第26話 素直になれなくて
男たちが西園寺邸で酒盛りをしている頃、淡い月明りに照らされた華蘭庵の中ではふたりの親友が昔話に花を咲かせていた。
何があったか問い詰めようとしない百合に椿は心から感謝していたが、決してもやもやとした気持ちが晴れたわけではなかった。
一緒にいる意味はない——どうしてあのような心にもない残酷な言葉を口にしてしまったのか。
椿の中には後悔しかなかった。
李桜はいつだって気遣い、大事にしてくれていていた。
確かにあの時、見知らぬ女子と路で抱き合っていたところを図らずも目撃してしまったが、それを問い詰めた彼は事情を説明しようとしていたのではないか。
だが、感情に任せてその機会を奪ったのは自分だ。
別れ際に見た李桜の悲しそうな顔が今も脳裏から離れない。
椿の瞳からは無意識のうちに涙が溢れ出ていた。
百合に優しく頭を撫でられ、慌ててその涙を拭った。
「椿……李桜様と何かあった?」
「私、ひどいことを言って彼を傷つけてしまった……」
「後悔しているのね」
「……戻れるのなら、あの瞬間に戻りたい」
「でもそれはできないわ。前に進むしかないのよ」
百合に強く握られた手元を見て、椿は再び涙を溢れさせた。
「前になんて……進めない。李桜様はきっと私に呆れてしまったと思う。もう、李桜様のもとへは戻れない」
「椿は、彼と出逢わなければよかったと思う? 出逢わなければこんな苦しみを感じることがなかったと?」
「それは絶対にないっ! この半年間、これまで生きてきた中で最も幸せだった」
椿の脳裏に浮かぶのは李桜の顔ばかりだった。
優しく微笑む顔、心配してくれる時の顔、少しひねくれた時の顔。
どの顔も椿にとっては愛しいものだった。
「近衛家の中で私はいつも自由を与えられず、軟禁されていたようなものだったけれど、李桜様はそれをよくご存じで私に自由を与えてくださった。必要としてそばに置いてくださって、求婚してくださったのにいつまでも返事をしない私に、業を煮やすこともなく、決して手も出さなかった。そうやって大事にしてくださったあの方と出逢わなければよかったなんて考えたこともない」
「李桜様にとって椿は特別な存在なのね」
「本当は変な意地を張らず、何もできない私でも受け入れてくださるあの方に早く返事をすればよかったのよ……でも今頃そんなことに気がついても、もう手遅れね」
涙を拭うこともなく苦笑いする椿を不憫に思い、百合は優しく抱き寄せた。
百合は時々、椿も自分のように数奇な運命のもとに生まれたのだろうと思うことがある。
何不自由なく暮らしてきた近衛家の中で、側室の子というだけでふたりの姉からも疎まれ、家の中でも彼女を近衛家の姫と認める者は少なく、いつも独りだったという。
それは、異能を引き継いでしまった自分が藤原家の奥に幽閉されていた頃に似ている。
唯一、椿を可愛がったという土御門皐英。
彼の存在は自分にとっての紅蓮寺のようなものではなかったかと思う。
心安らげる場所であり、自分を認めてくれる存在が癒しとなっていたのかもしれない。
だが、結局彼にも裏切られた。
そして父親の悪行を食い止めようと求められる帝への輿入れを受け入れた。
それは自分の残りの人生を捨てる覚悟だったに違いない。
「椿——もし、これまで何度もあった運命の分かれ道で違う道に進んでいたらって考えたことはある?」
「……え?」
「もしあの事件がなく、帝のもとへ輿入れしていたら?」
「……考えたことはないし、想像がつかないわ。帝とは何度かお会いしたけれど、とても変わった方だったし」
「変わった方?」
「ええ。何に怯えておられるのかわからないけれど、いつも内裏の奥に閉じこもっていらして、朝議にもお見えになることはないと聞いていた。それにお会いしてもいつも御簾を下げられたままで、私はお顔を見たことがなかったの」
「何に怯えていらっしゃるのかしら」
「さあ、わからないわ。帝にはご兄弟がいないようだし、先帝のご兄弟も妹君だけだったと聞くわ。その妹君も行方不明でどこで何をされているのか、ご子息がおられるのかもわからない状態らしいの。だから今の帝の地位を揺るがすような存在はないはずなのに」
「帝のご親戚は誰もいない、ということ?」
「そこまではよく知らないけれど、確かに帝の近しいご親戚の話は聞いたことがないわね」
「そう……何か事情がおありなのでしょうけど、何だかお気の毒ね」
「でも、もし私が帝のもとへ輿入れしていたら一生、未亡人のような生活をしていたかもしれないわね。きっと内裏の中でも御簾を挟んでお互い、ほとんど顔を見ることもなく暮らしたと思うわ」
椿は笑いながら、百合の腹をさすり羨ましそうに続けた。
「私も李桜様のお子を授かりたかった。あの方のおそばで、この命が尽きるまで一緒にいたかった」
