ヲクニモノカタリ 柏崎農業高校小国分校同好会 紙と文化の会 記録係 島屋敷博行の臨時報告 「苔野島の剣の件」
昔、ある場所で高校生達が古剣を掘り出した。
なんとその剣が草薙の剣だというのだ。
その高校生の一人、島屋敷博行の報告によって、草薙の剣と日本神話、そして民間伝承を取り巻く秘密が明かされる。
草薙の剣編
草薙の剣とは、日本神話の中でスサノオがヤマタノオロチの尻尾から見つけた剣です。ヤマトタケルが携えていた剣としても有名です。そして草薙の剣は、現実の日本に実際に存在しています。三種の神器の一つで、皇室のレガリアです。レガリアとは王が国を継承する時、正統な王位継承者である証明になる物です。そして現在、一般的に草薙の剣は二振りあると言われています。一つは熱田神宮、一つは宮中(皇居)の鏡の間。なぜ二振りもあるのでしょうか。どちらか一つは本物で、もう一つは偽物でしょうか。実は一般的にはどちらも本物の草薙の剣だと言われています。そして熱田神宮の草薙の剣は本来の草薙の剣で、宮中のものは形代だとも言われています。一体どういうことなのか。これからこの二振りの草薙の剣について、詳しく説明しましょう。
まず熱田神宮の草薙の剣はヤマタノオロチから出た剣でしょうか。結論から言うと分かりません。草薙の剣が熱田神宮に伝わった経緯は、日本神話等に次の様にあります。ヤマタノオロチを倒したスサノオがアマテラスに草薙の剣を渡し、アマテラスは天孫ニニギにそれを渡し、それからニニギの子孫の初代天皇である神武天皇に伝わり、以降代々皇室のレガリアとして宮中にありました。十代崇神天皇の時、形代が作られ、それを宮中に置き、元の草薙の剣は伊勢神宮に祀りました。十二代景行天皇の時、皇子ヤマトタケルは伊勢神宮の草薙の剣を携行して東国を平定し、後に剣は熱田に置かれました。剣が置かれたその地に今の熱田神宮が建ちました。時代が下って38代天智天皇の時、新羅の僧侶が草薙の剣を盗み、捕まりました。どこから盗んだのかは書かれていません。そしてその時から草薙の剣は宮中に置かれました。ちなみに崇神天皇の時の形代と共におかれたのか、分かりません。40代天武天皇の時、草薙の剣が天武天皇に祟るとして、熱田神宮に移されました。何故か戻されたとは書かれていません。それ以来草薙の剣は熱田神宮にあるとされています。
以下は横道うんちくでとばしても良し。
ここで一つ言っておきたいのが、日本神話とは何かということです。
まずそれは、飛鳥時代に作られた「古事記」と「日本書紀」、全国の「風土記」に書かれた神話のことです。しかし「風土記」はごく一部しか残っていません。その百年後の奈良時代に書かれた「古語拾遺」と、二百年後の平安時代初期に書かれた「先代旧事本紀」も日本神話に含める説が有力です。それ以降のものは中世日本紀といって、日本神話を元に新たに書かれた物語という扱いです。「日本書紀」と「風土記」は飛鳥時代の皇室、「古語拾遺」は祭祀を司る忌部氏、「先代旧事本紀」は物部氏が作りました。「古事記」は天武天皇が主導したと言われています。また、全国各地の地名、寺社に伝わる縁起譚、古文書、系図にも日本神話の断片が伝わっているようです。
そして日本神話は実用品でした。基本的に日本神話は氏族の出自を表しています。天皇の祖先アマテラスからの天孫族の系譜に近ければ近い程、その氏族にとって有利で良い役職につけるという実益がありました。従ってその氏族が作った日本神話の書は、その氏族に有利な記述が多いということです。このことは日本神話を理解するのに役に立ちます。
横道うんちく終わり。
次に現在宮中にある草薙の剣です。ヤマタノオロチから出てきた剣でしょうか。こちらはほぼ確実に違うと思います。そもそも宮中に伝わる草薙の剣は十代崇神天皇の時作られた形代とされています。さらに平安末期、源平合戦の時、壇ノ浦で安徳天皇と平家が滅んだ時、草薙の剣も海に沈みました。勝者の源頼朝は数ヶ月海中を捜索させましたが見つかりませんでした。そして後に伊勢神宮の剣を草薙の剣として宮中に祀りました。今の宮中の草薙の剣はこれだとされています。また下って室町時代に後南朝勢力が三種の神器を強奪します。剣は後に見つかりましたが、奪われた剣だったかは不明です。ということは、伊勢神宮の剣ですらない可能性があります。
