001 朝の時間は奪われた
<五月六日>
「はぁ……」
月曜日の朝、無情に過ぎた休日を後悔するように俺は息を漏らした。
自動で開くカーテンの窓から差し込む日差しを睨み渋々体を起こす。
寝ぼけ眼でボサボサの髪をセットし、その錆びついたシャッターのような眼をこじ開けるように顔に水道水を浴びせる。
――冷たい。五月とはいえ朝に冷水を浴びるのはやはり慣れない。てか冷たすぎないか?冷たさのあまり痛みを感じるほどだ。
ある程度目が覚めてきたので水道を閉め、顔をしかめながらタオルで拭う。トースターの電源を入れ、食パンを突っ込み、焼き上がりまで軽いストレッチを済ませる。
そしてテレビをつけ、今日の天気や占いを見ながらトーストをかじる。ここまでが毎日のルーティンだ。
なるほど。今日は五月でもかなり冷え込む日らしい、さっきの水が冷たかったのも頷ける。今日はブレザーを着て行こうか。
占いのコーナーに移った。最下位。水回りに注意とのことらしい。さっきのことか、ラッキーアイテムは……
「ダンプカー?」
どうしろというんだ。
***
気温が低い割には天気は快晴、俺の心も晴れ晴れだ。
家は建て売りで売られているのを購入した。徒歩圏内で登校できるという最高の立地条件。周りは閑静な住宅街が広がっており耳を澄ませば小鳥のさえずりが聞こえてくる。
俺の家から学校までは歩いて十五分ほどだ。俺は散歩は嫌いではないが、何より唯一の運動不足解消でもある。この十五分は俺の好きな時間だった。
ーーまさかの人間が隣の家に引っ越し、同じ学校に入学、そして同じクラスに所属するのを知るまでは。
ドタドタと慌ただしく下り坂を駆け下りてくる足音が聞こえてくる。
その足音の主は車のクラクションかそれ以上の大声で近づいてきた。
「おっはよ〜!」
こいつは大崎兎々桃色のボブカットとライトブルーの瞳をしており、背が低く肉付きの良いとても元気な女の子だ。
「おはよう。今日も元気だな」
気怠げに挨拶を返す。
「ひどいよ置いていくなんて!」
「別に一緒に行くような間柄ではないだろ」
と軽くぼやく。
「あれ〜?元気ないじゃん!どうしたの?」
さっきまではあったんだけどな、不思議だな。お前の元気に吸い取られたのかもしれない。
あと大声で話すのはやめてくれ。この通学路は同じ高校の奴らもいるんだし、カップルかなんかだと思われたらたまったもんじゃない。
「あ!そういえば!」
返答を考えている間にまた大声を上げた。
前を歩いていたお婆さんが驚き振り返る。
すみませんお婆さん。
「今日の学力テスト勉強してきた〜?全国統一でやるらしいから相当難易度高いと思うよ?」
「へ?」
俺はすっとんきょうな声を上げた。
「金曜日うっちーが言ってたじゃ〜ん。まさか湊寝てた?」
なんだと。よりによって今知ることになるとは。
学力テストともなると範囲がとても広く、今からの勉強では間に合わないだろう。てか「うっちー」って、もう担任のあだ名決まったのか……
「出来ても一部の四字熟語を暗記するくらいか……」
ボソッと呟くと、
「まぁ誰にでも失敗はあるよ!気を落とさないで!」
なんだろう、無性に腹が立つ。
あれ、そういえばこいつ。
「兎々、俺は中学の持ち上がりでこの高校に入ったが、お前はどうやって入ったんだ?まさか編入試験を合格したのか?」
同じ小学校に通っていたが、俺は私立の中学に受験、合格したが兎々は県立の中学に入学したはずだ。
「うん!試験を合格したよ!勉強大変だけど頑張った!」
マジか。幼い頃は勉強が苦手だったのに、相当頑張ったんだな。こいつ俺より頭良いんじゃないか?
