ソファー+老夫婦
空根鵯には秘密がある。
誰にも言えない秘密が。
それは、都市伝説である、異次元からやってきた小人が見える……こと、では無く。
「座長、終わりましたよ」
「ありがとう、ひよっちゃん。助かったよー!!」
空根鵯の夢は役者になることだ。
そのために親に内緒で小さな劇団に入り、裏方の仕事をしている。
小さい頃に母親が連れて行ってくれたヒーローショーで、敵のボスである『サルスベリ男爵』の高笑いを間近で見た瞬間、彼のような堂々とした役者になりたいと憧れた。
あまり現実的な夢でないことも分かっている。
それ故に学校の友人や両親は、空根の夢を知らない。
知っているのは、幼稚園の頃からの幼馴染みだけ。小学一年生の時に、どうすれば役者になれるだろうかと相談したからだ。
相談した数日後、件の幼馴染みは駅から程近い小さい劇場に、空根を引っ張って行った。
観劇のためではなく荷物搬入の出待ちをして、関係者を掴まえ、役者になるためにはどうすればと、質問をするために。
そんな、とんでもねぇ行動力の子どもたちの什麼生に、真摯に答えてくれたのが、現在、空根が所属しているアングラ劇団『ザ・ラフィング・フォモール』の座長。
今日、空根を家に呼び出した、世永多一その人である。
大きな段ボールを肩に担いだ彼は、子供という理由で彼らを蔑ろにすることなく、だか、決してふわふわした絵物語で夢だけ膨らませるわけでもなく、ちゃんと教えてくれた。
(いいか、坊主ども。このチケットは二千円だ。五百円のおこづかい四回分。お前らの父ちゃん母ちゃんが、汗水垂らして、頑張って稼いだ金だ。ファミレスのパフェが何個も食える。お菓子やオモチャも買える。それを全部我慢して、このチケットが、やっと一枚買えて、一度だけ使える。
役者になるのは簡単だ。このチケットを売って、舞台に立てばいい。
だが、このチケットを売るのが簡単じゃない。
お前らだって、不味いお菓子は何個も食べないだろ? 母ちゃんに欲しいオモチャを「高いからダメ」って言われたこともあるだろ。このチケットも同じだ。下手な役者の舞台のチケットは誰も買わない。値段が高すぎても買わない。
だがチケットが売れなければ舞台に立てない。
役者になれない。
だから役者は、みんな上手い役者を目指す。上手い役者っていうのは、このチケットの何億枚も売る奴だ。
上手い役者になるためには、まず色んなことを勉強する。学校の授業もだが、家族や友達と遊んだり喧嘩したり、色んな場所や物を見て『心の勉強』をする。
まずこれが大変なんだ。嬉しいことや楽しいことだけじゃなくて、嫌なことや辛いことも、全部飲み込める、心の強さが必要だ。
それに、チケットを買った人に心が見えるように、体で表現しなきゃなんねぇ。舞台上で完全に自分の体をコントロールしないと心は伝わらない。それに、舞台に立ち続けるには、健康じゃないといけない。
だから親からもらった体を大事にしろ。それから、しぶとい心と柔らかい心を、一緒に育てろ。
それが、上手い役者だ。
どうだ、坊主。分かったか?)
そう締めくくった彼は、白い歯をむき出しにしてニカッ!!と笑いながら、ヨレヨレの軍手を外して、空根の頭をガッポリと包み込んでワシャワシャ撫でた。
五本の指を全部広げた手のひらはフライパンのように大きくてゴツく、そして驚くほどに熱かった。
だが同時に、目玉焼きを焼いている時のような美味しい匂いと母の背中を思い出す。
そんな強さと優しさと柔らかさが、彼にはあった。
難しい言葉は時々分からなかったけれど、撫でられている頭の中では、サルスベリ男爵と目前の彼が肩を組んで笑っていた。
こうして世永多一は、空根が目指す憧れの役者の二人目となり、空根は高校に入学してから改めて劇団の門戸を叩いた。
学生は学業に専念すべしという劇団の方針があり、月に数回、ピンチヒッターとして駆り出されるだけだが、空根にとっては大事な居場所だ。
「それにしても、みなゆーさんは大丈夫ですか?」
「あぁ、見舞いには行った。すげぇ悔しがってたよ」
みなゆー、こと皆川佑は『ザ・ラフィング・フォモール』の団員である。次の舞台で賢者役を演じるはずだったが、一週間ほど前に転倒し、足を骨折してしまった。
空根が代役……というわけではなく、ミシンが使えない座長と演出家の代わりに衣装を直しにきた。
小さな劇団なので小物や衣装は、複数の団員が自宅で保管しており、賢者の衣装は世永が管理している。
今回は代役の体格に合わせて長さを調整する必要があり、空根は縫い終わったマントを、大きく広げて見せた。
