婚約破棄に協力しますが、必ず成功してくださいね!?
「エルリア・シュミットバウアー! 私との婚約を破棄させてもらおう!!」
国立バルツァー学園の卒業パーティーで、ヘルフリート・バルツァー王太子はそう声を上げた。
白地に菫色の刺繍がちりばめられた衣装と、美しい金髪と整った顔立ち、まっすぐに一人を見つめる青い瞳からは絶対に成し遂げるという強い意志を感じさせた。
対して、呼ばれたエルリア・シュミットバウアー侯爵令嬢は、シルバーブロンズの長い髪を結いあげており、白地に金と空色の刺繍がされたドレスを身にまとっている。菫色の瞳からは困惑が読み取れて、どうして今ここで婚約破棄を言い渡されたのか、理解できていないようだった。
少し前まで互いの手を取り合って微笑みあっていた二人とは到底思えない突然の宣言に、会場にいる多くの人も困惑している。
「ようやくね、イリス」
「ようやくだね、アリス」
その中で、左右の泣き黒子以外全く同じ容姿と色味が違う同じデザインのドレスを着た双子、アリス・ゼンケルとイリス・ゼンケルは周りに聞こえないようにそう言い合った。
***
ゼンケル男爵家三男六女の三女・四女であるアリスとイリスは、それぞれ、小説家・ドレスデザイナーとして働いていた。
本来、学園を卒業する十八歳が成人とされており、貴族の子供が成人前に働くのは良くないという風潮がある。貴族席ではあるものゼンケル男爵家を継がない三女・四女は、貧乏な家のため、そして自分の夢を叶えるため、既に働いていたのだった。
ただ、貴族令嬢が学園に通っていないというのは、よっぽど病弱か問題があるかという場合を除いてあり得ないとされており、当然二人も学園に通うことが決まっていた。
しかし二人は自分の家が貧乏であることを十分把握していた。そこで、左右の泣き黒子以外そっくりな見た目を利用することにした。泣き黒子を化粧で消してしまえば、あるいは増やしてしまえば、全く同じに見える。二人で一人の人間を演じて学園に通い、その間もう一人が働く。これなら急に働き手を二人分失うわけではない。そう、二人は考え付いた。学園側にも優秀な成績を収めることを条件に、働きながら通うことを許可して貰った。
男爵家にタウンハウスはないので、王都でそこそこ治安のいい場所でかつ安い下宿先を借り、そこでアリスは小説家として、イリスはドレスデザイナーとして細々と活動を開始した。ゼンケル男爵領ではすでにそこそこ有名になってきていたものの、王都ではまだまだ無名だった。
学園に入学して一年。ようやくアリスの小説が人気を出し始めた。それから少し遅れて、イリスも働いていた服飾店でデザインをさせてもらえるようになった。
学園には毎日交代で通った。二人を見分ける唯一の違い、左右の泣き黒子は化粧で隠して“アイリス・ゼンケル”として日々を謳歌していた。
同じ学園には王太子とその婚約者も通っており、多くの令息・令嬢たちが「たとえ小説の主人公が来ても二人の仲は引き裂かれない」と口にするほど仲が良かった。文武両道で紳士的な王太子と聡明で身分関係なく優しい婚約者の噂を聞いたアリスとイリスは「将来も安泰ね」と安堵するほどだった。
そんな日々が終わりを告げたのは二年生に上がってしばらくした頃だった。
アリスは最近人気の恋愛小説家として、イリスは期待の新人デザイナーとして、ゼンケル男爵家を通してそれぞれ王宮への呼び出しがあったのだ。
もちろんその手紙を一番に受け取った二人の父親は未成年を理由に断ろうとしたらしいが、手紙の主が同じ未成年の王太子であり、「次世代を担う小説家・デザイナーとして話をしたい」と添えられていたこともあって、しぶしぶ了承したのだという。
そうして、アリスとイリスは初めて保護者なしで王宮へ足を踏み入れた。
案内されながら、アリスはしっかりと心のメモ帳に王宮内の景色を書き込み、イリスは緊張のあまり体が震えている。イリスはアリスの手を握ったまま震えるので、アリスはその手をぎゅっと強く握り返していた。
案内された先は庭園だった。丁度見ごろを迎えたバラが色とりどりに咲いている。
中央に置かれたテーブルには金髪碧眼の美少年が優雅にお茶を飲んでいた。美少年はアリスとイリスがきたことに気が付くと立ち上がった。
「ヘルフリート・バルツァーだ」
「アリス・ゼンケルと申します」
「い、イリス・ゼンケル、です」
アリスは何度見ても眼福ねと、イリスは噛んだぁと心の中で呟きながら淑女の礼をした。
美少年、ヘルフリートはそんな二人を座らせると、「お口に合うと良いのだが」とお菓子を勧めた。勧められるがまま、アリスはお菓子を、イリスは紅茶を、それぞれ口にした。
「とても美味しいですわ」「とっても美味しいです」
アリスとイリスが同時に口にするのを見て、ヘルフリートは「よかった」と微笑んだ。控えていた使用人が追加のお菓子と紅茶を持ってくる。
お菓子と紅茶を口にしながら、学園と仕事の両立をしていること、仕事の内容など、ヘルフリートの疑問を二人は答えた。好きなことの話をしたからか、イリスの緊張もかなり落ち着いてきた。
「アリス嬢、イリス嬢。二人に頼みたいことがある」
話が一段落したところで、ヘルフリートは優しげな表情を一転し、真剣な表情で二人に向かった。ここからが本題ってことね、とアリスは身を引き締め、イリスは落ち着いてきた緊張をぶり返していた。
「リアとの……私の婚約者との婚約破棄を手伝ってほしい」
「「……はい?」」
あまりにも突拍子もない言葉に、アリスもイリスも驚きが声に出てしまった。思わず互いの顔を見合わせて「聞き間違いじゃないのよね?」と目配せする。ヘルフリートはそう思われるのが分かっているのか、この提案を伝えるので必死なのか、二人の様子に動じることはなかった。
「私と婚約者のエルリアは学園を卒業後、最低でも二年経たないと婚姻ができない。婚姻式には他国との調整が必要なことと、私とリアの住む予定の離宮が建設途中であるという二つの問題があるからだ。でも私は、できれば卒業と同時に婚姻を結びたい。できるだけ多くの人に祝福されながらだと尚良い」
