第16話 やり場のない憤り
月華が西国へ旅立った頃。
久我紫苑は京の警らを続けていた。
警らと言っても相手は姿の見えない謎の毒殺犯である。
男なのか女なのか、一般の民なのかどこぞの貴族なのかそれすらもわかってはいない。
そんな中でできることは多くない。
とにかく怪しい動きをしている者がいないか、常に見て回ることだけが唯一、今の紫苑にできることだった。
紫苑が所属する兵部省は、軍事を司る部署である。
荒事が起こった時だけでなく、未然に防ぐための活動も兵部省に任される範疇となる。
久我家は代々、武術の心得を持つ官吏を朝廷に排出しており、紫苑も何の疑問を持つことなく兵部省へ所属された。
これまで大事を経験したことはなかったが、半年ほど前の近衛柿人の事件から情勢が変わってきたように、紫苑には思えた。
これまで平穏だった京の様子が変わりつつあるのかもしれない。
あれこれ考えながら大路を歩いていた紫苑は息抜きに近くの茶屋へ寄ることにした。
辺りを見回すと「みつ屋」と書かれた甘味処ののれんがかかっている平屋の建物が目に入った。
入ったことはない店だったが紫苑はひとまず、そのみつ屋で休憩することにした。
のれんをめくり中に入ると、腰掛がいくつか並んだ簡素な造りをしていた。
客はおらず、店主の姿すら見えない店内は閑散としている。
耳を澄ますと店主は奥で誰かと話しているようだった。
話し声は聞こえてくるが内容まではわからない。
紫苑は1番手前にあった座席に腰を掛けると、深いため息をついた。
(一体いつまでこの不毛な警らを続けなきゃならねぇんだ……)
手がかりもまったくない状態で見回りしていることに苦痛を感じ始めていた。
李桜は毒殺犯の手掛かりを躍起になって探している。
悠蘭は民の不安を鎮めるための祭祀を執り行うという。
では自分には何ができるのだろうか。
犯人を取り押さえる武術が使えても肝心の犯人が分からなければ、結局、追いかけることすらできない。
そんなことを考えていると、入口から1匹の犬が店の中に迷い込んできた。
ぴんと耳を立てた茶色い柴犬で、呼びもしないのに紫苑のもとへ近づいてくる。
「なんだ、お前……迷い犬か? 店の中に勝手に入って来ると店主に叱られるぞ」
言葉を理解しない柴犬は、当然紫苑の助言を無視して鼻を鳴らしながらすり寄って来た。
「ん? 腹が減ってるのか。あいにくまだ何も注文してねぇんだよ、悪いな」
そう言って紫苑は犬を抱き上げると店の外へ出し、再び席に戻った。
そうこうしているうちに店主と話をしていたらしい相手が奥から出てきた。
出てきたのは白橡色の上質な着物に身を包み、色白の整った顔立ちをした男だった。
どこか不思議な空気を漂わせている。
身なりからすると官吏ではなさそうだった。
紫苑の存在に気がついたその色白の男は軽く会釈すると、風呂敷包みを抱え紫苑の前を通り過ぎて入口へ向かった。
すると、その包みから小さな巾着が零れ落ちたのを見て紫苑は男に声をかけた。
「あ、ちょっとあんた、何か落ちたみたいだぜ」
手を伸ばして拾おうとすると、男はすかさず自ら拾った。
まるで中身を見られたくないような機敏さだった。
「これは失礼……教えていただきありがとうございます」
「あんた、見かけない顔だがこの近くに住んでるのか」
「はい。私はこの近くに住む茶人で白檀と申します。日頃は邸から出ることはないのですが、今日はいい茶が手に入ったのでこちらの主人におすそ分けに参ったのです」
「へぇ、茶人か。どおりで……俺と同じくらいの年頃かと思ったが、官吏には見えなかったわけだ」
「その出で立ちからするとあなたは官吏なのですか? さしずめ兵部省あたりにお勤めとか……」
「え……なぜわかったんだ?」
「その節だった手は鍛えておられるからこそ。朝服を身に着け、こんな日中に市中にいらっしゃるのは今や警らをする兵部省くらいのものでしょう。あなたたちのことは噂になっていますよ」
落とした巾着を拾おうとした際に手を見ただけだろうに、節だった手だと気がついたことにも驚いたが、一瞬すれ違っただけの相手の容姿から職業まで想像していたとはさすがに紫苑も仰天した。
「——恐れ入った。大した観察眼だな」
白檀は屈託なく微笑むと再び頭を下げて店を出て行った。
客が来ていることに気がついた店主は慌てて注文を取りにやって来る。
「お待たせして申し訳ございませんっ! ご注文は何になさいますか」
「ああ、わらび餅を頼む。ところで店主、今の白檀という男はよく来るのか」
「え……ああ、たまにいらっしゃいますよ。茶人でいらして、いろいろな交友関係をお持ちで各地から珍しい茶を集めておられるそうで、時々その品を分けてくださるんです。白檀様がどうかなさいましたか」