「何を言うの。今からでも仲直りはできるわ。李桜様もきっとあなたの帰りを待っていると思うわよ」
「……もう修復は無理よ。彼は私のことを疑ってる。懐疑心っていうのはなかなか抜けないものだわ。今からどんなに説明したってその時は理解してくださるでしょうけど、ことあるごとにその懐疑心は蘇る。私は、李桜様の信頼を裏切ったようなものなの。すべて身から出た錆ね」
どんな慰めの言葉ももう届かない——百合はそう感じて、ただ椿に寄り添うしかできなかった。
空には星の輝きが霞むほどの明るい月が顔を見せている夜分。
泣きつかれて眠ってしまった椿を置いて華蘭庵の建つ中島と庭とをつなぐ橋まで降りてくると、百合はぼんやりと池に映る月を見つめた。
結局、椿と李桜の間に何があったのかはわからなかった。
だが椿本人が李桜を傷つけてしまったというからには、ふたりの間に何かあったのだろう。
考えて見れば先日、華蘭庵へ来た李桜の様子も少しおかしかった。
あんなにも互いを想い合っているふたりには、何とか幸せになってほしい。
そんなことを考えながら小さくため息をつくと、背中から優しい声が聞こえた。
「こんな夜中に薄着で外にいらっしゃるとお体に障りますよ」
声の主——松島はそっと羽織を百合の肩にかけた。
「松島さん……」
「春になったとはいえ、夜はまだ冷えますゆえ」
「ありがとう……でも、私がここにいるとよくわかりましたね」
「月華様から奥方様のことを任されましたので」
「月華様から?」
「はい。椿殿のことも伺いました。奥方様は気を落とすかもしれないから見守ってほしいと」
「月華様は何でもお見通しなのね」
苦笑した百合に松島は微笑んだ。
「さて、すっかりお体が冷えてしまったでしょう? 温かいお茶をご用意しましたのでどうぞこちらへ」
そう言って松島は寝殿の東隣に位置する東対へ百合を案内した。
寝殿造りは主人の住まう寝殿という建物を中央に置き、その東西北の三方に対の屋と呼ばれる家族が住む建物を擁する。
現在の九条邸は時華の住む寝殿の西に悠蘭の住まいを置き、妻を亡くした時からは北は空室となっている。
東はかつて月華が使用していたが今は空室となっていた。
松島は百合を部屋へ招き入れると、中央に敷かれた畳の上に彼女を座らせた。
そこにはすでに茶の湯の用意がされており、湯も沸いている状態だった。
百合の向かいに膝を折ると松島は慣れた手つきで茶を点て始めた。
静寂の支配する夜の室内に、茶筅の音だけが響く。
行燈の光に照らされた様子と合わさり、百合には幻想的な光景に見えた。
「ここはかつて月華様がお使いになっていた部屋なのです」
「……えっ?」
「お子がお生まれになったら華蘭庵では手狭になるゆえ、いずれここを使うことになるだろうからと時華様が気にされていらしたので、久しぶりに昼間、すす払いを行ったところでして」
「父上様ったら……華蘭庵で十分だと申し上げたのに」
百合は松島から受け取った茶碗を眺めた。
「単にこちらにいらっしゃるといつでもお孫様に会えるから、という理由かもしれませぬが」
「ふふふ、父上様らしいですね」
茶を呑み干すと百合は空になった茶碗の底を眺めながら感謝の気持ちで満たされていた。
嫁の身を案じて住まいの心配をしてくれる義父にも、妻の身を案じて家臣に託してくれる夫にも、いつも気にかけて様子を見に来てくれる義弟にも、さりげなくそばに寄り添ってくれる家臣にも、この上なく愛されていることを実感している。
かつては道具のように戦場に駆り出されていた時代もあったが、それが嘘のように心穏やかに暮らしていることが信じられないくらいだった。
「松島さん、あなたはいつからこの九条家に仕えていらっしゃるの?」
「私がお仕えし始めたのは時華様がまだ独身でいらっしゃった頃からですのでもう20年以上になりましょうか」
「そんなに昔から?」
「ええ。かつてはこの九条家も諍いの多い家で、ずいぶんと血も流れましたが時華様が当主となられてからは概ね落ち着きました」
「そうなのですか? 今の様子からはまったく想像ができませんね」
「表向きの顔とは違う事情というのはどこの家にもあるものです」
確かに松島の言うとおりだと百合も思った。
近衛家が水面下で画策していたことは誰も知らなかったし、今、西園寺家で起こっていることも誰にも知られていない。
どの家にも外には明かせない秘密があるのだ。
「さあ、百合様。そろそろお休みくださいませ」
「……もう? まだいいではありませんか。もう少しあなたとお話していたいわ」
「いけません。月華様から、奥方様が夜更かししないかよく見守っているようにと仰せつかっておりますので」
「月華様ったら……」
「また機会を作ってこの九条家のお話をしますので、今日はご容赦ください」
松島は九条家次期当主の妻に向かって、深々と頭を下げたのだった。