「そこで、だ」とヘルフリートは改めてアリスとイリスを見つめた。
「アリス嬢には私とリアの婚姻までの人生を物語として多くの民に伝えてもらいたい。イリス嬢には卒業式当日にリアが着るドレスを、婚姻ドレス風に仕立てて欲しい。もちろん無償とは言わない。私にできることであれば何でも聞き届けよう」
ヘルフリートは言い終えると、アリスとイリスをじっと見つめた。長いようで短い沈黙が訪れる。
「二人ともどうした?」
思っていた反応と違っていたらしく、ヘルフリートは不思議そうに二人に声をかけた。困惑した二人は時々互いの顔を見合わせていたが、やがて意を決したようにアリスが「あの……」と口にした。
「ヘルフリート王太子殿下。初めに一つ、お聞きしてもいいでしょうか?」
「なんだ?」とヘルフリートは呟いた。アリスは失礼にならない程度に大きく深呼吸をする。
「ヘルフリート王太子殿下のおっしゃる婚約破棄は、“婚約を無かったことにすること”ではなく、“婚姻すること”という認識でよろしいでしょうか?」
「ああ、それでかまわない」
にっこりと嬉しそうにほほ笑むヘルフリートを尻目に、アリスはため息を笑顔でのみ込み、イリスは安堵の表情を浮かべた。
「驚きました。婚約破棄と言うから、てっきり婚約者よりも添い遂げたい方がいらっしゃるのかと」
「まさか! 私はリア一筋だよ」
でしょうね、とアリスは心の中で呟き、イリスはほっとしたように「そうですよね」と笑顔で答えた。
「でもどうしてわざわざ婚約破棄という事にしたのですか?」
「疑似婚姻式と言われた方が分かりやすかったのですわ」
イリス、アリスの順に疑問に思ったことを口にする。ヘルフリートはアリスの「疑似婚姻式」という言葉に驚いたようだった。
「疑似婚姻式か、確かにそう言った方が分かりやすい説明だったな。……元は、アリス嬢の小説から発想を得たのだ」
「私の?」
「ああ。この小説を書いたのは、アリス嬢だと聞いている」
そう言ってヘルフリートが使用人に持ってこさせたのは、確かにアリスが書いた最新の恋愛小説だった。
小説の主人公は貧乏な男爵令嬢。学園で王太子とぶつかったことがきっかけで二人は恋に落ちていくが、王太子には婚約者である侯爵令嬢がいた。身分の違いを理由に恋を忘れようとする二人に、侯爵令嬢はそれぞれに発破をかける。男爵令嬢は王妃教育を猛勉強し、マナーも完璧になるなほど努力した。辛くくじけそうになるたびに、王太子から応援と愛の言葉をもらい、ついに男爵令嬢は次期王妃として侯爵令嬢と侯爵家当主、そして王家に認められるほどになった。侯爵家は男爵令嬢を養子にして、王太子の婚約者を入れ替える。そして婚約者だった侯爵令嬢は、元々恋をしていた王太子の側近の婚約者となった。そういった内容だ。
最近流行りの恋愛小説の中でも、アリスの書いた小説はざまぁ系ではなく、どちらかというとシンデレラストーリーに近い。
「この小説の最後、婚約者の入れ替えと侯爵令嬢の新しい婚約を発表し、それを皆に祝福されるたところに胸を打たれた。私もリアとの婚約を婚姻に変更すると宣言して祝福されたいと、ね。そうすれば二年後の婚姻式を待たずとも婚姻していることになれるのではないか、と……」
段々と照れ臭そうに笑みをこぼすヘルフリートに、アリスもイリスも本当に仲がいい二人なのねと思った。
「わざわざ婚約破棄としたのは、『婚約を婚姻にする!』と言うよりも印象に残ると思ったのだ。それと、婚姻するためには婚約を更新、つまりは“新しく書き換える”のだから“婚約を破棄して婚姻にする”とも取れるだろう?」
笑みを浮かべたまま何も言わない二人を見て、ヘルフリートは「都合よく解釈しすぎただろうか」と苦笑いを浮かべた。
「確かにそう言われるとそう思える気がしますね」
「一般的な意見としては、かなり都合のいい解釈ですね」
イリスはヘルフリートの言葉を擁護しようとしたが、アリスははっきりと告げた。美味しそうにお菓子を口にしているアリスを尻目に、イリスはアリスの態度が不敬罪にならないことを全力で祈った。
一方のヘルフリートは苦笑いから一転してとてもいい笑みを浮かべてアリスを見つめた。
「ここまではっきりと告げられたのはリアと側近たち以外では初めてだよ」
「一般的な意見、ですからね。私としてはとても面白い解釈だと思いましたよ」
「そうかい? それは良かった」とヘルフリートは微笑んで紅茶を口にする。
イリスはそんな二人を交互に目で追った後、優しい王太子に感謝を捧げた。ついでにアリスにもう少し緊張感を持って欲しいと願った。
もっとも、その祈りは届かないようだ。アリスはお菓子を口に運んで満足している。同じ種類ばかり口にしているので、どうやらかなり気に入ったらしい。
「報酬は“ヘルフリート王太子殿下がご用意できるものなら何でもいい”のですね?」
紅茶を一口飲んだ後、確かめるようにアリスが言った。アリスがまっすぐにヘルフリートを見つめている所を見て、イリスはどうか不敬罪になりませんように、と改めて祈った。
「ああ。さすがに国家予算を動かすわけにはいかないから、私の資産の中でできる範囲なら、だが」
あくまでも“個人的な範囲の何でも”だと、ヘルフリートは言外に語った。
それを聞いたアリスは「承知しておりますわ」と微笑んだ。イリスはなんだかお腹が痛くなってきた。
「もし失敗しても、報酬は頂けますか?」
「ありえないとは思うが、勿論だ。もしそれでアリス嬢、イリス嬢の評判が落ちる様なら、“王太子が強要した”と触れ回ってくれて構わない。私からもそう根回ししよう」
「あら。それは私たちが優遇されすぎていませんか?」
「失敗するなどありえないからな」
「それは嬉しいことですわね」
オホホ、ハハハ、と聞こえてきそうなほどの微笑み合いに、イリスは本格的にお腹が痛くなってきた。それに気付いた使用人が心配そうな顔をしてハーブティーを差し出してきた。シナモンの香りと甘い風味に、イリスはお腹の痛みが和らいだ気がした。
「ところで質問は以上かい?」
「いいえ、最低でもあと二つ」
「おや。初めに“一つ”と聞いたと思うのだが?」
