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風雅の君  作者: 神間 那古井
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第17話 名無しの権兵衛さん

 紅蓮寺ぐれんじで修業した翌日のこと。

 徹夜で仕事を終えた悠蘭ゆうらんは、仮眠を取るために邸へ帰る途中、ある甘味処へ来ていた。

 その甘味処は「みつ屋」といった。

 近年、みやこで人気の店だという。

 噂を聞きつけた彼は、身重の義姉(あね)への土産を買おうと考えていた。

 店内は数人の注文待ちをする客が着席しており、持ち帰る客も何人か出入りしている。

 悠蘭は順番待ちをしながらどっと疲れを感じていた。

 こうも連日、徹夜が続くのは本来の仕事に加えて李桜りおうから依頼を受けた祭祀の準備をしているせいだった。

 陰陽頭おんみょうのかみとして中務少輔なかつかさしょうゆうから直々に依頼されたことを適当に執り行うわけにはいかない。

 だが、さすがに突然舞い込んだ案件には骨が折れるのも事実だった。

 悠蘭は瞼が閉じそうになるのを堪えながら店主から品書きを受け取った。

「お客さん、何になさいます?」

「家族への土産物を探しているんだが、何がいいだろうか」

 品書きには練り切りや干菓子などの手軽なものから、草餅やわらび餅などの生菓子まで揃っている。

 普段、好んで甘味を食べることがない悠蘭は、品書きを手にしても何を注文していいのかわからなかった。

「人気なのはあんみつですよ。もしかして奥方様へのお土産ですか」

「ち、違うっ! そんな相手はいない。これは義理の姉に持っていくものだ。懐妊中なんだ」

 悠蘭は顔を赤らめながら全力で店主の問いを否定し、あんみつを1つ注文する。

「そんなに慌てて否定なさらなくても……もしかして気を悪くされましたか」

「あ、いや、そうじゃない」

「そうですか、それはよかった。では少しお待ちくださいよ」

「店内では邪魔になるから、外にいるよ」

 少し居心地が悪くなった悠蘭はそう店主に伝えた。

 別段、焦ったわけではないが自分に妻がいる生活など想像したこともなく、気恥ずかしくなってしまったのだった。

「わかりました。外に腰掛がありますから、用意できたらお持ちします」

 悠蘭は店主の薦めに従い、外に置かれている腰掛で待つことにした。

 小さく息を吐きつつ外に出て入口横の腰掛に目を向けるとそこには先客がいた。

 のれんをめくる手が一瞬止まり、眠気は一気に吹き飛んだ。

 腰掛には茶を啜りながらほっこりしている北条菊夏ほうじょうきっかがいたのである。

「あっ……」

「あなた、昨日の……」

 ふたりは互いに瞬きしながら、続く言葉を忘れたように動きを止めた。

 悠蘭は、昨日、近江からの帰り道で鳥兜を眺めていた少女だと思い出す。

 何とも生意気な少女だったが、よく見ると整った顔をした美しい少女だった。

「いつからそこに……」

先刻さっきからずっといましたけど」

「気づかなかった……」

 半分、眠ったような状態で店内に入っていったため、入口に腰掛があることにも気がつかなかったし、ましてそこに人が腰掛けていることも目に入っていなかった。

 まじまじと彼女を見るとやはりどこかで見たことのある面影を感じる。

 見とれていたことに気がついた悠蘭は我に返り咳払いをして菊夏に言った。

「そこ、座ってもいいかな?」

 菊夏が黙って膝を送るのを確認して、悠蘭は静かに隣へ腰掛けた。

 彼女は何事もなかったかのように茶を啜っていた。

「君、昨日はあんなところで何してたんだ? あれが鳥兜だって知らなかったのか」

「相変わらず失礼な方ですね。知らないで眺めていたわけはないでしょう。夏になれば美しい花を咲かす植物です。美しいものにこそ毒があるというではありませんか」

「知っていたならどうして……」

「私は薬師ですから」

 菊夏は不機嫌に顔を背け、続けた。

「毒を中和する解毒薬を作るためには、毒の作用を知らなければ調合することができません。しばらく京に滞在するつもりですので以後お見知りおきを……それより——」

 菊夏はそっけなく言いながら、視線を戻すとじっと悠蘭の姿を見つめていた。

 昨日遇った時とあまりにも違う悠蘭の出で立ちを、頭の先から足の先まで不思議そうに眺める。

 菊夏の視線に耐え切れなくなった悠蘭は口を開いた。

「……この格好、そんなにおかしいか?」

「いえ……すみません、見たことがない格好だったものですから」

「これは狩衣(かりぎぬ)といって、俺たち陰陽師の勤務服なんだ」

「陰陽師……? 聞いたことがあります」

「まあ、薬師の君とは接点がない職業だな」

「あなたの家は代々陰陽師なのですか」