男が出て行った入口を見つめながら、にやりと口角を上げ紫苑は呟いた。
「いや、面白い男だと思ってな。もう少し話してみたい気もする」
「では白檀様のお住まいに行かれては? 茶を点ててくださいますよ」
「俺は堅苦しいのは昔から苦手なんだ。茶の湯なんて柄じゃねぇし。でも時々ここに来るのならまた会えるかもしれねぇな」
「そうですね」
「ああ、そうだ店主。先刻、店の中に柴犬が一匹迷い込んできたから追い出しておいたぜ」
「あー、また来ましたか。あいすみません、お手数をおかけしました」
「また? いつも来るのか」
「ええ。いつからか出入りするようになっていましてね。たまにお客さんから食べるものをもらってるみたいなんで」
店主は苛立たしげに言い置いて奥へ戻っていった。
紫苑は急いで用意させたわらび餅を頬張ると、再び京の警らへ戻っていった。
夜も深まり、朧月が空に浮かぶ頃。
西園寺家家臣の三木は中庭の池のほとりでぼんやりと水面を眺めていた。
昨日、夜に1度戻りながらも再度出かけて行った李桜は何も言わずに出て行った。
今朝の椿は目の下にくまを作り、青白い顔をしてどこかへ出かけて行った。
ふたりの間に何があったのだろうか。
そんなことを考えている。
幼い頃に両親を亡くした李桜は悪意のある西園寺家の親戚たちに家督を狙われてきた。
西園寺家を乗っ取ろうとする者たちに何度も暗殺されかけ、その度に他人を信じられなくなっていった李桜が捻くれた天邪鬼になったのはある意味当然のことだった。
身を守るために、付け入る隙を与えないようにするために、他人を簡単に信用するなと教えてきたのは三木である。
だが、それは正しかったのか、三木は自問自答していた。
他人を簡単に信用しないように李桜を育ててきたために、自分の心の中を相手に伝えることが不得手な人間になってしまったのではないか。
独身を貫き通すつもりなのかと思っていた李桜が椿を連れて帰ってきた時は大層、驚いたものである。
妻にしたいと言っていた椿とは互いに理解し合っているのかと思っていたが、日を追うごとに妙なふたりの関係を三木も不思議に思い始めていた。
傍から見ればまるで夫婦のようなふたりは、本当の夫婦ではない。
李桜は婚姻を申し込んだと言うが、椿は未だにそれに応えていない。
だが、三木の目から見ても椿が李桜のことを好いているのは明らかだった。
(おせっかいなことはわかっているが、ふたりをこのままにしておくわけにはいかないな)
池に向かって深く息を吐いた頃、忍び足で邸へ入って来る人の足音が聞こえた。
三木はその足音を忍ばせる人物を捕獲するべく、中庭から邸の中へ戻った。
一方、深夜になり誰もが寝静まる頃になって、李桜はこっそりと邸に戻った。
誰にも気づかれないように寝殿に向かうつもりが明かりのない暗い廊下の途中で腕を掴まれた。
「……っ」
驚いて李桜が振り返ると、暗闇からまるで妖のごとく三木が姿を現した。
「お、脅かさないでよ」
李桜は固唾を呑んで言った。
三木はじっと李桜を凝視したまま、何も言わなかった。
彼は椿との間に何かあったことを勘づいているに違いない。
説明を求めるような視線に耐えられずその場を去ろうとしたが、三木に強く腕を引かれた。
「何か言うことはないか」
「き、昨日は説明もせずに出て行って悪かったよ」
「違う、そんなことじゃない」
「……そ、それ以外に何を言えと?」
「少し話をしようじゃないか、李桜」
(それって説教ってことじゃないの!?)
三木は驚愕する李桜の腕を引き、そのまま寝殿へ連行していった。
寝殿の中に入ると畳の上に正座させられた李桜は三木と膝を突き合わせることになった。
朧月の薄暗い月明りが差し込んでくる部屋の中で、鬼の形相をした三木は腕を組んだまま、静かに言った。
「昨日、夕方に慌てて帰って来た後、ここで何かあったんだろう?」
「な、何、急に」
「今朝の椿様がどんな状態だったかわかっているのか」
「……え?」
「青白い顔をして目の下にはくまを作っていた。ほとんど眠れなかった様子だったぞ」
「…………」
「お前たちふたりが決めたことなら、夫婦になろうと離縁しようと俺は何も言うつもりはない。だが、自分の想いや考えは相手に伝えるべきだし、相手のそれにもまた耳を傾けるべきだ。双方が誤解したまま仲たがいするのは互いに不幸なだけだろう?」
「……わかってるよ、言われなくても」
「わかっているなら、実行に移すだけだ」
言うほど簡単ではない、李桜はそんな言葉を呑み込んだ。
三木の言うことは誰よりも厳しいがいつも正しい。
確かにこのままではいられないことは自分自身が1番よくわかっているが、最も難しい課題を突き付けられているようで、李桜は闇の中で肩を落とした。




