第1話 春の日の憂鬱
暖かくなり始める卯月の中頃——西園寺李桜は相変わらず忙しい日々を送っていた。
近衛柿人が征伐されてから半年ほどの時が流れた。
柿人は処刑されたが、近衛椿は情状酌量が認められた。
近衛家に戻ることはできないが無罪放免となったのである。
柿人とともに倒幕を目論んでいたとされた西国の大名たちも一様に裁きにかけられ、それなりの罰を受けることとなった。
そうして朝廷の乱れは徐々に是正されて春の訪れとともにやっと平静を取り戻したところだった。
李桜は手元の書簡に目を通しながら、眉をひそめていた。
読めば読むほど顔を背けたくなるような内容がそこには書かれていたのである。
「李桜、何をそんなに難しい顔をしている?」
気がつくと文机に肩肘をついていた李桜の向かいにひとりの男が正座していた。
男は今出川楓といい、中務省に務める李桜の同僚だ。
青磁色の朝服に身を包み、長い髪をひとつに纏めた端整な顔つきがじっと李桜を見据えている。
楓は普段、李桜と文机を並べて仕事をしているが所用で席を外していた。
戻ってきたところ難しい顔をした李桜をからかうために、向かいに腰を下ろしじっと見つめていたのだった。
「楓、出かけてたんじゃなかったの」
「出かけていたが先ほど戻った」
「あんた……いつからそこにいたの」
「先刻からずっといたが」
「……気づかなかった。最近、京で起こっている怪事件の報告書を読んでいたんだ」
李桜は手元の書簡を楓に向かってため息とともに差し出した。
書簡には最近、京で立て続けに起こっている事件についての詳細が書かれていた。
それはここ半年の間に10人もの若い女子が毒殺されているというものだった。
殺された者たちの家柄や年齢などにはほとんど共通点がなく、犯人はまだ捕まっていない。
最初に被害にあったのはとある貴族の姫だった。
邸の者が気づかないうちに姫は泡を吹いて亡くなっていたといい、使われたのは附子だった。
そうして何人もの女子が同じ附子の犠牲になったと書簡には書かれていた。
「兵部省にはもう警らの依頼をしたのだろう?」
「依頼はしたよ。でもまだ犯人は捕まってない」
「そうか。それにしても物騒な世になったものだ。やっと朝廷も落ち着いてきたというのに」
「まったくだよ。いつになったら僕たちの仕事は楽になるんだか……」
「我ら中務省は他の部署と違ってあらゆる案件を最初に受け持つところなのだから、暇になることはなかろう」
そうぼやきながら楓は受け取った書簡に目を通していた。
「ん……? ここに興味深い記述があるな」
楓はその部分を指さしながら李桜に言った。
そこには狙われた女子の唯一の共通点が書かれていた。
「ああ、美人ばかりが狙われてるようだっていうところでしょ。ふざけた話だよ。美人を殺し続けて何の得があるの。殺された人たちはみんな家柄も年齢もばらばらだ。目的がまるでわからない。犯人像も見えてこないし、ここまでくるともしかしたら悪霊の仕業じゃないかと思えてくるね」
李桜は立ち上がると、外の空気を吸って気分転換しよう、と楓を誘い忙しそうにする部下たちの間をすり抜けて建物の外へ出た。
ふたりは春の新鮮な空気を吸い込み、深呼吸する。
散りかけた桜の香りが鼻をくすぐる感覚に癒されながら、李桜は一抹の不安を拭いきれなかった。
毒殺を繰り返しているのが悪霊ではなく、目的を持った人間なのだとしたら無差別に殺しているように見えて、実は誰かを狙っているのかもしれない——李桜はそう考えていた。
顔がわからないか、どこの誰なのかわからないから、それと思しき人物に目星をつけて殺しているのではないか。
もしそうだとしたら犯人は目的の人物に行きつくまで同じことを繰り返すだろう。
兵部省が捕らえるのが先か、犯人が目的を達成するのが先か。