やはり一般的に言われているように、熱田神宮の草薙の剣が本来のもので、宮中の草薙の剣は形代ということでしょうか。
実はここに一つ大きな疑問があります。それは平安末期の壇ノ浦に沈んだ草薙の剣についてです。源頼朝は平清盛一族を滅ぼした壇ノ浦の海戦の勝利より、草薙の剣を喪失した失策を重要視しました。陣頭指揮を取った源義経を叱責し、ここから義経の転落が始まります。また頼朝は草薙の剣を見つけるべく、全国から海人を多数召集し数ヶ月間壇ノ浦を大捜索させました。結局剣は見つかりませんでしたが。
この大規模な剣捜索が奇妙なのです。崇神天皇の時代から本来の草薙の剣は熱田神宮にあるのではないでしょうか。ならば失われた剣は形代で、戦に勝利した将軍を叱責したり、大金をかけて大捜索させたりするほどの大問題ではありません。熱田神宮に頼めば、草薙の剣から御霊を移した形代を新たに宮中に置くことが出来るからです。しかも頼朝の実母は熱田神宮の大宮司の娘由良御前です。それを頼めない理由はありません。これはどう考えたら良いでしょうか。
推測すると、当時熱田神宮の草薙の剣は皇室のレガリアではなかったのではないでしょうか。レガリアはあくまで宮中の草薙の剣だと考えられていた。とすると状況が分かりやすくなります。つまり本来の剣が無くなり大騒ぎしたのです。唯一の千年の神剣が失われたと。
後の話ですが、後鳥羽天皇の践祚の時に三種の神器のうち草薙の剣がなく、正統な即位か否か意見が分かれたこともありました。さらに皇室は後々、熱田神宮からではなく伊勢神宮から古剣を貰い、それを新たにレガリアの草薙の剣としました。
草薙の剣の喪失は、皇室の権威失墜の流れを加速しました。そして中世以降のそのような流れへの反発として、皇室の権威回復を目的に様々な言説や動きが起こりました。その一つが熱田神宮の草薙の剣縁起譚「熱田の神秘」であり、「平家物語 剣巻」等の刀剣縁起譚でしょう。また、「古事記」や「日本書紀」などに描かれた、崇神天皇や天智天皇の草薙の剣説話の再評価も中世以降です。「神皇正統記」もその流れの一つと言えます。刀剣そのものを神聖視する発想も、草薙の剣喪失がその起源の一つといえるでしょう。
横道うんちく。
日本の刀剣について簡単に説明します。
日本の刀剣を時代で分類すると、飛鳥から平安中期までが古代刀、平安中期から安土桃山までが古刀、江戸初期から江戸後期までが新刀、それ以降は幕末頃が新々刀、戦前頃が近代刀、戦後が美術刀となります。
刀が大体今の形になったのは平安時代の中頃の古刀からです。蝦夷の使っていた蕨手刀が元になったと言われています。刀の語源はカタナギからで、刀剣が片刃になってからの名です。刀の片刃と反りは、騎馬武者が馬上から撫で斬りするのに適した形です。それ以降も時代により戦闘様式が変わり、道具としての刀は少しずつ変化しました。また素材の鋼の生産方法や加工方法も変わり、その時代の様々な刀の造り方が工夫されました。もっとも今では室町時代以前の刀、古刀の造り方や製鉄方法はほぼわかっていません。現在は玉鋼を使う江戸時代以降の刀、新刀の作り方が伝承されていて、一般的には刀といえば玉鋼から造るとされています。
このような歴史を経て、現在でも刀鍛冶は全国各地に色々な流派があり、各々特色の有る刀の作り方をしています。
そこで草薙の剣ですが、これは多分古代刀よりさらに古い刀剣だろうと思われます。鉄剣か銅剣かは議論が分かれるでしょう。しかも一説によると特殊な形をしているかも知れない剣です。
また細かいところで、様々な刀剣の銘や刀剣縁起譚も説明したいのですが、深入りしすぎかもしれません。
