第19話 心騒ぎ
みつ屋の前で悠蘭と別れた菊夏は、いつの間にか駆け足になっていた。
陰陽師の男——名無しの権兵衛に頭を撫でられた時のことを思い出すと勝手に鼓動が高鳴って、自分でもどうすることもできなかった。
これまで薬師として働く菊夏のことを認めてくれた者は誰もいなかった。
家の者でさえ菊夏が薬師を続けていることを快く思っていないことは肌で感じている。
薬師など辞めて早く嫁に行けばよいものを——。
そんな心の声がいつも聞こえる気がしていた。
だが、あの名無しの権兵衛は女子だからという理由は関係ないと言ってくれた。
それが菊夏にとって何よりも嬉しいことだった。
あの失礼な男に対して、2度と会うことはないと思うほど憤慨していたのに、そんな憤りはいつの間にか無くなっていた。
本当はいい人なのかもしれない。
結局また名前を聞きそびれてしまったが、またあの人に逢いたい。
逢ってあの人と話をしながら、彼のことをもっと知りたい。
なぜそう思うのかわからないまま菊夏は六波羅御所へ戻った。
鬼灯のもとへあいさつに向かうと、書院の中から楽しそうな談笑が聞こえてきて、菊夏は一言断りながら襖をゆっくり開いた。
そこにはふたりの男が向かい合って碁を打っていた。
談笑していたのは部屋の主である鬼灯と久しぶりに見る鈍色の着物を着た紅蓮寺の住職——雪柊であった。
「伯父上、ただ今戻りました——」
「じゃじゃ馬め、やっと戻ったか。どこへ行っていたのだ。よもやまた鳥兜を摘もうとしていたのではあるまいな?」
鬼灯は腕を組みながら菊夏を睨みつけていた。
「ち、違います。鳥兜は摘めないので何とか成分を知る方法がないかと考えながら散歩をしていただけです」
慌ててその場に正座した菊夏は、背筋を正して答えた。
鬼の形相で彼女を見据える鬼灯の向かいで、雪柊は笑いを堪えていた。
「相変わらず天真爛漫なようだね、菊夏。しばらく見ないうちに立派な薬師になったようで何よりだよ」
「雪柊、あまり菊夏をおだてるな。目を離すとすぐにいなくなって手を焼いている私の身にもなれ。女子を狙った毒殺事件が横行しているというのに勝手に出歩くから、毎日気が気ではない」
「さすがの鬼灯もお手上げかい」
雪柊は実に愉快だと笑い飛ばした。
「雪柊様……少しはお助けください」
菊夏は叱られながら肩を竦め雪柊に助け舟を求めたが、自業自得だと笑われたのだった。
「それで菊夏、附子を中和する解毒薬は作れそうかい」
「それが……肝心の附子が手に入らないので難航しております」
「附子がないと駄目なのかい?」
「服毒するとどんな症状が出るかとか、どのくらいの時間で症状が出るかとか、附子に関する情報があまりにもなさ過ぎて困っています」
「それなら朝廷に資料を借りに行ってごらん。中務少輔の西園寺李桜に附子の資料がほしいと言ったらたぶん貸してくれるよ」
「その方なら先日ここでお会いしました。朝廷にはそんな資料があるのですね!」
「どこまでの情報があるかは目を通して見ないとわからないけど、なんらかの記録はあると思うよう。李桜のことだから手元に置いているかもしれないね」
行き詰っていた前途に一筋の光明が見えたような気がした菊夏は表情を明るくした。
「お前、坊主のくせになぜそのようなことを知っているのだ」
「ひどい言いようだね、鬼灯。私はこう見えても樹光様に出逢って坊主になる前は朝廷の官吏だったんだよ? 務めていたのは兵部省だが朝廷の書庫を利用したことがないわけじゃない」
「では早速これから李桜様のところへ行ってみます」
「戻ったばかりなのに今から行くのかい」
「はい。善は急げと言いますので」
勢いよく立ち上がった菊夏に、雪柊はからかい混じりに言った。
「気をつけて行くんだよ。ところで菊夏、ずいぶん赤い顔をしているけど具合でも悪いのかい?」
「え……!?」
菊夏は無意識に両頬を手で押さえ、恥ずかしさでさらに頬を上気させながら強い口調で答えた。
「な、何のことでしょう」
「そんなに狼狽えなくても……。具合が悪いわけじゃないならいいけど、真っ赤な顔をしているよ」
「き、気のせいです。あんな、名無しの権兵衛さんと話をしたくらいで動揺するようなことは……」
「名無しの権兵衛さんだって?」
「あ、あのそれは私が勝手につけたあだ名で本名は知りませんっ! 紫の狩衣とかいう変わった着物を着た陰陽師のようなのですが……と、とにかく私とあの方とは関係ありませんからっ!」
そう言い切って菊夏は走って出て行ってしまった。
彼女が出て行った方向を呆然と眺めながら雪柊はぽつりと呟いた。
