第14話 美しい華に毒
紅蓮寺で稽古を終えた九条悠蘭はその足で京都御所へ向かうために、馬を走らせていた。
半年前まではひとりで馬に乗ることもできなかったが、やればできるものだと自分でも感心する。
最初は馬に振り落とされそうになっていたが、今では近江へ行く際の移動手段として利用することが普通になっていた。
悠蘭は李桜から依頼された祭祀の準備をするために陰陽寮へ向かっていた。
悠蘭の本業は陰陽師である。
しかも陰陽師たちを束ねる陰陽頭という立場にあって、しなければならない仕事は山積みだった。
通常の仕事に加え、京に横行する噂を鎮めるための祭祀を行うことは多少なりとも負担になるが、悠蘭はやり遂げるつもりでいた。
ちょうど京の入口付近まで走り抜いてきたところで、悠蘭は前方に不思議な動きをしている人物を見つけた。
藍色の袴が土で汚れるのも構わず地面に膝をついては、道端の草むらに生える目の前の草をあらゆる角度から観察している怪しい女子だった。
身なりからすると一般人には見えない。
(あまり京では見ない身なりの女子だな……何をしているんだ?)
近づいていくと、女子は自分よりも年若いように見える少女で草むらに生えている、とある草を眺めているようだった。
よもぎによく似た草で、決して触れてはいけないと言われているものだと気がついた悠蘭は思わず叫んだ。
「それに触れるなっ!」
声に気がついた少女は顔を上げて悠蘭の方を見た。
見知らぬ人物から怒られたことが不思議なのか首を傾げている。
悠蘭は慌てて馬から降りると少女に駆け寄って言った。
「君、それに触れては駄目だ。死にたいのか」
「何ですか、突然」
少女は悠蘭の言葉に臆することなく、問い返した。
「君は知らないのか。これは鳥兜といって、葉にも毒を持ってる。触れたところから毒が回るほど強力な毒草なのに素手で触ろうとするなんて」
「毒草なのは知っています。まだ触ってもいません」
「とにかく危ないからそれ以上近づかない方がいい」
悠蘭は草むらにずかずかと入り込み、少女の手を掴んだ。
間近で見るとどこかで見たことがあるような面影を感じたが、悠蘭は強引に路地へ引っ張り出した。
「無礼なっ!」
少女は眉を吊り上げて続けた。
「放してください。だいたい先ほどから君、君と連呼されていますけど私には菊夏という名前があります」
「なら菊夏、命がおしいのならその草には触れない方がいい」
「よ、呼び捨て!? 初対面なのに失礼な方ですね」
少女——北条菊夏は顔を赤らめて怒りを露にしていた。
思い切り悠蘭の手を振り払うと苛立たしげに腕を組んだ。
「はぁ!? どう見たって俺より年下じゃないか。だいたい何でこんなところにひとりでいるんだ。供の者はいないのか? 公家の娘には見えないけど……」
「あなたこそ名乗ったらどうなのですか」
「どうして通りすがりの俺が君に名乗る必要がある? 何をしようとしていたのか知らないけど、今、京をひとり出歩くのは危険だから気を付けた方がいい。俺はもう御所へ出仕しないといけないから送ってあげられないけど、誰か人を寄越そうか?」
「結構です!」
顔を背けた菊夏に悠蘭は理由がわからず首を傾げながら急いで馬に跨った。
「菊夏——とにかくその草には触れるなよ」
そう言い置いて悠蘭は走り去った。
突然現れ、言うことだけ言ってあっという間に去っていった青年の後姿を眺めながら菊夏は唖然とした。
赤茶色の髪を靡かせながら風のように去っていった青年は袴姿の割に腰に刀も差しておらず、考えてみればおかしな風体だった。
だが、菊夏はなぜかどこかで会ったことのあるような気がしていた。
(あの人、一体何なの……)
憤然としながら菊夏は滞在している六波羅御所に向けて歩き出した。
六波羅門まで辿り着いた菊夏が門を開けようとしたところ、中から北条鬼灯が自ら門を開いてくれた。
娘を叱る父親のような厳しい顔を向けながら菊夏を招き入れて、鬼灯は言った。
「菊夏。朝からどこへ行っていたのだ。ひとりで出歩くのは危ないから止めなさい」
「申し訳ありません、伯父上。附子を手に入れたかったものですから」
「何だと?」
「例の毒殺事件で使われているのは附子だそうですね。その解毒薬を作るのなら毒の特徴を詳しく知らなければ何も作れませんので。あいにく私は附子を扱ったことがないのです」