いずれにしてもしばらくは該当しそうな女子がひとりで出歩くことがないよう、触れを出すしかなさそうだ。
「一応、陰陽頭にも指示を出しておこうかな」
「お前、本気か? 現実主義の西園寺李桜の言葉とは思えないな」
「民が怯えてる。少しでも不安を払拭できるならなんでもやるよ」
「だが、前の陰陽頭ならまだしも、今の陰陽頭に悪霊退治ができるのか」
「悪霊の仕業じゃないんだから、民の安心のための祭祀を執り行えばいいんだ。悠蘭は土御門皐英が最も可愛がっていた陰陽師だから、悪霊祭ぐらいはできるでしょ」
「先刻は悪霊の仕業じゃないかと言っていたではないか」
「そんなの、冗談に決まってるじゃないか。本気で思ってるわけないよ」
そんな話をしながら李桜は頭の中では同じ屋根の下に暮らす近衛椿のことをぼんやりと思い浮かべた。
(本当に美人だけを標的にしているとしたら椿殿も狙われるかもしれない……)
李桜が求婚してから半年、まだ椿から返事はもらっていなかった。
だが、李桜は彼女の気持ちが変わるまで待つと決めている。
急いだところでどうしようもないと腹を括って、李桜は変わらない日々を送っていた。
もしも椿の身に危険が及んだら——そんなことは考えただけで背筋が凍る思いがした。
かつて親友の九条月華が、妻に迎えた女を必死で守ろうとしていた気持ちが今の李桜には痛いほどよくわかる。
李桜にとって、椿はまだ妻ではない。
だが毎日彼女の声で名前を呼ばれ、他愛のない話を聞き一緒に食事をしたり、たまに逢瀬を楽しんだりすることがあまりに当たり前になってしまい、それが日常からなくなることは想像すらできなかった。
そんなことを考えていると、遠くから李桜を呼ぶ声が聞こえた。
「李桜様!」
李桜が声のする方へ視線を送ると、遠くに停まる牛車から降りてきた椿が駆け寄ってくるところだった。
ひとつ屋根の下に一緒に暮らして見慣れたとはいえ、近衛邸にいた頃からは想像できないような簡素な着物に身を包んだ椿がそこにいた。
桜色の着物はいつも邸の中で見ているはずなのに外で見ると一層、町娘風に見える。
だがその美しさは健在で、これまで噂になってきた彼女の美貌は纏っていた豪奢な打掛によって魅せられていたわけではないのだと李桜は改めて感心した。
「椿殿、こんなところでどうしたの」
「これを李桜様にお渡ししたくて」
そばに寄ってきた椿はその手に握りしめた包みを差し出した。
美しい絹の布にくるまれた細長い物を見ながら李桜は椿へ訊ねる。
「これは?」
李桜がゆっくりと布を広げると、中からは1本の上質な筆が顔を出した。
説明を求めるように椿に視線を送ると、彼女は屈託なく微笑んだ。
「李桜様。昨晩、筆が1本だめになったから新しい物を買い求めないと、と言っていたでしょ? だからお仕事に集中できるようにと思って」
椿の思いやりを愛しく思い、李桜はすぐにでも抱きしめたい衝動に駆られたがそばに楓がいることに気がつき、かろうじて自制心を取り戻した。
そんな李桜の努力を楓は鼻で笑った。
「椿殿に使いさせるとは、李桜も出世したものだな」
「……どういう意味?」
「椿殿、李桜のところでは雑用をさせられて大変ではないか。あなたは摂家の出身なのだから、本来は何もせずに家の中で姫として大事に扱われてもおかしくないはずだろう?」
「ちょっと楓、人聞きの悪いこと言わないでくれる? それじゃあ、まるで僕が椿殿を小間使いにしているみたいに聞こえるじゃないか」
「筆を買って来させるくらいだ。そう見えても不思議はない」
「ふふっ、楓様は誤解されています。私は李桜様のお役に立ちたくて好きでやっていることなの。言われたからやっているわけじゃないわ」
当然のことのように言う椿に楓は一瞬、目を見開いた。