「“初めに一つ”ですわ。確認作業は大切ですからね。先ほどのような、前提となる事柄は特に」
「確かにそうだね。では質問を聞こうか」
「まずは学園での私たちに、直接ヘルフリート王太子殿下が接触されますか?」
正直少し前から、イリスは二人の会話から逃げ出したくなった。でも自分も聞いておきたい内容だったので、泣く泣く耳を傾けた。お腹の痛みはハーブティーで和らいでいるものの、怖いもの知らずのアリスを見ているとより一層痛くなってくる気がした。
「いや、しない。学園で話すつもりはない。リアに他の令嬢と親しくしている姿を見られたくないからね。どうしても学園内でなければいけない場合は、護衛か使用人を通すよ」
学園内でも、ヘルフリートには護衛が付いている。四六時中側にいるというわけではないが、呼べばすぐに駆け付けられる距離だという。同じ学年でも、ヘルフリートを含めた高位貴族と教室が違う二人は知らないことだった。
また、高位貴族は使用人を付き添わせることが可能だという。使用人たちは護衛と違って一部の校舎しか立ち入りを許可されていないが、主である学生から学園へ事前に申請があればある程度自由に行動することができるのだという。これももちろん、二人は知らないことだった。
「学園ではあくまで他人を装うよ。リアを心配させたくはないからね」
そう言って優しく微笑むヘルフリートに、アリスは「分かりました」と微笑み返しながら、修羅場は見えないのね、と残念がった。アリスの考えはイリスにはお見通しで、そのうえでイリスは面倒なことに巻き込まれなさそうでよかった、と安堵した。追加で一口飲んだハーブティーが更においしく感じられた。
「二つ目に、ヘルフリート王太子殿下とシュミットバウアー侯爵令嬢の思い出の地に、男爵令嬢は立ち入れますか?」
アリスは「実際に見たものを描いた方が、より現実的な物語であると感じられると思います」と続けた。さらに「想像で補っても構わいなら構いませんが」と小さく付け加えて、使用人に飲み物をもらっている。
イリスは、アリスがさりげなくイリスと同じハーブティーを口にしていることに気が付いた。図太い性格の双子の姉も少しは緊張しているのかと思うと、イリスは少しだけ驚いてしまった。だがすぐに「あらやっぱり」と美味しそうに微笑んだのを見て、単純に気になっただけかと思い直した。姉は美味しいものに目がないのだ。
「すべては難しい。王宮の一部は案内ができるが、シュミットバウアー侯爵家へは、現状案内できない」
ヘルフリートはこの計画は一部の親しい人にしか話していないこと、シュミットバウアー侯爵とはこれから話すから侯爵家へ入れるかどうかはまだ分からないことを告げた。そして、シュミットバウアー侯爵が協力してくれたとしても、エルリアには内緒にして驚かせたいのでエルリアには見つからないようにして欲しいと付け加えた。
「では、現状男爵令嬢が入れるのは王宮の一部だけですか?」
「そうなるが、付け加えると王太子が一緒にいることが前提だ。さすがに男爵令嬢一人にはさせられない」
ヘルフリートから許可が出ているとはいえ、王宮は公的機関でもある。そんな場所へたとえ案内の使用人が付こうと、男爵令嬢一人にはできない。そう告げるヘルフリートに、アリスは「承知しておりますわ」と微笑んだ。アリスが少し残念そうにしているのが、短時間でも話したヘルフリートには感じ取れた。その怖いもの知らずなところ、もとい大胆なところが、ヘルフリートには新鮮に感じ取れた。
「アリス嬢には怖いものがなさそうだね」
ふふっと口元に紅茶を運びながらヘルフリートは呟いた。ヘルフリートとしては褒めているつもりだし、何なら口にしたことも気づいていなかった。
「あら。私にも怖いものがありますわ」
心外だ、と告げるようにアリスは口元をへの字にしていった。その言葉を聞いて、イリスはまたお腹を痛めた。
「すまない、口に出てしまった。私としては誉め言葉だったのだ」
「まぁ。ではありがたく頂戴しておきましょう」
「ところでその怖いものとは?」
機嫌を窺うようにヘルフリートが呟くと、アリスはにっこりと笑みを深くするだけだった。アリスの怖いものを知っているイリスは、不思議そうにアリスを見つめる。イリスからすれば、アリスの怖いものはちっとも恐ろしくないので、ここで黙っているのがなぜなのか分からなかったからだ。でも下手に口に出してそっぽを向かれると面倒なので、イリスはアリスと同じように黙った。
ほんの少しの静寂の後、ヘルフリートは「さっきのは忘れてくれ」と微笑んだ。
「イリス嬢は、質問はないのか?」
「えっ、その……えっと、ドレスの寸法、とかは、教えていただけますよ、ね?」
「ああ。君が働いている店にはとてもお世話になっているからね」
「……そ、そうですたか」
イリスは「もしかして時々店長が『上客の依頼だ』って言ってたの、ヘルフリート王太子殿下からの依頼だったのー!?」と心の中で思いっきり叫んだ。動揺が隠しきれておらず、少し言い間違いをしたことには気づいていない。ついでに今にも溢しそうなほどコップが揺れているのも気づいていない。
そんな様子のイリスに、ヘルフリートは何も言わずにどこか微笑ましそうな笑みのままだった。アリスはこの緊張症さえなければね、と心の中で呟いてお菓子を口にした。使用人がイリス用に新しく用意した、ラベンダーのハーブティーを入れてもらうのも忘れていない。
「ドレスの希望は婚礼風であることと、私の髪と瞳の色を入れて欲しいこと。他は、今のところないかな。イリス嬢のデザインを見て、それから気になる点を挙げていく、という風に進めていきたいのだが、可能だろうか?」
ゆっくり聞かせるように、ヘルフリートは言った。パッと見ただけでは震えているのか頷いているのか分からないイリスの挙動に、ヘルフリートは苦笑いを浮かべる。
「だ、だいじょうぶです。がんばります」
イリスは震える声で、どうにかその言葉を紡いだ。その言葉を聞いて、ヘルフリートの苦笑いはとてもいい笑顔へと変化していった。
「アリス嬢も、他に質問はないか?」
