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「うーみーはーひろいーなーおおきーいーなー」
封鎖突破艦『吾妻』艦長である山野桜子特務大佐の、かすれた女性の声が艦橋に響く。副長兼航海長である田中太郎中尉はそれを止めようと考えるも、思い留まった。艦橋の部下達が彼女と共に歌っている姿が、余計な力が抜けた良い体勢だったからだ。
それに、伍長から中尉に急に昇進させられた田中には、この歌を止めるべきか続けさせるべきかの判断を下せるだけの経験がなかった。
だから直感で判断するしかなかった。
米軍の潜水艦を警戒して、ガチガチに固かった部下達を、歌ひとつでここまで変える。
(もしや山野特務大佐は中々な腕前の艦長なのでは?)
そう尊敬の視線を受ける彼女は。
(いつ溺死出来るかなー?)
とんでもないことを考えていた。
この女、実は未来からの転生者なのだが。未来知識を活かしたのは昭和農業恐慌の米相場と少しの投資程度。
荒ぶる米相場で荒稼ぎした後、1935年の一五歳から札束ビンタで日本郵船の貨客船に通信士として勤務し。真面目な仕事ぶりで昇進を重ね。1940年には副長に昇進。
そして記憶にあったミッドウェー海戦直後に船乗りの伝手を使って海軍に志願したという経歴の持ち主だ。
何故そんなことをしたのかというと。
『確実に溺死するため』
である。
前世で溺死した彼女は、それが癖になってしまい。幼少期に自分で溺れようとするも助かってしまったこと三回。
『確実に溺死しないとあの感覚は味わえないからなー。……そうだ! 太平洋戦争で船長になって船に残る形で溺死すれば良いね!』
という思考の下、『なんとなく死ねそうな気がする』海軍へと志願し、『吾妻』の艦長に収まったのだ。
変態に行動力と運を与えてはいけないという、良い見本である。
戦局はますます日本不利に傾いていた。
連合艦隊司令長官である山本五十六は四月一八日にブーケンビル島上空に散り。
五月一二日にアッツ島守備隊員は玉砕。
七月六日のクラ湾、一二日のコロンバンガラ島の海戦により、肝心の鼠輸送に当たっていた艦隊は被害甚大。
七月二九日に日本軍はキスカ島から撤退。
そんな状況で『吾妻』はというと。
七月七日に燃料庫に石炭を、小貨物庫に航空機の交換部品を満載して呉を出港。
一三日にブルネイに到着して、大貨物庫に重油の入ったドラム缶を満載し。更に山野艦長は乗員室の端にバナナの入った木箱を『食べ放題』の張り紙をした上で置く。このバナナは、山野艦長の私費で購入されたものだった。
新兵達は邪魔なバナナ木箱も『食べ放題だしなあ』と許しつつ、毎日三本はバナナを食べた。
とにもかくにも荷物を満載した『吾妻』は、一四日にブルネイ港を出港し、大至急でラバウルへ向かうも、到着したのは二八日のことだった。
大貨物庫と言いながら、長さ二〇×幅一二×高さ五メートルしかない貨物庫に入るのは、たった三六七〇本のドラム缶。リットル換算で七三四〇〇〇リットルしかないが、常に物資不足のラバウル指令部は『吾妻』を大歓迎した。
航空機の部品も貴重だったし、バナナも士気を上げるのに役立った。バナナの入った箱と同量の空の木箱の存在は謎ではあったが、あって困るモノでもないので受け入れた。
そして即座に、『吾妻』は作戦に投入されることとなる。それだけ艦が足りなかったのだ。
参加する作戦は『鼠輸送』の一環。
コロンバンガラ島の日本軍守備隊増強のため、第四駆逐隊の駆逐艦に臨時で編入された上で、物資と兵員を輸送するのだ。
小貨物庫を突貫で改造して兵員三〇名を入れられるようにし(居住性は犠牲となった)。大貨物庫に武器弾薬医薬品缶詰を満載した『吾妻』は、八月六日、第四駆逐隊とブイン輸送に向かう軽巡洋艦『川内』と共にラバウルを出港する。
第四駆逐隊
警戒隊
・駆逐艦『時雨』
輸送隊
・駆逐艦『萩風』
・駆逐艦『嵐』
・駆逐艦『江風』
・封鎖突破艦『吾妻』
輸送隊運搬物資計一五〇トン、陸兵計九四〇名
・うち『吾妻』積載物資六〇トン、陸兵三〇名