華様。邸の中では基本的に私が時華様のおそばを離れることはほとんどございませんよ」

 そう言って茶を畳にふたつ並べると、それ以上何も言うことなく松島は少し離れた床の上に正座した。

「で、月華。相談とは?」

「——もし、悠蘭が妻を娶るとしたら、それは見合いではなく本人が選んだ相手でも構いませんか」

 昨晩、すべてを打ち明けてくれた悠蘭が父にだけは言わないでほしいと言っていたことを思い出すと、月華は後ろめたい思いがしてまっすぐに時華を見ることができなかった。

 まるで告げ口をしているような気がしていたのである。

 だが、悠蘭のためにもこれははっきりとさせておかなければならない問題だと月華は思っていた。

「質問の意味がわからぬな。何が言いたいのだ」

「九条家は朝廷を支える摂家のひとつです。近衛このえ家があんなことになってしまった今、この九条家が筆頭と言っても過言ではない。本来なら、俺がどこかの良家の姫を娶り、家のためにさらに強固な関係を築ける家と婚姻するべきだったのでしょうが、もうそれは叶いません。ですから父上は悠蘭に期待しているのではないかと……」

「月華、回りくどい話はよさぬか。何が言いたいのかはっきりと申せ」

「ですからっ! 悠蘭には妻にしたい相手がいて、その相手というのが公家の者ではないのですがそれではいけませんか、と申しております!」

 勢いよくまくし立てた月華の迫力に気圧され、時華は目を見張った。

 何度か瞬きした後、月華の話を確かめるように訊き返した。

「悠蘭には妻にしたい相手がおる、と申したか?」

「はい、申し上げました……昨晩、西園寺邸に悠蘭も来たのです。様子がおかしかったので問い詰めましたら白状しました」

 時華は一瞬、ときを忘れたように微動だにしなかったがやがて声を荒げて笑い出した。

 月華は何がおかしいのか理解できず、訝しげに父を見やった。

「笑いごとではありません、父上。悠蘭の将来と九条家の行く末がかかっているのですよ?」

「いい話ではないか。私にとっては愉快でならぬ。ずっと家を離れておったお前が妻を娶り、戻ってくるようになった。もうすぐ孫の顔まで見れる。悠蘭も陰陽頭おんみょうのかみとなり仕事は順調、その上伴侶を見つけたというのだ。これ以上に愉快なことがあるか? 松島もそう思わぬか」

 話を振られた松島は大きく頷きながら微笑んでいた。

 月華は意図していることがまったく伝わっていないと思い、深く息を吐いた。

「父上、俺の話を聞いておられましたか」

「お前こそ、私の話を理解しておらぬようだ」

「…………?」

「九条家にこれ以上後ろ盾をするような家など必要ない。お前たち兄弟が息災でおればそれでよいし、子をなしてくれるのであればなおよい。大事なのはお前たちであって、お前たちの存在こそがこの家を守ることに繋がる」

「……では悠蘭が妻にしようとしている相手が武家の娘でもよいのですか」

「武家の娘?」

「昔、雪柊(せっしゅう)様が武家の娘を娶った際、久我くが家の反対にあって駆け落ちする道半ばで身重の奥方を腹の子ともども殺されたと聞きました。悠蘭にはそのような結末を迎えさせたくありません」

 すると目を細めた時華は、まっすぐに息子を見据えた。

「月華、お前は母のことを覚えておるか」

「母上、ですか? ……悠蘭が幼い頃に亡くなってしまわれたのでおぼろげな記憶しかありませんが、何というかとても怖くて女だてらに豪快な方だったように思います」

「はっ、言い得て妙だな。確かにお前たちの母は大胆な女子だった。何しろ、あまたある縁談をすべて断って私のもとに転がり込んできたのだからな」

「えっ……」

蘭子らんこは、とある良家の姫だった。本来なら私の妻に収まるような相手ではなかったが、蘭子自らが望んだからこそ、私たちは夫婦になった。お前たちを授かった時、私は蘭子と約束した。子供たちには自由な道を選ばせる、望む通りの生き方をさせる、とな」

「……そんなことを、母上と?」

「だから私は家を出たお前を連れ戻しはしなかったし、陰陽師となった悠蘭も咎めなかった。それが蘭子との誓いだったからだ。お前たちがどんな相手を選ぼうと、この九条家当主は歓迎するに決まっておる」

「父上……」

「で、悠蘭はどこにおるのだ。ともに帰ってきたのだろう? その相手とやらについて吐かせねばならぬな。祝言の準備もせねばならぬ……忙しくなるな。早速——」

「ち、父上っ」

 月華はひとりであれこれと盛り上がっている時華を慌てて差し止めた。

 悠蘭とは、父には内緒にすると約束した手前、本人が話す気になるまで周りが動いては不都合なのだと説明すると、時華は不満そうに息子を見た。

「なぜ隠す必要がある。めでたいことではないか」

「いえ、それが……相手の女子にはまだ名乗ってもいないとのことで……婚姻するどころか、恋仲でもないようなのです」

「……あやつ、そんな男に育ってしまったのか」

「そういうことではなく、詳しくは聞きませんでしたが何やら事情があるようです」

 腕を組みながら憤然と考え込む時華をよそに月華は立ち上がり一礼した。

「では父上、ご相談したかったのは以上ですので俺はもう行きますね」

「帰って来たばかりでもう出かけるのか」

「鬼灯様へ報告があるので」

「鬼灯殿のところへか?」

「一昨日不在にしていたのは、西国へ行っていたからなのです。李桜の推察では今、みやこで連続して起こっている毒殺事件と、半年前の近衛家の事件とは関りがあるのではないかと言うので」

「……どういうことだ」

「鬼灯様によれば、近衛家に乗り込んだ時に近衛柿人このえかきひとがしたためた文を持った家臣がいたそうで、西国のとある国に宛てたものだったと……。もし当時の近衛家が西国と繋がっていたのだとすれば、あの一連の事件にも関わっていたのではないかと思い、調べに行っていたのです。いろいろなことがわかってきましたが結局、根幹には辿り着けませんでした」

「いろいろなこと、とは?」

「どうやらあの一件はまだ終わっていないようです……とにかくこの件に関しては無視できなくなってしまいましたので、委細まとまれば朝廷へ報告が上がることでしょう」

 そう言うと月華は松島に向いて言った。

「松島、申し訳ないが李桜に六波羅ろくはらへ来るよう伝えてくれないか。そろそろ出仕していると思うんだが……俺もこれから六波羅へ行く。鬼灯様のもとで落ち合おうと伝えてほしい」

「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」

 深く頭を下げる家臣を尻目に、月華はそそくさと寝殿を出て行った。

 時華はそんな息子を憮然と見送った。

「月華のやつ、九条家に関わるのは嫌だとか、朝廷には関わりたくないなどと言って、結局のところ積極的に関わっているではないか」

「責任感の強いお方なのですよ。それよりも時華様、ご子息たちの出生についてちゃんとお話ししなくてよいのですか。おふたりの存在こそがこの家を守ることに繋がるなどとあいまいなおっしゃりようでは意図されていることは伝わりませんでしょうに」

「知らなくて済むならその方が月華たちのためにはよいだろう。もっとも、真実を知らないのはこの家の中で本人たちだけだがな」

 主人の含み笑いに、お人が悪いとぼやきながら松島はふたり分の茶を片付けた。

 月華が去った頃には庭に広がっていた朝靄も晴れ、日が差し始めていた。

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