第11話 三の姫の苦悩
月華と百合が仲睦まじくしている頃——白檀の邸宅にある菫荘には茶の湯を楽しむふたりがいた。
正座する白檀の近くに座る袴姿の今出川楓は釜から柄杓で湯を汲む茶人の姿を見ながら言った。
「白檀殿、椿殿は訪ねてきたか?」
「ええ、いらっしゃいました。可愛らしい方ですね」
「可愛らしい? 美人の間違いだろう」
「まあ確かに美人ではありますが……」
白檀は茶筅を手に持ちながら眉尻を下げて答えた。
「なぜ茶の湯の始めたいのか訊ねたら、保護者という方の役に立ちたいからだとか」
「……そうらしいな」
「女子らしく健気ではないですか。その保護者とは夫婦なのかと訊いたら違うとおっしゃるので私にも婚姻を申し込む権利があると申したら急に慌てだしまして」
くすくすと笑いを堪えながら白檀は勢いよく茶筅を動かし始めた。
軽く泡立った茶を楓の前に差し出す。
目の前に出された茶器を持ち上げると、楓は口をつける前に訝しげに白檀を見やった。
「そなたも彼女をからかったのか」
「からかったとは心外ですね。半分は本気ですよ。あんなに可愛らしい方が自分の伴侶であったなら幸せであろうなと思うのは本心です」
「同感だ。本来なら絶対にお目にかかることがないはずの方だったが、今では気軽に話ができる身近な存在となってしまうのだから、人の巡り合わせとはわからないものだな」
茶を呑み干した楓は嘲笑した。
「お目にかかることがないはずの方、とはどういう意味ですか」
「そうか、白檀殿は知らないのだな。あの方は、半年前までは近衛家の三の姫として邸の外に出ることはほとんどない姫だった。絶世の美女と噂されながら、帝の側室になる予定だったためにその姿は拝むことすら叶わなかった高嶺の花だったのだ」
白檀は一瞬、動きを止めたがすぐに何もなかったかのように片付け始めた。
「椿様は近衛家の姫だったのですか……」
「ああ。近衛家が六波羅に征伐されたことで帝との縁談もなくなったが、私が納得いかないのはそこでなぜ彼女が西園寺家に預けられたのかということだ」
楓は不満げに足を崩した。
胡坐をかくと、頬杖をつきながら膨れ顔を白檀に向けて続ける。
「だいたい李桜はどこで椿殿と出逢ったのだ。求婚するくらいなのだからそれなりに親しくなる機会があったということだろう? どう思う、白檀殿」
「さあ、私にはわかりかねます。ただ、椿様が何人もの男を魅了する方だということは事実のようですね」
「——違いない」
ふたりは声を出して笑いあった。
その後、何杯か白檀の点てる茶を呑みながら互いに世間話をしたが、楓は特に用もないようで菫荘を出て行った。
部屋にひとりとなった白檀は椿のことを考えていた。
近衛家の前当主が何をしたのか、よく理解している。
その渦中にいたのが三の姫だったということも粗方耳にしていた。
だが、まさか茶の湯を習いに来ている女子がその三の姫だったとは気がつかなかった。
楓からは、「椿という名の美しい女子が茶の湯を習いに訪ねていく」としか聞いていなかったからである。
暇つぶしにはちょうど良いと軽い気持ちで引き受けたが、椿が例の事件に関わる三の姫なのだとしたら——白檀の中に、ちょっとした悪戯心が芽生えていた。
翌日。
小鳥のさえずりが聞こえ始める朝方。
椿はうっすらと目を開けた。
昨日、頭を冷やしてくると言って出て行った李桜は夜のうちには帰ってこなかった。
どこへ行ったのか心配で帰りを待っていたがそのままうたた寝してしまったらしい。
椿は一晩中、李桜のことを考えていた。
(李桜様を怒らせてしまった……)
彼とのやり取りを思い返すと自然と涙が流れてくる。
椿は思わず両手で顔を覆った。
李桜に口づけられたことは嫌ではなかった。
むしろこれまでまったく触れようとしなかった李桜が気持ちをぶつけてくれたことが嬉しかった。
しかしなぜか途中でやめてしまった李桜の瞳に一瞬、後悔の色が見えたことが頭から離れない。
部屋を出て行った彼が向けた背中は椿を拒絶しているように見えた。
李桜のためを思って茶の湯を始めたことがそんなにいけないことだったのか。
身につけられるまで秘密にしておきたいという気持ちで、あの時はっきりと彼の問いに答えを出せなかった。
それが李桜の逆鱗に触れたようだった。
しかしだからといってここで止めてしまえば結局何もできない自分に戻ってもとの木阿弥になる——そう思った椿は重い腰を上げ、意を決して着替えると白檀に師事するために菫荘へ向かうことにした。
茶道具を入れた風呂敷包みを持って邸の門まで出てくると、そこには朝から掃き掃除をする家臣の三木がいた。
「おはようございます、三木さん」
「おや、椿様。今日もお出かけですか」
「はい……」
歯切れの悪い答えを返しながら、何となくばつが悪い気がした椿は視線を逸らした。
「では、お気をつけていってらっしゃいませ」
深く頭を下げる三木に、椿は困惑して言った。
「あのっ……、李桜様はどこへ行かれたのでしょうか」