横道うんちく終わり。
重ねて言えば、熱田神宮の草薙の剣が本来の草薙の剣だという言説が支持され始めたのは、壇ノ浦で宮中の草薙の剣が喪失してから数十年後、あるいは数百年後のことでした。その言説の狙いは第一に皇室の権威回復にありました。確実な証拠に拠ったものではありません。従って熱田神宮の草薙の剣が本来の剣であるかは不明です。その可能性は無くはないが、どこかの古剣を神話にそって草薙の剣と名付けたものだ、という可能性もあるわけです。少なくとも壇ノ浦で草薙の剣が喪失した当時、熱田神宮に本来の草薙の剣があると認識していた人は極少数でした。
さらに深掘りすれば日本神話成立時の状況が、草薙の剣や伊勢神宮、熱田神宮や物部神社や弥彦神社はたまた皇室のあり方にも大きな影響を与えていますが、ブツブツブツ。。。
結論を急ぐと、現存する熱田神宮の草薙の剣も宮中の草薙の剣も、二振り共にヤマタノオロチから出てきた剣とは信じられません。ということで、一般的な草薙の剣についての説明は終わります。
で、ここにある三振目の草薙の剣、きのう苔野島から出てきた古剣が、本来の草薙の剣だというのが雪村会長の主張です。
調べてみると、この古剣が本来の草薙の剣だといえる証拠と根拠は、ほぼ矛盾なく揃いました。それで私も、この蛇のような古剣が本来の草薙の剣であると思いました。ただし、この剣はヤマタノオロチから出てきたのではなく、日本神話ができる前からある聖剣で、途中から草薙の剣になったと思います。
以仁王編
これから何故そう思ったのかを説明します。少し長くなりますが聞いて下さい。実は、草薙の剣は以仁王の物語と密接に関わっています。皆さんもご存知と思いますが、以仁王とは今現在雪村会長に取り憑いているらしい霊のことです。それでこの草薙の剣は、「平家物語」の時代、治承4年、西暦では1180年の秋、以仁王が苔野島に持ち込んだものです。史上有名な以仁王の乱の三ヶ月後の事です。通説では以仁王は京都におけるその乱で平清盛率いる平家軍に殺されましたが、この小国郷には異説が伝わっています。以仁王逃亡説話の一種です。その異説によると、以仁王とその一行は生き延び、東国を旅してここ小国郷に立ち寄り、また後に熊野に旅立ったといいます。さらにその子孫は紆余曲折を経て、いつしか小国に戻り、以仁王と子孫の歴史を記した巻物を代々伝えていました。その巻物の今の継承者が何を隠そう我らが会長なのです。
その巻物はまだ解読できない部分が多く、近く専門家に依頼する予定でした。ところが昨日会長が天啓を受け、一気にその内容を理解されました。神眼というらしいですが。それで会長が理解した巻物の内容を私も聞きました。それをノートにまとめたものがここにあります。その内容をこれから話そうと思います。まず始めに断っておきますが、現代科学では荒唐無稽とされる不可思議な事柄がでてきます。神々や御霊信仰や怪異譚などです。しかしそれを我慢するとやっと理解できますので、辛抱して聞いて下さい。
以仁王は後白河法皇の第三皇子で正統な皇位継承者でしたが、平清盛の策謀により親王宣下も受けられずに不遇をかこっていました。そんな有閑皇族であった以仁王は、実は生まれつき特殊な能力を持っていました。その能力とは、異常なほど高い知力、死者生者問わずその記憶を見ることが出来る神眼、天狗のような体力、さらには口から冷気や炎の塊を発射する能力でした。また異常な大食でもありました。
時は治承4年4月23日、以仁王の乱の2週間前、場所は平安京でした。以仁王は当時の安徳天皇の里内裏に侵入するためその付近で竜巻を起こしました。侵入は成功しましたが、その竜巻によって多くの家屋が倒壊し、死傷者が出ました。これは鴨長明の「方丈記」に辻風として記録されています。内裏侵入の目的は草薙の剣の奪取にありました。以仁王は半ば倒壊した清涼殿から易易と草薙の剣を得ました。その際剣だけを取り、重い桐の外箱と石の中箱と中敷きのベンガラは元のまま残しました。そのため平家側は5年後壇ノ浦に没するまで剣盗難には気づきませんでした。壇ノ浦の平家は元々草薙の剣を持っていなかったのです。源頼朝が見つけられなかったのも無理はありません。以仁王が三種の神器のうち草薙の剣だけを奪った理由は、まず自らが天皇に即位するための武力を得る為でした。草薙の剣は皇室の武力の象徴であり、天武天皇の壬申の乱の故事に倣うためにも、武士を味方にするためにも必要なものでした。
