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風雅の君  作者: 神間 那古井
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第2話 心揺らいで

「まあ、椿。会いに来てくれたの?」

 牛車を降りて九条邸の門を潜ると椿は通いなれた華蘭庵(からんあん)へと足を運んだ。

 椿は外に出る時にこうして九条邸を訪ねることが習慣となっている。

 武士としての務めを果たすために鎌倉へ戻った百合ゆりの夫——九条月華(くじょうつきはな)は、身重の妻を気遣って結局1番世話になりたくないと思っていた実家へ百合を預けていた。

 月華はひと月に1度は必ず帰って来るというが、椿は最後に紅蓮寺(ぐれんじ)で彼を見送った晩秋以来、見かけていない。

 それは月華が帰って来てはすぐにとんぼ返りしてしまうからだ。

 会いに来てくれる夫を迎える喜びはもちろんあるだろうが、すぐに見送らなければならない寂しさが残るのはどんなにか辛いことだろう。

 椿は百合が寂しくないようにと、理由をつけては百合の様子を月華に代わって見ているつもりでいた。

 華蘭庵に暮らしている百合の腹は少しずつふくらみを帯びており、月日の流れを感じさせた。

「百合、元気そうで安心した。体の調子はどう?」

「おかげさまで元気よ。月華様も3日とときを空けずに文を送ってくださるし、父上様や悠蘭ゆうらん様に松島さんもとてもよくしてくださっているから。たまに鬼灯(きとう)様もいらっしゃるの」

 百合は嬉しそうに近況を語った。

 部屋の隅に置かれた箱の中には溢れんばかりの文が収められており、そのすべてが月華からの文だというのだから椿は呆れて言葉が出なかった。

「月華様ったら本当に百合なしでは生きていけないのね。あの文の山、考えられないわ……いつも何て書いてあるの?」

「うーんそうねえ。一昨日届いた文には『今日は百合がいなくてつまらない1日だった』と書かれてあったわね。今日届いた文がこれよ」

 椿は百合から渡された文に目を通して噴き出した。

「何これ! 『生まれてくる子の名前は何がいいか悩んでいる』って……。性別もわからないのに今から悩んでるの!? それにまだ6か月なんだから生まれてくるまでには間があるじゃない」

「月華様はこういう方なの。いつだって周りに気を配って、私のことを1番に心配してくださるのよ」

「それはそれは、ご馳走様でした」

 月華と百合が深い絆で結ばれていることを改めて理解し、椿も胸を撫で下ろした。

 こんな深い愛情を受けて生まれてくる子はどんなに幸せだろう。

 すでに両親のいない椿には、自分がどのくらい望まれて生まれたのか確かめる術がない。

 ただひとつ言えることは、近衛家にはそんなに必要とされていなかったということ。

 椿は不意に百合の腹部へ触れた。

 まだ赤子が動いている様子はなかった。

「ずいぶん大人しいものなのね。お腹を蹴る子もいるって聞いたことがあるけど、性別によっても違いがあるのかしらね」

「まだそこまで育っていないと思うわ。でも確証があるわけではないけれど、性別なら何となく女の子のような気がする」

「……それって母親の勘? ねえ百合、母親になる気分ってどんな感じ?」

「あまり実感がないけれど、言葉にできないような幸福感に満たされているの。これまで自分に課せられた運命を呪ったこともあるけれど、月華様に出逢えたことで私は生まれ変わった。新しい人生を始めることができて、月華様が愛してくださったからこそ、この子は私たちのもとにきてくれたの」

 百合が大事に腹をさする姿を見て、椿は羨ましさを感じていた。

 輪廻の華と呼ばれ、辛い運命に翻弄されてきた百合を闇から救い出したのは月華だ。

 彼は百合がどんな異能を持っていようと、まったく気にしなかったという。

 それだけ月華は心から百合を愛しているのだ。

 李桜りおうも、あんなにも無償の愛を向けてくれているのに、どうして素直にそれを受け止めることができないのだろう、と椿は思う。

 無罪放免になったとはいえ罪人の娘である事実は変わらないのに、李桜は気持ちが向くまで待つと言ってくれた。

 本当はすぐにでも求婚を受け入れたいが、答えを出すには機会を逃してしまったような気がしてどうしても踏ん切りがつかなかったのである。

「椿、李桜様との暮らしはどう?」

「毎日楽しいわ。大事にされているし、李桜様は本当に私なんかにはもったいない方だと思う」

「それなら彼の求婚にそろそろお返事したらどうかしら」

「……素直にできるならどんなにいいか」

「何か気になることでもあるの?」

「……私、本当に何も特技がないの。百合のように着物を仕立てられるわけではないし、食事を用意できるわけでもない。李桜様は何もできなくていい、そばにいるだけでいいって言ってくださるけど、仕事で疲れて帰ってくるあの方を見るたびに何かお役に立ちたいっていつも思うのよ」