「本当に助かったよ!! 縫ってくれて!! 今回はどうしても、このマントを使いたかったからさ!!」
「それで、みなゆーさんの代役は?」
「俺だよ」
「…え」
「だから裾を足して、長くしてもらったんじゃねぇーか」
バサリとマントを羽織った座長は、ニカッと笑う。
「どうだ、似合うか?!」
「………えーと…」
マント自体は似合っている。
だが即答出来なかったのは、これが賢者の衣装だったからだ。
世永の外見は、短髪の髪と健康的な肌色、筋肉質な体躯の長身。ゲームキャラでいうと、完全に戦士タイプだ。
マントを着たくらいでは賢者には見えない。
どちらかと言うと。
「なんか、正月番組のK-1選手のリング入場みたいね。賢者には見えないわ」
キッチンの入り口にかけた暖簾をめくり、世永の奥さん、みさきが様子を見に来た。
彼女は『ザ・ラフィング・フォモール』の旗揚げからいる古参メンバーで、演出と脚本を担当している。
切れ上がった目が特徴の高身長で、どこぞのモデルのようだが演者ではない。
「ンなこと言ったって、俺以外で台詞覚えてて、兼ね役出来る奴がいないんだから、しょーがねぇーでしょーが」
「少数精鋭ですからねぇ、うちの劇団」
「これ付けてみ」
彼女は、火を着けていない煙草のフィルターを唇の端に挟んだまま、白い仮面を旦那に渡す。
ハロウィンにつけるような表情のない仮面で、ディスカウントショップで購入した安物。いつかの舞台の使い回しだ。
「アンタの顔立ちが、そもそも脳筋丸出しで賢者っぽくないのよ。それ着ければちょっとはマシになるでしょ。じゃあ、登場シーンから。ハイ、さん、にー」
「っお、ちょ…お……」
仮面を着ける前に合図を出され、世永はオロオロしながら急いで仮面のゴム紐を後頭部に回す。
そして振り返った瞬間、彼は賢者へと化けた。
「【現実からの来訪者よ。この街を見るがいい。この塩で出来た廃墟の声が聴こえるか?】
【お前は、ひとつ知り、ひとつ死に近付いた】
【知る前には戻れんよ】
【忘れることはできようさ。けれど】
【痛みと経験を忘れることは容易いが、それは、ひとつ老いるということだ】
【現実からの来訪者よ!! 忘れるな!! どれほど辛い過去であろうと、老いた足では上れぬ坂があるのだ!! 知り得たままに歩け!! 喩え、その一歩が死神の影を踏んでも、お前の目的地は、この丘の向こうにあるのだから!!】」
初めて出会った時から知っていたが、彼の低い声には優しい響きと不思議な説得力がある。
確かに、これならば含蓄ある賢者らしい。
(…おお〜…)
空根が感動している隣から。
てち、てち、てち、てち、てち。
ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。
小さな音がする。
梱包材を潰している音か、スライムを小指でつついているASMRみたいな。
音源は、空根が座っている灰色のソファーの肘置き上にいる、二人。
小さい爺さんと、小さい婆さんが、ちょこん、と座っていた。
爺さんは、白髪をオールバックにしているが、毛量がなく白髪の下にうっすら地肌が見える。
白いシャツに深緑のベスト。
ミルクチョコレート色のスラックスには、くっきりと折り線が入っている。
鎖骨の中心に深緑色の宝石で留めた紐襟締。右の肘に引っ掛けた、爪楊枝みたいな杖など、ささやかな小物でオシャレした老紳士。
婆さんの方は上品な着物。
同じく真っ白な髪を、うなじの辺りで結いあげ、赤いかんざしを挿している。
針の穴のような小さい粒々で描かれた、小梅模様の着物は小豆色。
二人とも同じデザインの黒縁の老眼鏡をかけていたが、婆さんの方は眼鏡の端にストラップをつけていた。
【(〜〜〜〜〜…)】
【(〜〜〜〜…)】
定年後に公園の散歩を楽しむ老夫婦のような二人は、ニコニコと笑いながら向かい合い、何かを話している。
雰囲気から察するに『すごいな〜…』『そうね〜…』と、のんびりと雑談しているらしい。
空根の視線に気がつくと二人は空根を見上げ、ニッコリと微笑んだ。
春の木漏れ日より、穏やかで優しい笑顔。
【(〜〜〜〜〜〜〜…)】
『お見事ですな〜…』とでも、言われているのだろう。
「うん。大丈夫そうね!」
好演をした旦那のそばに来た演出家兼奥さんが、彼の肩をバシッと叩く。
大きい方の夫婦も、まだまだ若いが仲良しだ。
「…そうですね…」
頷く空根の返事は、どちらの夫婦に向けてであろうか。
ただ今は、この愛らしい拍手がもらえるよう座長が羨ましくて、いつかは自分も…と静かに思っているだけだった。
……これこそが、空根鵯の秘密だ。