この後、三条高倉の御所に帰った以仁王は、自分が天武天皇の霊に取り憑かれたことを悟りました。かつて天武天皇は草薙の剣の祟りによって死んでいたので、その剣に霊が宿っていました。それが以仁王に取り憑いたのです。その時以仁王はその能力、神眼で天武天皇の生涯を追体験しました。神眼とは、生者や死者等の視覚的記憶を一瞬で見ることができる能力です。だからその映像の数々はほぼ一人称視点で、日本書紀の天武天皇の巻に描かれた華々しく雄々しい生涯とは違いました。一人の生身の男の物語でした。
また霊に取り憑かれると、その霊の特徴が憑かれた人物に影響することが多いものです。天武天皇も天文遁甲という予知能力を持っていたので、その影響が以仁王にもありました。見方を変えれば、天武天皇の能力を以仁王が取り込んだとも考えられました。
ところで、それよりも他に問題がありました。以仁王は神眼で草薙の剣に宿っているもう一人の霊を見つけたのです。それは天武天皇を祟り殺した強力な霊で、忘れられた古代の神でした。その神はかつて人として生き、古代諸王家とともにこの国を作り上げたある人物でした。死後祀り上げられ神となっていましたが、後に忘れ去られ、祟り神になっていました。
古代の神編
この神が草薙の剣に宿った時、つまり人間として死んだ時は、日本神話は今のような形ではありませんでした。この神は、日本神話の代表的文献である「古事記」や「日本書紀」には出てきません。かつてあったとされる「帝紀」や「旧辞」に記されていたか否かもわかりません。あるいはさらに古い神話の神だったかもしれません。この神の名は、失われてしまったのです。しかし以仁王はこの神の生前の記憶をその神眼で見ました、この祟り神に取り憑かれたその瞬間に。
この神は生前、蛇神を祀る王家の将軍で、その地の聖なる山の名を貰うほどの勇将でした。その将は常に蛇剣を持ち、一軍を率いヤマトで活躍し、次にナニワを出てイズモに上陸し、その地を平定しました。さらにコシ、今の新潟県寺泊市の野積浜に上陸しました。その将の快進撃は続き、遂にはコシ一帯を平定し、その王家の統治する地としました。やがてその将は、コシの地で亡くなりました。その地は今の小千谷市の魚沼神社辺りです。そしてその亡骸は軍事行動中であったためか、近くの山中に密かに葬られました。それがあの苔野島の陵です。後にその将の霊といつも携えていた剣は、コシの聖なる双子の山に正式に神として祀られました。この時その将の霊はその蛇剣に宿りました。その山の今の名前は弥彦山と多宝山で、弥彦山はかつて神剣峰といわれていました。また、やしろは今の弥彦神社があるところに建てられました。
時代は移り、その将の属していた王家は滅びました。新王家は旧王家の神々を自らの神々として祖先神話に組み込みました。さらに神剣峰から聖なる蛇剣を奪い、自らの王統のレガリアとし、宮中に置きました。その時かつてコシを平定したその将の名は失われ、その偉業は新王家の祖先の偉業とされました。新王家の祖先とは、例えばスサノオやオオヒコやヤマトタケル、ワカタケルのことです。そのなかで、奪われた蛇剣は新たに草薙の剣と名付けられました。その名のクサは腐ったとか強いの意味、ナギはナガイとか蛇神ナーガに通じる蛇の意味で、クサナギとは強い蛇のこと、つまりその将のことでした。
草薙の剣に宿っていたその将は、名を捨てられ、祭祀を廃され、物語を奪われたその時から、祟り神となりました。