「ええ、今のところは」
アリスの言葉を聞いて、ヘルフリートは使用人に二組の紙とペンを持ってこさせた。契約書と書かれたそれは、ヘルフリートがアリス、イリスへの依頼について細かく書かれていた。
「先ほど話した内容と同じことをここに書いてある。確認して、引き受けてくれるならサインをして欲しい」
こうして、アリスとイリスはヘルフリートの婚約破棄、もとい疑似婚姻式に協力することになった。
*
ヘルフリートからの依頼は「秘密に」と厳命されていたので、アリスとイリスは両親に「仕事内容と学園との両立について話した」とだけ伝えた。
ヘルフリートからの依頼は全て彼の使用人を経由することになった。それに合わせて、依頼の手紙はゼンケル男爵家経由ではなく下宿先に直接届けてくれた。
依頼すると決めていたからか、帰りに大量の紙束を受け取った。内容はもっぱらヘルフリートとエルリアの出来事で、初顔合わせから先週までの約十年分をまとめられたものだった。ヘルフリートの日記をそのまま渡されたのではないかと思えるほど詳細で実に愛情深い内容に、アリスもイリスも胸焼けするほどだった。いつもなら甘いお菓子と食べる紅茶がそれ単体でも甘いと錯覚するほどの、甘すぎる言葉の羅列。アリスはこれを大衆向けに書くのか、と遠い目をした。貴族らしい賛美と称賛が多いもののこのまま日常物語でいいんじゃないか、とイリスも思った。
そんな甘々な文章と睨み合う日々が始まった。
初めはアリスだけで戦っていたのだが、途中で「デザインのネタになるかも」とイリスが参戦した。イリスはエルリアの好みを何一つ知らなかったので、普段着からパーティードレスまで事細かに書かれているこのヘルフリートの日記は大変役に立った。時々ドレスの模様が分からなくて困ったアリスに、イリスがそのデザイン画を描いて見せることもあった。
イリスが服関係をメモしながら年表とその出来事に対応するメモ一覧を作ってくれたので、アリスはそれを頼りに執筆した。簡単な構成と、顔合わせの話の下書きを書き終えたのが、依頼されてから半月をすぎる頃だった。丁度執筆中ではなかったことが幸いして、かなり早く書き終えることができた。
同じ頃、イリスもひとまず見せる用のデザイン画が数枚完成した。本当はもう少し細かく決めておきたいが、あまり考えすぎてヘルフリートの意見が入る余地がなくなるのはダメだろうと思い、大まかなデザインになっている。婚礼ドレスは基本的に装飾が少ないので、余計に手を加えにくいというのもあるだろう。
ヘルフリートの使用人経由で、ひとまず見て欲しいことを伝える。指定された日は、依頼されて丁度一ヶ月が経つ日だった。
前回王宮へ来た時と同じように迎えの馬車に乗って、今度は王族が個人的に使う応接室へと案内された。公的に使う謁見の間でなくて良かった、とイリスは体を震わせながら思った。
応接室は二人が想像していたほど豪華ではなく、どちらかというと質素な印象がした。ただ、そこに飾られている絵画や花瓶は息をのむほど美しいし、勧められるがまま座ったソファは体が浮いているのではないかと思うほど柔らかかった。手触りもとても良く、イリスは使われている布は希少品だと分かった。
パッと見ただけでは質素な印象なのに、実際は超高級品で揃えられている。その事実が、イリスの緊張を高める。アリスはアリスで、心のメモ帳に怒涛の感想を書きなぐった。できることなら心のメモ帳ではなく現実のメモ帳に書きまくりたい衝動を、どうにか抑えている。
ヘルフリートは執務があるから少し遅れると、使用人に説明された。「待つ間、寛いでいて欲しい」という伝言付きだ。
使用人が用意しているお菓子と紅茶は、前回アリスが気に入っていたお菓子が多く並んでいた。また、イリスのためか、初めから紅茶と数種類のハーブティーから好きなものを頼めるように変更されている。
ラベンダーのハーブティーを口にしながら、イリスは「あれ?」と呟いた。
「イリス?」
「アリス。この部屋って、なんだか知ってる気がしない?」
「初めてきた場所なのに?」とアリスは口にしながら、改めて応接室の全体を見た。言われてみれば、花瓶も活けられた花も、絵画の位置も、なぜか覚えがある。しかしいくら考えても、見たことはない。
首をかしげる二人に、使用人が「そういえば、」と呟いた。
「今日はお二人のために、ヘルフリート王太子殿下自らご準備をなさっていました。特にこの応接室は『大切な場所だから』と」
そう言いながら、使用人はアリスへ新品の紙とペンを差し出した。
心当たりはもう、一つしかない。ヘルフリートとエルリアの顔合わせの場所。それがここだったのだ。
「ありがとうございます」
使用人からそれらを受け取ったアリスは、一心不乱にメモ書きという名の背景描写を書き出した。時々、ヘルフリートに見せる用の草案に目印を書き足している。
その様子を見ながら、イリスはこっそりため息をついた。
コンコン、と控えめなノックがした。
もっと待たされると思っていたイリスは、ヘルフリートが来たのだと思って背筋を伸ばした。しかし、使用人が開いたドアの先にいたのは、少し年を召した侍女だった。後ろからさらに侍女数名が続き、持ってきたのは十数着の男性の服。これがヘルフリートのものであることは、上質な布で一目でわかった。
「イリス男爵令嬢様でしょうか?」
「はい」
年を召した侍女だけが残り、その侍女に呼ばれたイリスは、恐る恐る返事をして目線を合わせた。いつもの緊張症は残っているものの、視線は時々服を見ている。侍女はイリスの様子が微笑ましかったのか、皺を深くしてにっこりと笑った。
「ヘルフリート様の式典服でございます。どうぞご自由にご覧下さい」
ぱぁっとイリスの顔が華やいだ。好きに見ていいと言われて穴が開くほどじっくり見つめているにもかかわらず、その手は服を掴むのを躊躇っている。やがて意を決したようにチョンと触れて離れて、それを数度繰り返してから、ようやく袖を持ち上げる。恐る恐るといった表情はすでになく、ワクワクとした楽しそうな表情だった。
