年を取って絶望する
私の知っている人で、年を取ってから陰謀論的な話を始めた人が一人いる。また、急にネトウヨになった年輩の人も知っている。
彼らは年を取ってから、そうした物語に急にのめり込む。主観的には彼らは年取って「真実に気づいた」という事なのだろうが、無論、そんな事はない。
しかし、何の問題もない、ごく普通のおじさんが、年取って急にネトウヨになるのを見ると、人間の深みというものを感じる。彼らの言説そのものは問題とするに値しない、取るに足らないものだが、彼らが「そうなった」という現象その事が、結局の所、人が「普通に生きる」だけでは解決し得ない問題を背負っている事を証明している。
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では、どうして彼らは陰謀論にハマったり、ネトウヨになったりするのか。最近、キルケゴールの「死に至る病」を読み終えたので、その文脈で語っていくと、彼らは「絶望」しているというのが答えになる。
キルケゴールは、絶望を感じていない人間もその深層では絶望している、と繰り返し強調している。だから、自己の絶望を悟る事は、知性の進歩の第一歩である。
更に、絶望を感じる事は、孤立し、閉ざされた意識形態なので、それが神に向かって開いていかないといけない、とキルケゴールは考えている。しかしこの文章ではそこまでは取り扱わない。
人は絶望している。だが、絶望には気づかない。自分の深層では絶望しているのだが、それに知性が到達しない場合、彼らはその絶望を外部世界に負わせようとする。そこで、彼らは、世界にある様々な集団、異質な社会などが彼らを迫害していると考えようとする。
つまり、彼らは自分の中の絶望、自分自身が絶望を作り出しているという事実に目を向けずに、その絶望は外部によって強制的にもたらされたという風に考えようとする。年輩の人が陰謀論やネトウヨの物語にはまるのは、彼らが年を取り、死に近づいていく為だ。そこでは背中からぞわぞわと寂寥が忍び寄ってくる。しかし彼らはそれらと対峙する訓練を怠ってきた。そこで、その原因を外部に転化しようとする。
絶望はどこから起こるのか。人間は生きたい、と希望する。生きたいだけではなく、金を、異性を、地位を求める。それらの行く先は結局は、自己の絶対化、万能感であり、生の永続的な連続である。自己が絶対的なものとして他者に評価され、更にはそれが永続的に続く事を願う。
しかしその欲望それ自体も一般の人間には隠されている。彼らは謙虚を装う。「普通でいいのだ」と言う。しかしその「普通」が一体、何によって形作られているかを考えようとしない。欲望は隠されている為に、欲望からの墜落もまた隠される。
彼らは若い時には絶望しない。今の社会そのものが、絶望を回避しようとしている。絶望を回避しようとする社会は、私には、夏休みの宿題を後回しにする小学生のように見える。彼らは問題から逃げ出すのだが、それは問題を山積みする事にしかならない。しかしその事実すら彼らは見ようとはしない。
希望を持つ事は素晴らしい、絶望するのは悪い事だ。彼らは言う。そうして、大人になり、年を取り、絶望する。自分は死んでしまう、しかもその生には大した価値はないという事が見えてくる。だがここでも彼らはそれを見まいとする。そこで、絶望を与えているのは誰か他の他人だという事になる。
悪いのは世界であり、自分ではない。自分が、このように何の意味もなく死んでいくのは、世界のどこかに異常があるからに違いない。彼らはそう考える。そうして、現象としては陰謀論や、ネトウヨ的な物語にはまり込んでいく。
年を取って絶望する人は、絶望という根源的な問題に目をそらし続けてきた事に、年を取って向かい合う事を強制されているのだ。だが、そこでも絶望と真剣に向かい合う人はほとんどいない。彼らは絶望を避ける事にあまりにも狎れすぎていた。今になって自分の絶望を知覚する事はあまりにも苦痛である。そうして彼らはより深い絶望に落ち込んでいく。
私はキルケゴールや、ニーチェ、ドストエフスキー、パスカルといった人達が好きだ。彼らは、普通の人よりも遥かに早く、絶望の問題に向き合った。そこであるいはその闘争の果てに死んだのかもしれないが、彼らは普通人が避けて通る絶望を自身で先取りして、その問題と格闘した。そこに人類的な問題が現れる事になった。
「普通の人」はきっと、彼らの人生や彼らの思想は、自分達とは関係ないものと考えているだろう。しかしそうではない。人は、意識を持って生きている限り、自身の絶望からは逃れられない。だから、結局の所、絶望の問題と取っ組み合うか、そこから逃げるか、どちらかしか選択肢はない。そして後者の選択肢は、単に問題を後に回すだけだから、選択肢は一つしかない。人間は絶望という問題から逃れられない。
今の世の中からすると、暗い人間、根暗な人間は良くないらしいが、私はそうした人間の方が「先に」問題解決に取り掛かっているのではないかと思う。絶望は遅かれ早かれ人にやってくる。それを人生の最後に回した人達は、もうその問題と立ち向かうだけの力を自分に蓄える事はできない。そんな時間も残されていないし、それが何であるかも認識できない。だから彼らは自身の絶望に押しつぶされつつ、その根拠を、自分の外側に投げ出して、なんとか自分を慰めようとする。彼らは絶望に押し潰されて死んでいくが、自分が絶望していると、知る事すらできない。