「まさか。俺の家はまったく違うよ。俺がはみ出し者なんだ。俺の師匠だった人が行き場を失くした俺を拾って、陰陽道を教えてくれた。だから今の俺がある」

 悠蘭は俯いて失笑しながら答えた。

 父の時華ときはなはおそらく今でも朝廷に仕えるなら陰陽寮ではなく、もっと要職にと望んでいるのだろう。

 鎌倉幕府で重宝される月華つきはなのように。

 だが、悠蘭は今さら職を替えるつもりはなかった。

 今の自分にできることをする。

 自分のできることの中で、人の役に立てるようになる。

 それが悠蘭の覚悟だった。

「では、あなたの天職だったのですね」

「……は?」

「だってそうでしょう。家業でもないのにその仕事を続けられるのは、あなたにその仕事が合っているからだし、そもそもお好きだから続けられるのでは?」

 涼しい顔をしながら当たり前のように言う菊夏に、悠蘭は呆気に取られていた。

 開いた口が塞がらないとはまさにこのことを言うに違いない。

 これまで、陰陽師としての道を行く悠蘭を心配したり、陰ながら応援されることはあっても堂々とその職を肯定されたことはなかった。

 悠蘭は驚きのあまり、菊夏をじっと見つめていた。

「もしくはその師匠という方がとても偉大であなたを素晴らしい陰陽師に育ててくださった、とか?」

 屈託なく微笑みかけてくるその素直な少女に、悠蘭の鼓動はなぜか速まった。

 自分でも早鐘を打つ鼓動の理由がわからず困惑していると、そんな悠蘭の様子には気づいていない菊夏は呑み終えた器を腰掛の上に置き、手足を前に伸ばしながら遠くを見つめて呟いた。

「でも、そんな師匠がいるなんて羨ましいです」

「……羨ましい?」

「私には師匠がいないので。私は物心ついた時から書物を読み漁ってひとりで薬師の勉強をしたのです」

「じゃあ、君の家も薬師の家系じゃないのか」

「全っ然。子供の頃は女の子のくせに書物を読み漁る私のことを周りはみな、呆れていました。もしかしたら今でも快くは思っていないのかもしれませんね」

 寂しそうに目を伏せる菊夏の仕草に、悠蘭は不思議と胸が締め付けられる想いがした。

 知り合ったばかりで彼女が置かれている状況はよくわからないが、自分の過去の状況と重なって見えた。

 何となく居場所がない——そんな雰囲気を感じ取った悠蘭は、気がつくと菊夏の頭を撫でていた。

 まるで過去の自分を見てるかのようで、少しでも慰めになれば……そんな想いからだった。

「女の子だからっていうのは関係ないだろう? 菊夏が好きで薬師の道を選んだのなら、誰に疎まれようと続けるべきだ。それこそ、君にとっても天職なんじゃないのか。いつか必ず菊夏の志を理解してくれる人が現れるさ……」

 菊夏は呆然と悠蘭を見つめた。

 自分が薬師であることに理解を示してくれた人はこれまで誰もいなかった。

 両親でさえ呆れて、早く嫁に行けと言わんばかり。

 その上、縁談を用意してくれたという伯父もおそらく同じことを思っているのだろう。

 だが菊夏は薬師という仕事に誇りを持っている。

 誰かの助けになることで自分に存在価値があることを気づかせてくれるからだ。

 誰にも理解してもらえなかったのに、理解を示してくれる名前も知らない男が目の前にいる。

 菊夏は急に胸が高鳴り、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。

「……っ! こ、これは何の真似ですか」

 不用意に頭を撫でる悠蘭の手を軽く振り払った菊夏は、動揺を隠しきれないまま、話題を変えようとぶっきらぼうな物言いで言った。

「そ、そんなことよりその陰陽師がなぜこの甘味処へ?」

「あ……ああ、仕事とは関係ない。ただ、徹夜で仕事をしていたからこれから仮眠を取りに邸へ帰るところなんだ。その前に、身重の義姉あねへの土産を買っていこうと思って」

 悠蘭の言葉に菊夏は目を丸くしていた。

 菊夏は昨日の感じの悪い印象とはまるで違う彼に少しずつ心を許していた。

「へえ……名無しの権兵衛さんなのに、ご家族想いなのですね」

「名無しの権兵衛って、俺のことを言っているのか?」

「そうですよ。だってまだ私はあなたの名前も聞いていないのです。私は名乗ったのに」

「ああ、そうだったな。俺は——」

 悠蘭が名乗ろうとすると、店主があんみつを包んで店の外へ出てきた。

「お客さん、お待たせしました!」

「あ、ああ。ありがとう」

 あんみつを受け取り代金を支払っていると、隣に座っていた菊夏はくすくすと笑いながら席を立った。

「それでは権兵衛さん、私はこれで」

 含みのある笑いを残し、菊夏は去って行ってしまった。

「あ、ちょっと! 俺の名は権兵衛じゃない」

 悠蘭はその背中に声をかけたが菊夏が振り返ることはなかった。

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