「李桜様は椿がそこにいてくれるだけで嬉しいんじゃないかしら」

「でもせめてお疲れを癒すようなことをできるようになりたい……」

 そう椿が言い淀んだところへ襖が開き、茶道具を持った松島が現れた。

「椿殿、ようこそおいでくださいました。おふたりとも、茶でも呑んでお寛ぎくださいませ」

「まあ、あなたが茶を点てるの?」

「はい、不肖ながら私がご用意させていただきます」

 そう言って松島は手際よく準備をするとあっという間に茶筅を動かし始めた。

 茶碗の中で美しく泡立つ抹茶を眺めながら椿は感心していた。

「松島さんの点てるお茶はとてもおいしいのよ。父上様いわく、松島さんのお茶がないと1日が終われないそうなの」

 くすくすと笑いながら器を受け取った百合は、おいしそうに呑み干した。

 椿も目の前に出された茶碗を持ち、それに倣って口をつける。

 ほろ苦い抹茶の中にほのかに甘みが広がり、確かに癒される味だった。

 九条家当主が1日の終わりに呑むという理由が頷ける。

 中身を呑み干した器をぼんやりと眺めながら、椿はぽつりと呟いた。

「李桜様も1日の終わりにこういうお茶を呑めば少しは癒されるのかしら」

 椿は器を畳の上に置くと松島に向かって正座し直し、三つ指を立てて頭を深く下げた。

「松島さん、私にこのお茶の点て方を教えてください」

 急にかしこまった椿に松島は狼狽えた。

「椿殿、何をなさるのです。頭をお上げください!」

「何もできない私でも人の役に立てるようになりたいの。だからお願いします」

 顔を上げた椿の眼差しは真剣そのものだった。

 困った松島は百合へ視線を向けたが、その百合からも懇願するような目を向けられ、彼は大きく息を吐いた。

「私のような者が椿殿にお教えすることはできませんが、師を紹介してくれそうな方をお教えするということで許していただけませんか」

「そんな方が身近にいるの?」

「私は直接お会いしたことはありませんが、今出川いまでがわ家が懇意にしている茶人がいると聞きます」

「茶人?」

「茶の湯に通じた方のことです。確か白檀(びゃくだん)様という方だったかと……」

「今出川家といったら、李桜様の同僚の方がその家の方だわ……善は急げと言うから早速お願いしてみる」

 そう言うなり、椿は挨拶もそこそこに慌てて華蘭庵を後にした。

 その姿を見送りながら百合は声を出して笑っていた。

「奥方様、何をそんなに笑っておられるのですか」

「だって、あんなにたじろぐ松島さんを初めて見たんだもの」

「か、からかわれては困ります」

「ごめんなさい。でも、力になってくださってありがとうございます。本当は椿も早く李桜様と結ばれたいのだと思うんです。何もできないことを後ろめたく思っていたみたいなので、茶人の先生にいろいろ教わって何が大事なのか見えてくれば素直になれるのじゃないかしら」

「そうですね……月華様と奥方様のように強い絆で結ばれる日も近いでしょう」

「まあ、今度は松島さんが私をからかっていらっしゃるのかしら」

 松島は主人が不在でも日に日に九条家の嫁として堂々たる趣を増す百合を微笑ましく思っていた。

「奥方様をからかうなど、滅相もないことでございます。ただ、私は嬉しいのですよ」

「嬉しい?」

「はい。私が敬愛する月華様がお選びになった奥方様はこの九条家にふさわしい最高の方であることが嬉しいのです。慈悲深く、月華様と同じであなた様もいつもご自分の大事な方々のことを想っておられる」

 百合は突然のことで目を丸くしていたが、褒められたことが徐々に恥ずかしくなり、両手で顔を覆ってしまった。

 百合の仕草を目の当たりにした松島は主人の妻という目上の人でありながら、自分の娘のように愛しく思い口元がほころばずにはいられなかった。

 そんな彼女がさらに喜ぶ顔を見たいと思い、懐から1通の文を取り出して言った。

「そういえば、先ほど早馬が参りまして月華様からの文が届きました」

「月華様から?」

 松島に差し出された文を受け取ると、確かに表には九条藤の刻印がされていた。

 ゆっくりとその文を開くと百合の表情はみるみる明るくなり、目元に光るものを浮かべている。

「奥方様、月華様は何と?」

みやこに来る急用ができたから2、3日後にはこちらに来られると書かれてあります」

「それは朗報ですな」

「しばらくはこちらに滞在できるそうです」

「何と! では急ぎ邸中に知らせなければっ。いやその前にまず時華ときはな様と悠蘭様にお知らせせねば」

 松島は誰にともなく呟きながら、慌てて華蘭庵を出て行った。

 百合は読んだばかりの月華からの文を胸に抱き、人知れずひと筋の涙を流した。

 大丈夫と言っていてもやはり妊婦に不安はつきもの。

 百合のその不安を解消することができるのは、この世で月華しかいないのだった。

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