第12話 紅蓮寺
月華が鎌倉から戻って来た翌日、まだ朝の日が昇ったばかりの時分。
春の訪れを告げる鶯が鳴く近江の山中で、久我紫苑と九条悠蘭が激しい攻防戦を繰り広げていた。
日頃は狩衣を纏っている陰陽師の悠蘭も、この時ばかりは動きやすい袴姿だった。
紅蓮寺の境内には組み手を交わす弟子たちを見守る雪柊がいる。
彼の隣に正座する寺の見習い僧侶の鉄線はぽつりと呟いた。
「さすが月華様の弟君……たった半年で紫苑様と組み合えるようになるとは思いませんでした」
「うん、そうだね。悠蘭は月華と同じで筋がいいよ。勘がいいと言う方が的を射ているかもしれないねえ」
「それにしても、悠蘭様はお忙しい中でよく修業の時間を作っておられますね」
「月華の代わりを務めるなんて半端な覚悟じゃ無理だろうさ」
雪柊は細い目をさらに細めて境内の弟子たちを見やりながら、半年ほど前のことを思い返した——。
一連の事件が幕を下ろし、怪我の治った悠蘭や体調の良くなった百合が京へ戻っていった紅蓮寺はかつての静けさを取り戻していた。
雪がちらつき始める霜月の中頃。
鉄線とふたり、縁側で茶を呑んで談笑していたある日、白い息を吐きながら悠蘭は前触れもなく紅蓮寺にやって来た。
未だに着なれない様子の紫の狩衣を纏った彼はまたひと回り大人になったように雪柊の目には映った。
が、思いつめた表情で恭しく頭を下げる悠蘭にただならぬ気配を感じ、雪柊は声をかけた。
「悠蘭、久しぶりだね。どうしたんだい、突然」
「雪柊様、ご無沙汰しています。突然伺いまして申し訳ありません。実はご相談したいことがありまして……」
招き寄せた悠蘭に腰掛けるよう薦めると、彼は雪柊に並んで縁側に腰を掛けた。
「相談とは?」
「俺にも武術を教えてほしいんです。兄上は雪柊様に武術を教わったと言っていましたので」
「……君は陰陽寮に所属する官吏なんだから、武術なんて必要ないはずじゃないか」
「陰陽師として必要なわけではないんです」
「悠蘭——義のない力はただの暴力になるだけだよ。君がその力を得て何をしようとしているのかわからない限りは、修業させるわけにはいかない」
うっすらと開かれた雪柊の真剣な眼差しに射貫かれ、悠蘭は生唾を呑み込んだ。
そして鉄線に差し出された茶を一気に呑み干すと勢い任せに口を開いた。
「まだまだ兄上の足元にも及びませんが、兄上が九条家を継ぐために京に戻ってくるまでの間、家を守りたいんです」
虚を突かれて目を丸くする雪柊に向かい、悠蘭はさらに続けた。
「兄上はその持てる力で守りたいものすべてを守り通しました。その兄上が最愛の義姉上を京に置いてでも自分の務めを果たすために鎌倉へ戻られた……。だから俺は兄上の代わりに兄上が本当はしたいと思っていることをするべきだと思っています」
「月華の代わりをするつもりなのかい?」
「兄上は当分、鎌倉を離れることはできないでしょう。身重の義姉上もしばらくは京を離れらません。だから義姉上のことは俺が守らなければ……」
雪柊は悠蘭の瞳の中に強い意志を見て、口元を緩めた。
単に身を護る術として身につけたいと思っているのなら修業させるつもりはなかったが守りたいもののために力を手にしたいというのなら、と雪柊は心に決めた。
それまでそばで黙って聞いていた鉄線は心配そうに悠蘭を覗き込む。
「悠蘭様、雪柊様の修業は厳しいですよ?」
「構わない。ただ兄上の代わりになるためだけに修業したいわけじゃないんだ」
「どういう意味ですか」
「義姉上をあれだけ大事にしている兄上を見ていて、俺にも将来、そんな人が現れた時に兄上のようになりたいから……。兄上はいつでも憧れの存在で、少しでもその兄上に近づきたい」
少し顔を赤くしながら俯いた悠蘭の様子に雪柊は微笑んで言った。
「わかった、悠蘭。そこまで考えているなら、月華以上に厳しく修業しようじゃないか」
「えっ……兄上より厳しく、ですか。あの、雪柊様、お手柔らかにお願いします」
雪柊の不敵な笑みは、悠蘭の背筋を凍らせたのだった。
あれから半年の月日が流れた。
改めて紫苑と組み合う悠蘭を見て、雪柊は感心していた。
鉄線の言うとおり、基礎も何もなかった素人の悠蘭がこんなに短期間である程度戦う術を身に着けるとは思っていなかった。
それはひとえに目的を持って修業に励む悠蘭の努力に外ならない。
一方、雪柊が見守る中、紫苑も悠蘭と対峙しながら、親友の弟の成長を心強く思っていた。
半年前のある日、久方ぶりに叔父の雪柊を訪ねた紫苑は目を丸くした。
そこにはなぜか雪柊に蹴り飛ばされる悠蘭がいたからだった。
事情を聞けば、自ら紅蓮寺での修業を望んだという。
紫苑には悠蘭が何を考えているのかさっぱりわからなかった。
陰陽頭となった悠蘭が多忙なことは朝廷の噂で紫苑も知っていた。
とても修業する暇を作れるほど余裕があるとは思えなかった。
そもそも悠蘭には九条家という家があり、優秀な家臣が大勢いるのだから自らが表舞台で戦うことなどあり得ないはずである。