ガリガリと文章を一心不乱に書きあげているアリスと、わくわくした表情で一着一着デザインと布を確認していくイリス。そんな二人を侍女と使用人は微笑ましげに見つめていた。特に使用人は前回の緊張しきったイリスを知っていたからか、どこかほっと安堵しているようだった。
「あの、侍女さん」
「マリーとお呼びください。何でしょうか?」
「マリーさん、シュミットバウアー侯爵令嬢様から贈られたものはありますか?」
イリスの言葉に、侍女マリーは「それでしたら」と一着の服を取り出した。黒地に銀の刺繍がされた物だった。
「王太子として初めて式典に出席なさった時の衣装ですわ。普段着ならもっとありますが、式典服は今のところこの一着だけですね」
「そうでしたか」
マリー曰く、王族の式典服は王族自ら用意するものらしく、エルリアから贈られた服の多くは普段着かパーティー用らしい。今回は式典服だけをまとめてきているので、エルリアが送った服はその一つだけだという。
イリスとしてはエルリアがヘルフリートに贈った衣装のデザインが知りたかった。ヘルフリートがエルリアを着飾りたいように、エルリアもヘルフリートを着飾りたいと思っているだろう。エルリアには秘密にしなくてはいけないので直接聞くことはできないだろうが、贈ったデザインの系統を模していればエルリアにも喜んでもらえるだろう。そう思ったのだ。
「では次にいらっしゃる時にお持ちしますね」
にっこりと笑って言ったマリーに、「次……」とイリスは呟いた。考えれば当然ではあるが、また王宮に来る必要があると自覚して、イリスは少し緊張した。「お、お願いします」とマリーに伝えたことを、イリスは自分で自分を褒めた。かなり震えていた声だったが、そこは気のせいという事にした。
「私も見て構いませんか?」
一通り書き終わったらしいアリスが、マリーに言った。書きなぐっていたにもかかわらず綺麗なアリスの手に、相変わらず器用ねとイリスは現実逃避をした。
アリスはマリーにいつの式典で着た服かを聞いていった。ヘルフリートの日記には自分の服装はほとんど書かれていなかったので、実物を見られてよかったようだ。
満足するまで見て書いて、付け加えられたメモを改めて読み直してから、アリスは「ちょっと多いわね」と呟いた。
「多少減らさないと、上下巻では収まらないわ」
困った風には見えないのに、困ったようにアリスは言った。お気に入りのお菓子と紅茶を口にしながら言うセリフではない、とイリスは思った。
「待たせたね」
ヘルフリートが入ってきた。ふと時計を見ると、約束の時間からおよそ二時間が経過していることに、アリスとイリスは気付いて驚いた。
「どうだったかな? 少しでも参考になればと思って用意したのだけど」
ヘルフリートはにっこりと笑っていった。二人が満足していることが伝わっていたのだろう。
「お気遣いありがとうございます」
「とても参考になりました」
二人は口を揃えて感謝を伝える。そして、アリスが「イリス」と、イリスのデザイン画を先に見せるよう言った。言われたイリスは少し驚いたものの、小説はヘルフリート一人でも読めるから、話合わなくちゃいけないデザイン画からがいいか、と納得した。
「こちらです」
そう言ってイリスは数枚のデザイン画をヘルフリートに見せた。
暇そうにしていたアリスは、ふと何かを思いついたように使用人を呼んだ。呼ばれた使用人は「それなら……」と一旦席を外す。少しして戻ってきた使用人は、アリスにハサミと紐を手渡した。受け取ったアリスはメモ書きと草案にハサミで切りながら、紐でバラバラにならないようまとめ上げていく。
しばらくデザイン画を見比べていたヘルフリートが、二つ手に取ってイリスに差し出した。
「この二つがイメージに一番近いかな」
「分かりました。ちなみにどちらか一つだけ選ぶならどうでしょうか?」
「うーん……どちらかといえば、こっちかな? 欲を言えばそっちのシルエットに近くなるようにしてくれると嬉しい」
そうヘルフリートが言ったことに対して、イリスはペンを取った。さらりと書き上げたのは、ヘルフリートが「欲を言えば」と言ったデザインだった。
「おお。すごいな」
素直な言葉に、イリスは「ありがとうございます」と少し嬉しそうに微笑んだ。まだ緊張の方が高いらしく、失礼にならない程度に大きく深呼吸を繰り返している。
大まかなデザインが決まったので、少し細かな装飾を付け加えたデザイン画を見てもらったところで、今日はひとまず終了となった。まだアリスの話が残っているからだった。
「少し読み難いとは思いますが、ご容赦くださいませ」
アリスがヘルフリートに渡したのは、とても原形を留めていない紙束だった。長い紙もあれば、一文だけの短い紙もあるその紙束に、イリスは頭を抱えた。ヘルフリートは苦笑いを浮かべて受け取ると、少し読み難そうにしながら読み始めた。
ヘルフリートがアリスの小説を読んでいる間、イリスは先ほどのデザイン画をさらに詳しく書き足していった。大まかなデザインは変わらないものの、例えば袖口はレースにするかビーズを足すか、長さは手首までか七分丈か肩までか、そういった少しずつ違うものを書いていった。
「ここまでしっかり描てくれるとは。恐れ入った」
「このような感じで大丈夫でしょうか?」
「ああ、構わない。ところで……リアへの愛情表現が少ないのは、わざとか?」
「ええ。ですがこれが精いっぱいですわ。これ以上の愛情表現はその……法に触れかねませんので」
「“多くの民に読んでもらえる小説”を、とのことでしたから」とアリスは申し訳なさそうにしながら言った。ヘルフリートは「それなら仕方がない」と不服そうに頷いた。
イリスはそんなやり取りを横目で見ながら、やっぱりエッセイにすればいいのに、と思った。年少向けにはアリス主体で絵本、青年向けにヘルフリートの日記、それで十分じゃないか、と。とはいえ恐れ多くも依頼を受け取っている身なので、口にはしない。ちなみにアリスも同じことを思っていたりするのだが、こちらは仕事が減るので黙っている。
「それと、ヘルフリート王太子殿下。この丸で囲んだ話だけを小説にしようと思っておりますが、よろしいでしょうか?」