建前ではなく、心から思って言っていることなのだと伝わってきただけに、美しく輝くその微笑みに吸い込まれるように楓は思わず椿の手を取った。
その手に口づけると不敵な笑みを浮かべる。
「椿殿、李桜のところで保護されるのが嫌になったらいつでも今出川家に来てほしい。私ならあなたを妻として邸の中に大事に囲っておく」
顔を赤くしながら俯く椿の手を乱暴に楓から引き離すと、李桜は彼の視界を遮るように椿を後ろ手に隠した。
そして嫉妬心を隠すことなく、苛立たしげに言った。
「気安く触らないでくれる?」
「何だ、李桜。椿殿はお前の妻ではないのだろう? 婚姻するまでは誰のものでもないのだから私にも十分権利があるではないか」
「まだしていないだけで、いずれ婚姻する。他の男の手出しは一切許さない」
若い官吏たちが一様に肝を冷やすという李桜の視線を受け止めながら、楓はじっと李桜を見つめた。
すると、楓は急に噴き出して笑った。
楓の目には李桜の背中で顔を火照らせている椿と必死で守ろうとする李桜の様子が滑稽に映ったのだった。
楓は椿が李桜と一緒に西園寺邸で暮らしていながら李桜の求婚に対して返事をしていないことを知っている。
目前のふたりの様子を見れば相思相愛であることは明白なのに、なぜいつまでも結論を出さない関係でいるのか不思議でならない。
だが、椿の存在が鉄壁の理性を誇る同僚の牙城を崩す重要な要素なのだと気がつき、いたずら心が芽生えていた。
「情け容赦ない中務少輔と言えども、女子の前ではただの男だな。安心しろ、横取りしようと思っているわけではない」
悪い冗談だと李桜は胸を撫で下ろしたが、楓は李桜の腕を強く引くと後ろにいる椿に聞こえないよう声を潜めて告げた。
「だが、油断はするな。奪おうと思う気持ちがまったくないわけではない。隙を見せればすぐに攫いに行くかもしれぬ」
そう言い残すと楓は建物の中へ戻っていった。
不敵な笑みを残して去っていった楓の背中を見ながら、思いもしなかった宣戦布告に李桜は返す言葉もなかった。
今出川楓という男は李桜が中務省で唯一、信頼に値すると思っている男だった。
広い視野で物事を見定め、よき相談相手でありよき競争相手でもある。
その楓に椿を狙われるかもしれないと思うと、李桜は不安でしかたなかった。
李桜は毒殺犯からだけでなく、優秀な同僚からも椿を守らなければならなくなったと思うと一気に疲れを感じ、深く息を吐いた。
「……あの、李桜様?」
李桜の背中で状況を呑み込めずにいる椿は心配そうに彼の背に声をかけた。
「……これから邸に帰るところなの?」
振り返り、李桜は目を細める。
「帰りますけど、その前に百合のところへ寄ろうと思っているの」
「九条家に? そう……じゃあそこまで送っていくよ」
「李桜様はまだお仕事が残ってるでしょ。牛車で移動するから大丈夫よ」
「本当に?」
李桜は椿の手を掴んだまま、空いている方の手で愛しそうに彼女の髪を撫でた。
牛車とはいえ、美人を狙っているという犯人が捕まっていないのにこのままひとりで行かせてよいものか……そう思いながらも、椿を束縛するように常にそばに置いておくことは本意ではない李桜にとって、ここはぐっとこらえるしかなかった。
「……気をつけて。百合殿によろしく」
名残惜しそうに手を離した李桜の様子を不思議に思いながらも、椿は彼に見送られ牛車へ乗り込んだ。
動きだした牛車に揺られながら、椿は別れ際の李桜の様子が気になっていた。
李桜は家に戻ってきても仕事で何があったのかを話すことはない。
最近の李桜は何か難しそうにしていることが多く、忙しそうでもあった。
近衛家の中で暮らしていた時には、朝廷がこんなに忙しいところだとは知らなかった。
中でも中務省は群を抜いて忙しい部署だという。
そんなところで要職に就く李桜のために何かできることはないのか——椿はもどかしさで心苦しかった。