「ずいぶん動揺していたようだけど、紫の狩衣を着た陰陽師って悠蘭のことかな」
「……他に考えられぬな」
鬼灯と雪柊は互いに顔を見合った。
「恋する乙女みたいな赤い顔をしていたけど、まさかあのふたり、恋仲なのかい?」
「……ふたりが知り合いだとは聞いていないが——まあ、九条家になら嫁にやってもよいだろう」
「嫁に!?」
「ああ。もともと今回、あの子を鎌倉から呼び寄せたのは附子の解毒薬を作らせるためだけではない」
鬼灯は肩を竦めながら続けた。
「菊夏はな、月華の嫁になりたがっていた。憧れているだけかと思っていたが月華が百合殿を娶ったと聞いてずいぶん落ち込んでいた様子でな。いっそのこと縁談を用意してやろうと思って、紫苑との縁組をするつもりだった。もちろん、当人たちにはまだ何も伝えていないが」
「縁談をどこかに持ち込もうとしているという話は月華から聞いていたが、本当に紫苑と縁組するつもりだったのかい!?」
雪柊は目を見開いた。
半分冗談で月華と話していたことが、真実だったとは信じられない思いだった。
「菊夏本人がその気なのであれば、縁談は九条家に申し込む方がよいかもしれぬ」
「本気で言っているのかい」
「姪の幸せを考えてやることのどこが悪い。菊夏は確かに天才薬師ではあるが、周りの者はあれが薬師として働くことを望んでおらぬ。私も含めてな」
「能力もあって本人も好きでやっているんだからいいじゃないか」
「朝廷と同じで幕府も一枚岩ではない。良からぬ輩の政の道具にされて傷つくあれを見たくないのだ。幸い、九条家ならその点は問題ない。当主はあの時華殿だし、義兄は月華、義姉は百合殿だ。おまけに信頼にたる松島殿もいる。悠蘭が菊夏を大事にしてくれるのであればこれ以上の良縁はない」
雪柊は腕を組みながら考えた。
昨日、紅蓮寺へやって来た月華は菊夏の縁談についてこう話していた。
——紫苑にはあの自由さを受け入れてくれる内助の功のような妻が必要ですし、菊夏殿には彼女の天真爛漫さを舵取りしてくれるような男が必要ではないでしょうか。
確かに思い立ったらすぐ行動に移す天真爛漫さを舵取りできるような相手は菊夏にとって必要だ。
自由きままな紫苑にはそれは向いていないが、陰陽寮を束ねる悠蘭にならそれが可能なのだろうか。
新しい弟子となった悠蘭は、今や月華と同様、雪柊にとっては息子も同然のような存在である。
姪のような菊夏と弟子の悠蘭が夫婦になる。
年頃も近いふたりの未来の姿を想像すると微笑ましかった。
だが、今や摂家の頂点に立つ九条家へ嫁がせるなど、想像すらしてこなかったことだった。
九条家は果たして武家の娘を嫁として認めるのだろうか。
「……昔から思っていたけど、鬼灯って時々恐ろしく大胆になるよねぇ」
そんな雪柊のぼやきは鬼灯には聞こえていないようだった。
ふたりは菊夏の登場で中断していた碁を再開した。
碁石をひとつ置くと、鬼灯は言った。
「して、雪柊。話をもとに戻すが——」
「毒殺犯の話かい?」
「ああ。お前はこの毒殺事件についてどう思う?」
「どうって言われてもねぇ。私は俗世を捨てて仏門に入った身だし——」
そう雪柊が答えると、目の前から急に高速で黒い粒が顔面に向かってきた。
余裕の様子で首を傾げて交わしたが、黒い碁石は雪柊の後方にある襖にめり込んでいた。
鬼灯の手から発せられたことは間違いなかったが、その本人は外したことを悔しそうに舌打ちした。
「危ないじゃないか、鬼灯。碁石は打つものであって人に向かって飛ばすものじゃないよ」
「ふん、お前が自分には関係ないなどとほざくからだ。つい手元が狂った」
「狂ったって……十分狙っていたくせに。まあ、当たるわけはないけどね」
雪柊は何事もなかったかのように自分の番になると碁盤の上で迷いながら石を置いた。
「若人たちが助けを求めてきたら助けてあげるつもりではいるよ」
「朝廷を恨んでいるお前が政に関わることを拒絶する気持ちはわかるが……」
「もう昔のことだ。今は何とも思っていないさ。本当に俗世と離れた世界で静かに暮らしたいだけなんだ」
「お前はじじいか」
「君だって菊夏が嫁に行って子どもを産んだら名実ともにじじいになるんだからね」
その後、不満を爆発させた鬼灯は碁石を雪柊に向かって飛ばし続けた。
難なく交わした雪柊の後ろの襖には多数の碁石がめり込み、まるで模様のようになっていた。
それにしても——。
久しぶりに寺を出て京へ来てみればいろいろな意味で事態は大きく動いている——雪柊は再び京で波乱が起こるような気がして気が気ではなかった。




