五号鉢+バーコード
昨日は一日中、雨が降っていた。
おかげで咲いたばかりの桜が雨粒の重みに負けて、じっとりと濡れてしまい、見頃だったはずの花弁を大量に地に落としてしまった。
コンクリートのわずかな高低差にできた水溜りの上にべったりと、薄汚れた花弁が流れ着いているのが、何とも哀れ。
それほど降ったのだから、今日こそは晴れてくれても良いだろうに、夜に少し止んだだけで、今も相変わらず雨が降っている。
中庭にある濡れた桜が、しがみ付くように咲いていて、ついつい応援したくなる。
競うように雨粒が流れ落ちていく窓ガラスの向こうの風景を、空根鵯は、机に肘を立て、そこの顎を乗せたまま、ぼんやりと眺めていた。
雲はだいぶ薄くなっている。
昨日はどんよりとした暗雲だったが、今日は買ったばかりの半紙のような乳白色。水溜りにぶつかる雨粒の数も少なく小さい。この分だと、もう数分もしないうちに晴れそうだ。
「空根くーん。上の空根くーん」
「何、花村。ってか、何だよ、その上の空根ってのは」
「今つけたあだ名〜。だってお前、いつもぼんやりどっか見てて、上の空じゃん。すげーピッタリ♪」
見てねぇよ、と空根は内心でツッこむ。
確かに側から見ると、何にもないところを見ているように見えているのだろうが。
「そんなことより、次の授業、日本史だろ。この前休んじゃったからさ、ノート見せて!」
「……ん…」
「サンキュー!」
花村は、そのまま空根の机でノートを開き、持って来た自分の教科書と照らし合わせ始めた。余談の多い先生なので、授業の進むスピードはそう早くない。
授業が始まる前にはチェックを終えることは出来るだろう。
そんな彼を放置して、空根は再度、視線を窓の外へと向ける。
窓の雨粒の競争が終わっていて、桜の木の向こうに見える雲は、引っ張ったら千切れるのではと言うくらい薄くなっている。
雲の向こうから透けて見える太陽光が、渡り廊下の奥に見える裏門の鉄柵や、駐輪場の電灯の傘を濡らす雨粒に反射して光っていた。
空根は、少しだけ腰を浮かせて、窓ガラスを開ける。
ひゅう、と涼しく、澄んだ風が入ってきた。
気持ちがいい。
この気持ちがいい空気を独り占めしたくて、窓から少しだけ顔を出し、鼻から深く息を吸う。
コンクリの壁と窓だけなのに、どうして室内とはこうも空気が違うのだろうかと、肺を満たす涼しい空気とは裏腹に、温かい気持ちになる。
と、それを見た瞬間に、この宝物のような温かい気持ちは崩壊した。
一階にある三年の教室の隣にあるのは、桜や椿の木々が植えられた芝生の中庭。
窓の下は打ちっ放しのコンクリートで出来たベランダで、芝生とベランダのを間仕切るように園芸部が作っている花壇があった。
「………………」
組まれたレンガで出来た囲いの中に、ナデシコと日々草が植えられている春めいた一角。
オレンジ色の空の鉢が置き忘れられている。
そして、昨日の雨のせいで、中にたっぷりと雨水が溜まっていた。
その中に、小人が浸かっていた。
ちゃぷ。ちゃぷ。ちゃぷ。
バーコード頭の小人のおっさんが、露天風呂よろしくオレンジの鉢の水に浸かっている。
こたつ蜜柑みたいな頭に、一円玉より小さいタオルが置かれて、リスの手みたいなちっちゃい手でタオルを抑えながら、ひどく陽気に鼻歌みたいなものを歌っている。
バーコード頭のおっさん。
しばし凝視していると、おっさんは、空根の視線に気がついたらしい。
【(〜〜〜〜〜〜!!?)】
ばちゃんっと飛沫を上げながら立ち上がり、両腕を交差させて胸を隠すバーコードのおっさん。頬を赤らめ、口をオーの形で開いている、その顔は「何見てんのよ!!?」と言っているようだ。
(雨上がりの鮮やかに澄んだ空気と、俺の、あの穏やか心境を返せ!)
空根は頬を引き攣らせながら、青筋のたった拳を震わせる。
出来るなら今すぐ中庭に行って、あのオレンジの鉢をぶっ壊したい。が、そんなこともできないので空音はボソッと悪態を付いた。
「………見てねェよ」
「んんん? 空根、ツッコミ遅くね?!」
いみじくもおっさんに対しての悪態が、先程の花村に対しての返答と同調してしまい、隣で教科書と睨めっこしていた花村がビックリする。
「いや、ホント…上の空根くんだねェ」
「だから、見てないっての」
そう答えながら天音はカラカラと窓を閉めた。
こうして彼は、いつものように、小さいおっさんを黙殺して日常へと視線を戻しているのである。
五時限目のチャイムがなる頃には途切れた雲間から太陽が覗き、空の五号鉢に花から溢れ落ちた育花雨の雫が、ぽちゃりと落ちた。