アリスが差し出したのは、イリスが書いたヘルフリートたちの年表だ。そのうちの、初めての互いの誕生パーティ、王妃教育の合間にした茶会のうち数か所、王太子として初めての式典、学園への入学、卒業に丸がされていた。
「これだけか? すべて書き上げてくれても構わないのだが……」
「シュミットバウアー侯爵令嬢様と二人だけの思い出も必要でしょう? それに、あまり長いと買ってくださる方が減りますから」
本を買うのは、大半が貴族と裕福な庶民だ。一般的な庶民は図書館にある本を借りて読むか、数ヶ月に一度一冊買う程度だと言われている。ちなみにアリスは印刷会社からいただいた自分の本以外持っていない。もし本を買うお金があれば食費に使う。それだけゼンケル男爵家は貧乏だった。
「それと、前回尋ねるのを忘れておりましたが、この小説のタイトルどういたしましょうか?」
「ああ、それはアリス嬢が決めて欲しい。私ではいい案が思いつかいないから」
「かしこまりました」
頭を下げながらアリスは“ヘルフリート日記”でもいいのかしらと思った。もちろん、そんな不敬な題名にして売れる自信は全くない。いや、もしかしたら庶民には受けるかもしれないが、恐ろしくてできそうにない。題名を考えるのが一番苦手なのよねと、アリスはため息を飲み込んだ。
その日はそのあとすぐ解散となった。昼過ぎに参上したというのに、帰る頃には日が暮れていた。それだけの時間が経っていたということに、アリスは驚き、イリスは「そうよね」と呟いた。
*
月に一度、多くて二度、アリスとイリスは王宮へと足を運んだ。学園では教室が違うこともあってか、直接姿を見ることはほとんどなかった。
その代わりと言えばいいのか、半年を過ぎた頃から子爵令嬢たちや伯爵令嬢たちに邪険に扱われることが増えた。その多くは「品がない」とマナーや所作の至らない点を指摘したり、「教養がない」と知識や芸術の無知を呆れられたりするものだ。同じ家格の男爵令嬢たちからは何も言われないものの、距離を置かれるようになり、侯爵令嬢たちには気持ちいいほど避けられていた。
しかし、アリスもイリスも、仕事が忙しくてほぼほぼ気にしていなかった。強いて言うならば、イリスは毎日「どうかシュミットバウアー侯爵令嬢が気づいていませんように」と祈っていた。
そうして、十ヶ月が過ぎた。
アリスの小説は上下巻になった。上巻は先月発売され、すでに増版が決まっている。下巻は最後の卒業パーティーを書き上げ次第発行予定だ。
イリスがデザインした婚礼風ドレスとタキシードは、無事完成した。今まで作った衣装たちの中で最高の出来と自負している。
最後の打ち合わせとなる今日、アリスとイリスはいつもと同じように王城の応接室へと案内された。
案外慣れるものねと、震えなくなったイリスの手を握りながらアリスは思った。
「こんにちは。待っていたよ」
いつもと同じように、ヘルフリートは応接室で待っていた。その隣に、アリスとイリスは初めて見る男性がいることに気が付いた。自分たちの父親と同じ世代と見える男性は、二人が入室したところで席を立った。
「シュミットバウアー侯爵家当主、ベルン・シュミットバウアーと申します」
やや白髪の混じる銀髪と菫色の瞳の男性は笑顔でそう言った。ヘルフリートの婚約者、エルリア・シュミットバウアーの実の父親だ。
予想外の人物に、イリスはもちろん、アリスまでも緊張で身を強張らせた。
「アリス・ゼンケルと申します」
「い、イリス・ゼンケルです」
アリスは動揺していたものの綺麗な、イリスは少しぎこちない淑女の礼をした。その様子を見て、ベルンは微笑ましそうに笑った。
「君たちのことはヘルフリート王太子殿下から聞いているよ。凄腕の小説家とデザイナーだとね」
「「恐縮です」」
「そうかしこまらなくていい。今日は、君たちにお願いがあってきたんだ」
ベルンはそう言いながら、二人に座るよう勧めた。
アリスの前には初回から並んでいるお菓子と紅茶のセットが、イリスの前にはシナモンのハーブティーが用意されていた。使用人の気配りにイリスはほっと一息つく。
一方のアリスは、ヘルフリートのやや緊張している姿に驚いた。父親がいらっしゃるから、私たちと同じように協力してもらえることになったと思ったけど違うのかしら、とアリスは紅茶を一口飲みながら考えた。
「“疑似婚姻式”についてですが……」
ベルンはそこで口を閉ざした。先ほどアリスたちに見せた笑顔は一切なく、突き放すような鋭い目線がヘルフリートを見据える。隣に座るヘルフリートが一番、次いでイリスが緊張している。平常を装うとしているものの、アリスも指先が震えている。若者三名それぞれの様子を見て、ベルンは消していた表情に笑みを浮かべた。
「反対はしておりません。むしろそこまでリアを想って下さっていることに感謝します」
ベルンはヘルフリートに向けて言った。安堵するヘルフリートに「ただし、」と付け加える。
「二つ条件があります。一つは婚約破棄の宣言の後、必ず婚姻指輪を娘に送ること」
「もちろんだ! 絶対に送る!」
「ええ、お願いします。二つ目は――」
ベルンはアリスとイリス、それぞれをじっと見つめた。じっと見つめられる理由に心当たりのあるアリスもイリスも冷や汗が流れる。特にイリスは小刻みに震えている。少し長めのソファということもあって、二人は目線はベルンに向けたまま、お互いの手をぎゅっと握りしめた。
「アリス嬢。貴方に、婚約指輪を預かって頂きたい」
「…………私、ですか。……光栄です」
たっぷりと時間がかかって、アリスはどうにか声を絞り出した。アリスが呼ばれたというのに、イリスの方が震えている。
ヘルフリートの疑似婚姻式の手順は、ヘルフリートによる婚約破棄宣言、その後すぐに婚姻宣言、そして婚姻指輪の交換となっている。学園長からの祝いの言葉の後で、卒業パーティーの開始であるダンスの前に行う予定だ。
その婚姻指輪の交換時に、指輪を預かる役目をアリスがするように、とベルンは言ったのだ。
「そういえば殿下、花束はないのですか?」