「まさかお前、鳥兜を採取しに出かけていたのか」
鬼灯は呆れて額を押さえたまま天を仰ぎ、我が姪ながら何と無謀なことか、と付け足した。
「ですが、摘もうとしたら変な男の方に止められまして」
「変な男?」
「北の方から馬で走ってきたのですが、妙な人でした。一見すると武士のような出で立ちなのに刀を持っていないのです。その上、私のことを君、君と呼ぶのでこちかから名乗ったら馴れ馴れしく呼び捨てにしてきたのですよ」
「ほう。お前をそこまで怒らせるとはなかなか骨のある男ではないか」
「からかわないでください」
「で、その男、名は何というのだ?」
「それが……名乗らずに馬に跨って去っていきました。ですが、どこかで見たことがあるような気がするのです」
「会ったことがある男だったのか?」
「いいえっ! あんな無礼な方は1度会ったら忘れません」
鬼灯は声を出して笑ったが、菊夏にばっさり切り捨てられた男を想像してみる。
北の方というと近江の方角か——菊夏と対等に渡り合えるとは、一体どこの誰か。
鬼灯は想像を巡らせてみたが、思しき人物は思いつかなかった。
鎌倉では天才の名を欲しいままにしてなおかつ北条家の姫でもある菊夏に対して大の男でも遠慮して対等に取り合う者はいない。
媚びへつらい、目を合わせる者も少ないほどだった。
普通に会話をするのは月華くらいのものだろう。
鬼灯はその無礼な男とやらに興味が沸いていた。
「だが、確かにお前の言うとおり、公家の男にしてはずいぶんと変わった男だな」
「どういうことでしょうか」
「公家の者たちは普段は牛車でのろのろと移動しているのだが、馬に跨ってとなるとその辺の公家の男ではないな」
「……いずれにしても私には関係ありません。もう2度とあの失礼な方ともお会いすることはないでしょう」
「もう2度と会わないかどうかはわからぬぞ」
「会いません。だって、私のことを年下の女だからって何も訊かずに、鳥兜を素手で触るなんて愚かだと決めつけたのですよ?」
「お前、よっぽど怪しい動きをしていたのではないか」
「そんなことはありません。鳥兜に毒があることは私も知っています」
「だが、それではその男は赤の他人のお前を心配して声をかけてきたのではないか」
「そう、かもしれませんが……」
不満そうにしている菊夏をよそに、鬼灯は内心、謎の男に感謝していた。
薬師としての知識があるとはいえ、天真爛漫な性格の菊夏は考えなしに行動するような節もあり心配していたところであった。
土地勘のないところで怪しい行動をしていた菊夏を気にかけてくれただけでもありがたかった。
「しばらく会わないうちにずいぶんと勇ましくなったものだ。お前を嫁にどうかと薦めようと思っている男もなかなかおもしろい男だが、あの者にはお前の舵取りは無理かも知れぬな」
「どういう意味ですか、伯父上。お会いしてみないとわかりません——伯父上が選んでくださった方とはどんな方なのですか」
「武術の達人を多く輩出する名門の公家の者だ。今は朝廷で官吏をしているが、その家の嫡男だから将来は当主となろう。月華の幼馴染だそうだ」
「月華様の……?」
菊夏が月華に憧れ密かに想いを寄せているらしいことを鬼灯は知っていた。
だがもう月華のもとへ嫁に出すことはできない。
変に取り繕うよりも、現実を見せ、新たな気持ちで別の相手を見つけてほしい、今回の縁談を思いついたのはそんな親心からだった。
「菊夏。月華のもとへ嫁ぐことはできぬぞ。いい加減、諦めなさい」
「わかっております。もう諦めました」
寂しそうにする姪の頭を乱暴に撫でて鬼灯は慰めた。
「何にしてもこの毒殺騒ぎが収まるまでは縁談どころではないな。陰陽寮が民のために祭祀を行うと言っていたが……さてどうなることやら」
朝廷のすることに直接関わるつもりはなかったが、京が変に騒がしくなれば再びその騒ぎに乗じてよからぬことを企む輩が出てくるかもしれない。
それは鬼灯にとって望ましいことではなかった。
多少の手助けをするつもりで菊夏を薬師として呼び寄せたが、それが彼女の運命を大きく変えることになろうとは、この時の鬼灯もまだ知らなかった。