「一度お戻りでしたが、またすぐに出て行かれたのです。おそらく御所にいるのではないかと。別に仕事詰めで家に帰って来ないことは珍しいことではありませんよ」
「そう、なのですか」
「ええ。ですが、椿様がこの邸に来られてからは確かにそういったことがなくなりました」
「え……?」
「主は椿様を本当に大事にされているのだと思いますよ。今日はよほど何か緊急の事態でもあったのかもしれませんね」
「…………」
そうではない。
李桜を怒らせてしまったから、彼は距離を置こうとしているのだろう。
椿は自分のしていることが本当に必要なことなのか、わからなくなっていた。
微笑ましく見送ってくれる三木の横を逃げるようにすり抜けて邸を出た椿は、とりあえず白檀のもとへ急いだ。
椿を迎え入れた白檀はその顔色の悪さに仰天した。
目の下にくまを作り、全体に青白い顔をしている。
その上、椿はことあるごとにため息をついていた。
菫荘に足を踏み入れた彼女は挨拶以外の言葉を失ってしまったかのように無言だった。
湯を沸かした釜を中心に向かい合って腰を下ろすと湯が沸くまでの間、互いに釜を見つめたまま、静寂の中にいた。
「沸いた湯を扱う時くらいは集中しませんと火傷されますよ」
「……っ申し訳ありません。昨夜はほとんど眠れなくて」
柄杓を手にしたまま呆然としている椿に、白檀は呆れ顔で言った。
「そのようですね。何か悩みごとでもおありですか」
釜の横に柄杓を置き白檀が顔を上げた様子を見て、椿は俯いた。
茶の湯を習い始めてから2日。
まだ何も習得できていないのにも関わらず、すでに気持ちは挫折しそうだったのである。
「……何だか自信がなくなってしまって。私が茶の湯を習得することに価値があるのでしょうか」
「あんなに意気込んでいた方の言葉とは思えませんね」
「あの時は……これを習得することが、大切な方のお役に立てる道だと思っていたのです」
「今は違うのですか」
「その方を怒らせてしまったようで……今となっては喜んでいただけるどころか、私が点てる茶に口をつけていただけるかもわかりません」
涙ぐむ椿は聞きしに勝る美しさだった。
絶世の美女と言われた近衛家の三の姫だったというのも頷ける。
白檀は気がつくとその美しさに心を奪われていた。
椿のもとへにじり寄ると、白檀は彼女の手を取り微笑んだ。
「ではその方のためではなく、ご自分のために習得されてはいかがです?」
「自分のために、ですか」
「ええ。あなたは以前、その方とは夫婦ではないと言っておられた。であれば無理してその家にいる必要はないのではないですか。私ならあなたにそんな顔をさせることはありませんよ、三の姫」
そう言うと白檀は椿の指先に軽く口づけた。
それはまるで求婚のようだった。
椿は一瞬、何が起こったのか理解できなかったが徐々に顔を赤らめると口づけられた手を慌てて引いた。
「か、からかわないでください……それに三の姫って、どうしてそれを——」
「楓様にお聞きしました。あなたはかの有名な近衛家の三の姫だそうですね。絶世の美女と噂され帝の寵愛を受け、表に出されることもなかったとか」
「もう私は近衛家の者ではありません。罪は咎められませんでしたが罪人の娘であることには変わりないのですから」
「表向きはそうでも、あなたの中に流れる血は紛れもなく高貴な血ではないですか」
椿の目に映る白檀の瞳は怪しく煌めいていた。
何かを企んでいるような含みのある微笑に若干の恐怖を感じた椿は固唾を呑んだ。
「……白檀様?」
「あなたが私の妻になってくれるのなら再び私がその栄光を取り戻して差し上げることもできるかもしれませんよ」
不敵に笑う白檀は吐息がかかるほどの近さで椿に迫った。
椿は返す言葉が見つからず沈黙していたが、白檀は急におかしそうに喉の奥で笑い始めた。
そのうちにだらしなく足を崩してのけぞり声を上げて笑い出した。
何がおかしいのかさっぱりわからず、椿は首を傾げる。
「あの……白檀様?」
「いや、失礼。あなたが真剣に悩んでいらっしゃるからつい、いじめたくなってしまいまして……お許しください。今のは冗談です」
「じ、冗談だったのですか!?」
「いえ、半分は本気ですよ」
どこまでも食えない白檀に椿は騙された恥ずかしさと悔しさで赤くなった顔を両手で隠すように覆った。
「もう、あまりからかわないでください」
「あははっ。本当に可愛い方だ。さて、気持ちも少し軽くなったようですし、始めましょうか」
椿はこくりと頷いた。
目が覚めた時にはあんなにどんよりとした気分だったにも関わらず、不本意にも白檀にからかわれたことによってその重苦しい気持ちは少し晴れていた。
(本当に不思議な方……)
白檀のことは今出川家が懇意にしている茶人というだけで、それ以外のことは何も知らないがその醸し出す雰囲気はどこか浮世離れしていて、人を惹き付ける魅力を持っている。
椿はその彼の魅力に引き込まれていくような気がしていた。