「あ、ああ。一応卒業パーティーだから――」
「疑似的とはいえ、婚姻式でしょう? でしたら必要ですよ」
有無を言わさないベルンの笑みに、ヘルフリートは「そうだな」と頷いた。実は“ブーケはダンスをする時に邪魔だろうから”とヘルフリート自身が却下したのだが、用意したい物の一つだった。
「イリス嬢がリアにブーケを渡すようにして頂きたいのですが、可能でしょうか?」
まさか自分にまで声がかかるとは思っていなかったイリスは、ビクンと体が跳ねた。
「大丈夫よね、イリス」
にっこりと微笑むアリスに、イリスは声もなくゆっくりと、諦めたように頷いた。誰がどう見てもアリスがイリスに“一人だけ役目無しとか許さない”と強要しているようにしか見えなかった。
「が、がんばります……」
やや涙目になりながらも、イリスはどうにかその言葉を呟いた。満足そうにアリスはお菓子を口にする。
ベルンも交えて、最後の確認作業に入った。変わった所は一点。婚姻指輪の交換の後、小さめのブーケを渡す。それから予定通り卒業パーティーを始めるダンスに移行する手順となった。
ベルンがいるのでヘルフリートは言葉にはしていなかったが、もちろん誓いのキスもするだろう、とアリスもイリスも感じ取っていた。キスはブーケを渡した後かしらと、アリスは笑みを浮かべて思った。イリスはキスしてからブーケを渡すのよねと、早くも渡すときのことを考えて緊張してしまった。
***
そして冒頭に戻る。
ヘルフリートは婚約破棄の宣言をした。婚約者であるエルリアは突然のことでひどく驚いているようだ。潤んだ瞳からは、今にも零れてしまいそうなほど涙が浮かんでいる。しかし表情はやや抜けたものの、破綻するほど崩れてはいない。さすがは次期王妃、といったところか。
不意に、アリスはエルリアと目が合った。
エルリアが何を思ったのか、心当たりがある身としては一刻も早く婚姻宣言をしてほしい。そう、アリスは願った。
「そして今ここで! 私、ヘルフリート・バルツァーは、エルリア・シュミットバウアー侯爵令嬢との婚姻を宣言するっ!! 今この会場にいる全員に証人となってほしい! もしも反対する者は私の前へ来てほしい!」
ヘルフリートは声高々にそう言った。しんと静まり返った会場からは、物音一つしなかった。
その間、アリスはこっそりとエルリアを見つめていた。心ここにあらずな様子のエルリアは、今の言葉を聞いていなかったのではないか。そんな不安が胸をよぎる。
ツン、とドレスの裾が引かれた。イリスだ。そっと目を向ける先はエルリアがいる。どうやらイリスも同じ心配をしているらしい。
「……」
ヘルフリートはアリスに目線を送ると、エルリアに向き合った。それを合図に、アリスはヘルフリートの隣に立つ。どこからか驚きの声が聞こえた。
「リア」
ヘルフリートの甘い声に、エルリアを含めた会場が息をのむ。これほどまでに甘い声を、エルリア以外の人間は聞いたことがなかった。
最高の場所だけどできればもう二歩下がって全体が見たいわと、一人だけ場違いな考えをしているアリスは、笑みを絶やさずに半歩下がってその場に残った。
「愛しいリア。私と生涯を共に歩んでくれるかい?」
ヘルフリートがエルリアの左薬指に、婚姻指輪をはめる。エルリアの顔がゆっくりと左手、そして薬指へと移動する。最後に自身にはめられたホワイトゴールドの指輪に驚いて、はっと顔を上げる。
「へ、リー……?」
愛称で呼ばれたヘルフリートはそれはそれは嬉しそうに、エルリアを見つめる。あまりにも愛しいと全身で表現しているので、アリスはこれを表現しきれるのかなと少し自信がなくなった。
雰囲気を邪魔しないように、アリスはそっとエルリアの前へもう片方の婚姻指輪を差し出す。そういえばここまで近くでお会いするのは初めてだったわ、とアリスは思った。学内で遠目で見たことはあっても、この距離まで近づく機会はないからだ。
エルリアは指輪とヘルフリートを交互に見詰め、やがて何かに気が付いたようにそっと口角が上げた。その一部始終を見たアリスは、これは溺愛するわねと納得した。普段から笑みを絶やさないエルリアだが、素の笑顔は普段の笑顔の数倍可愛らしい。普段が凛としているから余計に、綻ぶ瞬間が愛らしく思えるのだろう。そう、アリスは分析した。
エルリアがアリスの持っている小箱から婚姻指輪を取る。それに合わせて、ゆっくりと音を立てないようにしながら、アリスは二人から離れた。
「生涯、ずっとおそばにおります。たとえヘリーから嫌がられても、ずっと」
エルリアは今にも幸せで泣きそうなほど、瞳に涙をためて笑顔で言った。会場のどこからか、すすり泣く声も聞こえてくる。
さて、ここでアリスは非常に焦っていた。何せこの後イリスがブーケを渡すのだ。それも一人で。その手筈だと、少なくともアリスは思っているのに、隣に並んだイリスはちっとも動く気配がしない。むしろ会場の他の人と同じように感動で泣きそうになっている。いや、目元にハンカチを何度も運んでいるので、既に泣いているのかもしれない。
「リア。愛しているよ」
「わたくしも、愛しております」
ヘルフリートとエルリアは互いをじっと見つめあうと、そっと顔を近づけた。
ここまでくれば、アリスも諦めがつく。むしろこの雰囲気を壊さないためにイリスは動かなかったのではとも思った。わぁっと鳴り響く拍手と祝福の声に隠れて、隣からぐすぐすとすすり泣く声が聞こえてきて、そこまで考えてるわけないかと思い直す。むしろ役目を忘れているのではと思うほど、まったく動く気配がしない。
アリスはイリスの手を引いてヘルフリートたちの元へ向かう。手を引かれてようやくハッとしたように、イリスは自分から歩き出した。
「ヘルフリート王太子殿下、誓いのキスはもう少し待っていただかないと」
「シュミットバウアー侯爵令嬢、どうぞ」
今もまだ二人きりのつもりでいるヘルフリートへ、アリスはつい抗議してしまった。確認しなかった私も悪いわねとは思ったがそれはそれ。もう過ぎたことだ。
イリスはどうにか涙を引っ込めて、笑顔でエルリアへブーケを差し出す。通常の物よりも二回りほど小さいブーケは、ダンスの時でも邪魔にならないようにと用意されたものだ。