その祟り神を宿した草薙の剣は、剣をレガリアとした新王家にさえ恐れられ、事実度々厄災を起こしました。しかし新王家はこれを手放そうとはしませんでした。いや、自らが作った草薙の剣伝説に縛られ、手放すことが出来なくなっていたのです。
天武天皇と持統天皇編
以仁王はさらに、かつて古代の将であったこの神が祟り神になった後の記憶も見ました。
時代は移り、天武天皇はこの古代の祟り神、草薙の剣に殺されました。なぜなら、彼が歴史上何度目かの神話改変事業を主導したからです。草薙の剣はかつて自身の名を奪ったこのような行為を最も嫌っていました。天武天皇は自らの王家の都合に合わせた偽りの歴史を編み、後に「古事記」としてそれは完成しました。
しかし天武天皇も天文遁甲を修めた能力者だったので、自身を取り殺そうとする草薙の剣に祭祀や呪術で対抗しました。その一つとして草薙の剣の形代を、身内とも言える尾張氏の熱田神宮に祀りました。それに合わせ更に歴史を改変し、本来の草薙の剣を形代、形代を本来の剣としました。これは草薙の剣の力を削ぐ策でした。しかし、その結果天武天皇は死にました。草薙の剣に負けたのです。この天武天皇と草薙の剣の戦いの痕跡は、「古事記」と「日本書紀」の草薙の剣に関する混乱した記述として今に残っています。
ところで、「小倉百人一首」の第二首に、天武天皇の皇后で次代天皇の持統天皇の有名な歌があります。
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天香具山
一般に意味は、「春が過ぎて夏が来たようだ、天香具山に白い夏の服が干されているのを見ると。」で、視覚的に美しい情景と順調な季節の移り変わりを表し、穏やかに進む天皇家の未来を言祝いでいる。となりますが、異説も多くあります。
横道うんちく。
元々この歌は「万葉集」に採られた、持統天皇が藤原京を言祝いでいる歌です。それが藤原定家によって「新古今和歌集」に採録され、後に「小倉百人一首」にも採られました。
一つ大前提として、「万葉集」の読みは一度失われ、新たに研究されて読まれている読み方だということがあります。藤原定家の「小倉百人一首」も後代の読み方でした。
実際の「万葉集」にはこの歌は以下の様に書かれていました。
春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香久山
これを本来は以下の様に読んだといいます。
はるすぎてなつきたるらししろたえのころもほしたりあまのかぐやま
しかしこの歌の異説の一つでは、「衣乾有」をそかわきたるありと読みます。楮の衣が乾いてここにあるということは夏がきたのだな、という意味です。洗濯物を干してはいません。衣を「そ」と読むのは一度目の允恭天皇の藤原京にいた衣通郎姫からです。美しく哀しい側室として「日本書紀」に描かれています。また当時袖がついた幅の広いトップスをコロモ、袖なしの幅の狭いものをソと呼んで区別していました。「なつきたるらし」で「そかわきたるあり」だから韻を踏んでいます。また、天香具山は天岩屋伝説の地で、天香具山南麓に天岩戸神社があります。
これらを踏まえてから訳すと次になります。
「春が過ぎて夏が確かにやって来たようだ。なぜなら白栲の衣を干して乾いたのが手元にあるから。日光が強くなったのだ。思い出せば、その昔天の石窟に籠ってしまった日神、天照大神に出てきてもらうように祈った時、天の香具山の五百箇真坂樹(五百津真賢木)を根ごと掘り取ってきていろいろな飾り物を懸けて用意した。それで再びお日様は輝くことになった。ここ藤原宮から天香具山がよく見えるほど晴れ渡っている訳は、衣を光が通ったと言われたほどの衣通郎姫が住まわっていたところだからだろう。」
横道うんちく終わり。