月華が紅蓮寺で修業していたのは成り行きだった。
単に家を出奔して行く宛がなく、流れ着いたのがこの山寺だったのだ。
だが、悠蘭は自ら修業を願い出たというからますます理解できなかった。
紫苑は打ちのめされても何度でも立ち上がり、雪柊に立ち向かう悠蘭に以前、訊ねたことがあった。
なぜ修業したいのか。
悠蘭は守りたいものがあるから、とだけ答えた。
悠蘭の言う守りたいものとは何を指しているのか、紫苑は知らない。
だが、悠蘭は確実に前へ進もうとしているのだと紫苑は思った。
力があれば守りたいものを守れた——そう後悔しているのかもしれない。
紫苑は拳を悠蘭の眉間に向かって突き出しながら言った。
「悠蘭、この半年でずいぶん強くなったじゃねぇか」
眼前でその拳を受け止めた悠蘭は眉間に皺を寄せる。
「馬鹿にしてますか、紫苑さん」
「馬鹿になんかしてないさ。むしろ上達が早いって褒めたつもりだ」
「あなたが言うと本気に聞こえないんですよ」
後ろに飛び退いて紫苑と距離を取った悠蘭は額の汗を乱暴に拭った。
悠蘭は辛口を叩きながらも、まだ紫苑の足元にも及んでいないことを自分でもわかっている。
守りたいもののために力を尽くせるよう、戦い方を学びたい。
その想いを雪柊が受け止めてくれなければ、今こうして紫苑と向き合うことはなかっただろう。
まだ鉄線の足元にさえ及ばないが、それでもいつかは兄の月華と互角に戦えるにようになりたい。
悠蘭の決意はゆるぎなかった。
「ふたりとも、休憩にしたらどうだい?」
肩で息をする悠蘭を見て雪柊は声をかけた。
「そうですね、叔父上。悠蘭、お前こそ休めよ。昨日は寝てないんだろう?」
「徹夜は慣れてますから」
「あのな……徹夜は慣れるもんじゃねぇぞ」
「性分ですから、放っておいてください」
そう言い合いながらもふたりは雪柊の立つ縁側へ向かった。
雪柊からそれぞれ手ぬぐいを受け取ると、頭からかぶり、縁側へ腰掛ける。
ふたりは鉄線が差し出した水を1杯、一気に呑み干した。
「悠蘭様、もうすっかり戦い方を覚えましたね」
「いや。まだ鉄線の足元にも及ばないことはわかっている」
「そんなことはありませんよ。ただ、月華様の足元には遠く及びませんけどね」
あっけらかんと毒を吐いた鉄線に悪気はなかった。
「悠蘭も、月華の戦い方を間近で見ることができれば少し参考になるんだろうけどな」
紫苑は額から流れてくる汗を手ぬぐいで押さえながら言った。
「確かに兄上が刀を振っているところは見たことがありますが、素手で戦っているところは見たことがないですね」
「俺が武士だったら絶対あいつのことは相手にしたくないね」
「どうしてですか」
「考えてもみろよ。刀がなくても戦える奴が刃物を振り回してるんだぜ?」
「武士なんだから刀を振ってるのは当たり前じゃないですか」
「わかってねぇな」
「俺には紫苑さんの言いたいことが全然わからないんですけど……」
悠蘭は困惑していた。
「速さが違うだろ。刀を振り回してても斬り込める速さがあるなら、刀を手放して身軽になったらどうなる?」
「……さらに、速くなる?」
「あいつがどうやって戦場で戦ってきたか知らねぇけど、刀はある意味、あいつにとって重石なんだろうと俺は思うぜ」
「つまり戦いの途中で刀が折れたり飛ばされたりしたら、これ幸いとさらに強くなる、と?」
「じゃねぇとあの鬼灯様の腹心なんかになれやしねぇよ」
「…………」
悠蘭は月華が戦場を駆ける姿を想像してみた。
皐英が月華を殺そうと追いかけていた折、悠蘭は首を絞められた状態ではあったが視界の端で月華が刀を持って戦っていたのを見た。
確かに月華は皐英が放った式神の獅子と彼らを追いかけて来た近衛家の兵たちの両方を相手にしていた。
多勢を相手にできるということはそれだけ相手よりも速くなければ戦い続けることはできないだろう。
実の兄でありながらさらに雲の上の存在になってしまったように感じ、悠蘭は固唾を呑んだ。
鉄線から再び差し出された水のおかわりを呑み干すと悠蘭はすぐに立ち上がった。
憧れの兄に近づきたい気持ちは山々だが、自分には他にもやることがある。
「もう行くのか、悠蘭」
「やることは山ほどありますから。紫苑さんだって呑気にしてる場合じゃないんじゃないですか」
「わかってるさ、俺もすぐ追いかける。今は李桜があんな状態だし、俺たちで何とかしないとな」
紫苑の言葉に強く頷くと手ぬぐいを首にかけたまま悠蘭は雪柊に深く頭を下げ、境内から続く石段の方へ向かった。
山頂にある紅蓮寺から見える麓の一帯には早朝の雲海が広がり、幻想的な景色が広がっていた。
悠蘭が石段を下りようと足を踏み出すと、その雲海の中からよく見知った人物が現れた。
石段を上りどんどん近づいてくる。
相手はふと顔を上げ、悠蘭に気がつくと口の端に笑みを浮かべた。
「おっ悠蘭。何だ、もう稽古は終わったのか」
「兄上、なぜここへ……」
108段の石段を上ってきたのは月華だった。