しかしエルリアはすぐにはブーケを受け取らなかった。声もなく驚いたようにアリスとイリス、そしてヘルフリートを見つめる。
ああそうか、とヘルフリートは納得した。学園にゼンケル男爵令嬢は通っているが、それが双子であるアリス、イリスであることを知らなかったのだ。常に一人しか学園に来ていないのだから当然と言えば当然だった。あとで話すよという気持ちを込めて、ヘルフリートはエルリアへ微笑む。
やがてエルリアはイリスからブーケを受け取った。まるで妖精みたい、とイリスは改めてエルリアの美しさに息を飲んだ。自分でデザインしたドレスであっても、ここまで美しく着こなすのは元々美人なエルリアだからこそだろう。美しさに華を添えられて、イリスは少し誇らしくなった。
ゆったりとした音楽が流れ始めたと同時に、アリスとイリスはヘルフリートたちから離れた。ダンスホールへと降りていく二人を見ながら、ようやくすべてが終わったと、アリスもイリスも心から安堵した。
幸せそうに微笑み踊る二人に、会場はいつまでも祝福の声が残った。
*
卒業パーティーからさらに一ヶ月が経った。ちょうど、アリスとイリスがヘルフリートから依頼されて一年が経っていた。場所はその時と同じ王宮の庭園だ。
「本当に、あれだけで良かったのか?」
不服そうな顔をしてヘルフリートが言った。その言葉にアリスはもちろん、イリスまでも「もちろんです」とにっこりと笑った。
アリスとイリスがヘルフリートに願ったのは、王都にゼンケル男爵家のタウンハウスを用意してもらう事だった。タウンハウスといえば聞こえがいいが、実際は少し裕福な庶民が暮らすような、到底貴族の屋敷とは思えない小さな一軒家だった。しかも王都の中でもやや外れに位置しており、ヘルフリートからすればとても謝礼として契約するような家ではなかった。「これが良い」と言われたのだから仕方ないが、ヘルフリートはあまり納得していない。
ちなみにその一軒家はアリスとイリスが下宿していた場所よりも治安が良く、大通りも近いので買い物や学園が近い。ついでに男爵家屋敷より一回り小さいものの、かなり新しい建物なので雨漏りはもちろん隙間風もしない。先週引っ越し作業に来ていた弟妹達が「ずっとこっちの家に住みたい」と言って両親を困らせたばかりだ。
そんな事情を全く知らないヘルフリートは、元々支払うつもりだった謝礼金の三割ほどのその家だけを願った二人に、「もっと他にはないのかい?」と口をへの字にする。
「ヘルフリート王太子殿下のおかげで、小説家として名が売れておりますので、これ以上は頂けませんわ」
「私も、名指しの依頼が増えましたから、その……十分です」
アリスはすっかり気に入ったお菓子を、イリスはいつもと同じハーブティーを、それぞれ口にしつつ微笑んだ。それぞれの言葉を聞いて、ヘルフリートは「そうかもしれないが……」と呟いた。
ヘルフリートは知っている。アリスが依頼されて書いた小説の売り上げはほぼすべて教会や孤児院に寄付されていること。元々一割は寄付するようにという契約だったが、まさかほぼ全額とは思わなかった。さらにアリスが受け取ったとされる金額はすべて重版に使われているという徹底ぶり。しかしそのおかげで王都のみならず地方までも大人気な小説となっている。ヘルフリートの「多くの民に伝えてほしい」という願いは叶えられた。
そしてイリスも、「名指しの依頼が増えた」と言ったが実際はすこし異なる。ヘルフリートたちが着た卒業パーティーの衣装は、イリスの働く店が用意したもので、イリスはあくまでも店を代表してヘルフリートと交渉していたに過ぎない。そう噂されている。噂を流したのはもちろんイリスとその店だ。イリス個人に依頼が殺到するのを阻止するためか、はたまた緊張症のイリスが重圧を感じないようにするための店側の意志かは分からない。しかし実際に店はさらに人気を持ったがイリス個人への依頼はそこまで多くないことを、ヘルフリートは知っていた。ついでに増えた売り上げの分だけイリスの給料も上がっているが、同じ分だけ教会への寄付が増えている。
ヘルフリートが依頼した時の前金と報酬である一軒家。これらを除けば、彼女たちは裕福になれるだけのお金を稼ぎながら受け取ろうとしていない。ヘルフリートはその徹底ぶりに感心すると同時に心配になった。下位の貴族、庶民の暮らしは分からないが、お金があっても困ることはないのではないかと。
「……君たちはもう少し願うべきだと思うのだがな」
「あら。報酬は“ヘルフリート王太子殿下がご用意できるものなら何でもいい”のではなかったですか?」
「確かにそう言ったが……大成功に終わったから、私はもう少し支払いたい気持ちなのだよ」
くすくすと笑うアリスに、やや呆れながらヘルフリートが答えた。ある程度慣れたとはいえ、それでもドキドキしてしまうイリスは飲みかけのハーブティーをさらに一口味わった。
「過ぎたものは身を滅ぼします。私たちは十分な報酬を受け取りました。これ以上は身に余ります」
にっこりとアリスは微笑んだ。これ以上は絶対に受け取らないという強い意志が見えて、ヘルフリートは残念に思った。
「イリス嬢もか?」
「は、はい。そう、ですね……」
不意に声をかけられたイリスはやや飛び跳ねたが、アリスと同じように断る姿勢を取る。その様子を見て、ヘルフリートは諦める算段をした。しかしイリスが「じゃあ一つだけ」と呟くや否や瞳を輝かせた。
「なんだ?」
「えっと……良い王様になってくださいね」
クスッとアリスは笑った。そして「では私からも」と続ける。
「シュミットバウアー侯爵令嬢様と幸せになってくださいませ」
鳩が豆鉄砲を食ったようにポカンとしていたヘルフリートは、しばらくしてから「もちろんだとも!!」と力強く微笑んだ。
シュミットバウアー侯爵令嬢視点の短編『愛する婚約者から婚約破棄を言い渡されたら、幸せになりました』(https://ncode.syosetu.com/n3541hg/)を公開中です。もしよろしければご覧ください。