巻物によると、この歌の本来の意味は別にありました。それは草薙の剣に宿った祟り神の鎮魂でした。歌の天香具山とは、弥彦神社の今の祭神である天香山のことで、暗に草薙の剣の祟り神のことを意味したというのです。先程も言いましたが、この神が最初に祀られた場所が神剣峰、今の弥彦山です。新王家はこのコシの聖山から聖剣を奪った後、そこに弥彦神社を作り、この神を新たにイヤヒコとして祀りました。しかし聖剣そのものがこの神だったので、鎮魂の効果は発揮されませんでした。
現在弥彦神社の祭神は天香山とされていますが、これは江戸時代に比定されたものです。しかし以前からイヤヒコは天香山だという話があったといいます。おそらく持統天皇がこの歌に秘めた意図に気付いた人がいたのでしょう。あるいは、かつてこの神を祀っていた人々の遠い記憶が残っていたのかもしれません。
以上のことから、この歌の解釈は次の様になります。
「順調に春が過ぎて夏になろうというのが、私の祈りの衣装の乾き具合でわかります。このように政が順調ということは、あなたは天武天皇がしたことをお赦しになって我々を見守ってくれるのですね、天香山命よ。」
ちなみに弥彦神社では今も鎮魂祭が行われています。他に鎮魂祭が行われているのは、宮中、石上神宮、物部神社だけです。
このように持統天皇は、天武天皇を祟り殺した神を歌によって鎮魂していたのです。
持統天皇は元々、「日本書紀」の中にこの神を、祖先の一柱の天香山として登場させていました。この厚遇も鎮魂のためでしょう。ちなみに天香山は、天武天皇が主導した「古事記」には出てきません。
しかし一方、草薙の剣はすでに古くからのレガリアとして、日本神話に深く組み込まれていました。そのため、持統天皇には日本神話から草薙の剣を切り離すことは出来ませんでした。持統天皇の鎮魂は完全ではなく、剣の祟りはくすぶり続けることになったのです。
これから言うことは巻物には書かれていませんので、私の推測にすぎませんが、「古事記」編纂当初この神はヤマタノオロチとされたのではないかとも思われます。つまり、滅ぼされた悪神として書かれた可能性があるのです。だとしたらその神の天武天皇への怒りは察して余りがあります。
いくつか証拠の断片があります。この神は蛇との関わりが強いのです。この神の属したであろう王家が蛇を祀っていたこと、多分ヤマトの三輪山ですが。現在、三輪山を祀る大神神社の祭神のオオモノヌシは蛇神です。また、三輪山に見られるように、古来より聖なる山は巨大な蛇とも考えられていました。大和三山の天香具山、弥彦神社の祭神天香山も蛇の可能性があります。古語で、カカ、カガ、カグ、ハハ、ハバ、ハブなどは蛇です。ハブはそのまま使ってますが、カガチなどもそうです。従ってカグヤマのカグは蛇とも考えられます。また、草薙の剣は先程も言いましたが、強い蛇の意味です。
日本神話ではスサノオが大蛇、ヤマタノオロチを倒し、バラバラに切り刻む過程で草薙の剣を得ます。これは、この神の偉業をバラバラにして日本神話に組み込み、逆に悪神として殺し、草薙の剣を奪ったことの暗喩かもしれません。また、天武天皇が主導した当初の「古事記」にはより直接的に、この神にとってより屈辱的に書かれていたとすれば、それがこの神の逆鱗に触れたとも考えられます。
後の「日本書紀」や現在伝わっている「古事記」では、この神とヤマタノオロチとの関係は改変され、隠蔽されています。おそらく持統天皇の行ったこの改変も、この神を鎮魂するためであったかもしれません。いずれにしても私の推測ですが。
まとめ編
以上が、以仁王が神眼で見たこの草薙の剣の記憶です。
以仁王は草薙の剣によって天皇としての武力を得られると思っていました。しかし実際にその剣を手に取ることで、歴史の真実を見定めました。草薙の剣は皇室の武力の象徴ではありましたが、同時に皇室の祖先神話にがっちり食い込んで切り離せなくなったある種の呪いでもありました。この神を始め、名を奪われ忘れられた古代の神々の怨嗟の象徴でもあったのです。あるいは今の皇室の衰微の原因は、この剣の影響かもしれないとも思えました。ですから以仁王は、衰え滅びつつある自らの属する王家を再興するため、呪われた伝説を浄化するため、草薙の剣を元の持ち主に返す必要があると思いました。そして王は神に誓いました。貴方を本来の場所にお戻しして勇者として祀ります。そうすれば、もう我らに祟る必要はないでしょう、と。
さすがに以仁王も能力者でした。この祟り神に取り憑かれながらも、その神の能力を徐々に自らのものにしていきました。
以仁王は体調不良でしたが準備を整えると、草薙の剣を携えコシの小国保に旅立ちました。そこには、この神の眠るべき墓所があるはずだからです。平清盛の発した一軍が以仁王の御所に突入するのは、このすぐ後のことでした。
巻物に書かれた草薙の剣に関わるところはこれくらいで、ここから先は一般的に「平家物語」や以仁王逃亡説話にあるように、以仁王が源頼政と共に平清盛と戦い敗れ、東国に落ち延びるというよく知られた筋が書かれています。まあその他に特徴的なのが、平家敗退の主要因となった養和の飢饉を起こしたのが、以仁王だったという記述でしょうか。口から風を出して天候を操作した云々とあります。まあ以仁王は直接間接問わず大量に人を殺しているんですね。けっして正義の味方ではないし、皇室の伝統からもかけ離れた破格の人物だったようです。
ところで私は、この巻物に書かれた数々の説話は面白いと思います。荒唐無稽なところもありますが、歴史上の疑問点や問題点をいくつか解決していますから。例えば、草薙の剣が壇ノ浦で見つからなかったのはなぜか。また、以仁王が伊豆の源頼朝を頼らずに小国保に向かった理由とは、天武天皇が草薙の剣に祟り殺された理由とは、弥彦神社の祭神天香山の説話がヤマトタケルの説話とそっくりな理由とは、宮中等で行われる鎮魂祭が弥彦神社でも行われる理由とは、魚沼神社がかつて上弥彦神社と呼ばれていた理由とは、苔野島に陵がある理由とは、などなど。これらの疑問に一応解答を与えています。
そして何よりも、ここにある古剣が本来の草薙の剣である理由を説明しています。熱田神宮の剣でも宮中の剣でもない、古代の将軍が携えていた蛇剣、神となったその将が宿った聖剣、名も謂れも奪われ草薙の剣として日本神話に組み込まれた剣、天武天皇の霊が宿った剣、それがここにある古剣であると説明しているのです。
最後に私の推測をいいます。この草薙の剣に以仁王の霊が宿っていたという事実は、巻物の内容とは矛盾します。しかし以仁王は乱からそう遠くない時期に、草薙の剣に祟り殺されている可能性が高いです。多分、苔野島の墓所のあるじに草薙の剣を返したあたりでしょうか。実際の歴史を見ても、以仁王が天皇に即位して王政復古を成し遂げた事実はないですし、また熊野に行ったという別の記録もない。以仁王の墓と伝わるものは日本全国いたる所にありますが。ちなみに言うと、最近新たに巻物がもう一つこの小国郷で見つかりました。これは源頼政側からの以仁王逃亡説話が書かれているようです。こちらを調べれば雪村会長の巻物の疑問点などもさらに分かってくるかなと、思います。
まあそれで以仁王は、太古の将の亡骸と一緒に再葬された草薙の剣に宿った。そしてそれから約800年間眠っていて、昨日我々が掘り出したその瞬間、会長に取り憑いたのだと思います。その時会長は神眼で以仁王の記憶を見たと。天啓とはこのことで、会長が巻物の秘密を解けた理由です。
以仁王を始めこの草薙の剣に宿っている神々は色々強力な能力を持っているみたいですから、となると会長の具合が心配ですが、今はまだ平気そうですね。まあ、これ以上のことは今来た会長から直接お話してもらいましょう。では会長どうぞ。
(参考 真鍋純平刀匠 http://www.eonet.ne.jp/~sumihira/00home/home.html)
(参考 加藤良平氏
https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ad83f2947265b2c7ee26feb64857d1b8
)