いや、ある意味では良いのかもしれない。
ーー幼い頃の記憶だが、
「1+1は田んぼの田なんだよ〜!」
とレベルの低いトリビアを披露していると、
「じゃあ田んぼの田-1は1になるの!?」
と驚いたような顔で返されたことは今でも覚えている。
「そうか、頑張ったんだな」
となると、俺より地頭は良いのかもしれない。それを悟られないように下手な事は言わないでおこう。
「それでさ!週末なにやってたの〜?」
ーーはて、何をしていたかな。覚えているのは提出期限を過ぎた国語の課題をこなしていたことだな。
「課題を終わらせていた。お陰で寝不足だが、それなりに頑張った」
まだ終わってないのだが。
「あんなもの一日で終わるよ!簡単簡単!」
あんなものとはなんだ。読書感想文という俺の最も苦手な課題だ。
本を読み終わった感想の第一声が作者の作品に対する思いを汲み取って話す人はまずいないだろう。
そもそも、本を読んで面白い以外の言葉が出てくるだろうか。面白いということについて根掘り葉掘り書いてしまうとこの本の紹介にならない。
感想文とはいってもあくまで紹介のつもりで本を選んでいるわけなのだから出来ることなら要点を言わずに済ませたいはずだ。
バトル漫画で強敵との闘いをたったの数十秒でまとめられたら聞き手はそれだけで満足してしまい、この本が行き渡ることはなくなるだろう。
「兎々は何をしてたんだ?」
聞き返してみる。さぞ有意義な休みを過ごしたであろう。
「私は従姉妹の子たちのお世話をしていたよ!みんな元気で流石の私も疲れちゃった」
お前も疲れることがあるのか。
確か中学の頃、妹のような子が生まれたとか言ってた気がする。この時期は腕白だから、大変だっただろう。
俺も親戚の子の面倒をみたことがあるがとても手に負えない。
「私たちも将来子供が出来たら苦労するのかなぁ…」
不安そうに上目遣いで尋ねてくる。大変的を射た発言だがなるべく言い方に気を付けてほしい。少しドキリとした。
俺は人間として生まれたからには受け継いできた命のバトンを子孫へ繋げていきたいと思っている。
「苦労するとは思うが、その時はパートナーの人が一緒になって子育てするはずだ。任せっきりの男は絶対にやめて、家事などに積極的に取り組む人を見つけてくれ。両親に孫の顔を見せることが今まで育ててくれた恩返しになると思うからな」
言ってて恥ずかしかったが兎々はクスッと笑ったような気がした。
「ーーうん!頑張るよ!」
満面の笑みだ。とても純粋なハートの持ち主なのでこのような笑顔が出てくるのだろう。
人間誰もが汚れていくものだと俺は思っているが、いつか兎々がそうなると思うと少し悲しくなる。
「そういえばさ、転校生の噂聞いた?成績優秀な人らしいよ〜」
転校生?確かスマホのメッセージ欄にそんな文字があったような気がする。
俺がいる高校に通っている人は例外なく学校の連絡先を追加され、小学生の頃帰りの会に貰うような保護者、または生徒に向けた手紙の代わりとしてメールが各々の携帯端末に送信される。
頻繁に来るため無視し続けていたが、兎々はちゃんとチェックしていたらしい。
スマホを操作してメール画面を俺に見せた。確かに転校生と書いてあり、もう既にどこのクラスに配属になるかは決まっているらしい。ん?俺たちのクラスじゃないか。
今日説明などを受けて翌日には共に授業を受けることになるらしい。
「ん〜、五月に転校生って何かトラブルでもあったのかなぁ」
確かに気になるといえば気になるが、決まった人間としか話さない俺にとっては別に関係ないことだ。
「まぁ入学した高校が合わなかったんだろう」
でも成績優秀ってことはその高校よりレベルの低いここにわざわざ来たのか?
他にも進学校として名高いところはあるというのに、不思議な人だ。まぁ考えをめぐらせても意味のないことなのだが。
「どんな人なのかなぁ!今から楽しみ!」
めんどくさい人でなければそれでいい。
***
ーー学校が見えてきた。遠くから見るとキレイな校舎だ。
鮮やかな緑色をしており、少し変わった印象を受ける。
校門をくぐって街路樹が立ち並ぶ道を真っ直ぐ歩くと、西洋風でいかにも厳かな雰囲気を醸し出している四阿が見えてくる。
この四阿の中は分かれ道になっており、登校者側から見て左の橋が体育館、右の橋が校舎へと繋がっている。
橋の下は川になっているが、川幅が狭く助走をつけて飛べば楽々と対岸に届くほどの距離だ。
橋だけでいい、という意見もあるが俺自身は異世界に迷い込んだ雰囲気になるのでとても好みだ。
兎々はなんとも思ってないらしいが。
コツコツと小気味良い音を立てて校舎への橋を渡る。さらさらと澱みのない川の流れも相まってテンションが上がる。
初めて学校に来た人のためだろう、校舎への道は赤レンガの舗装が施されている。この学校は比較的広く、俺みたいな方向音痴にはとてもありがたい。
ーー余談だが、この上を歩くとレッドカーペットを行進するスターのような気持ちを味わえる。
校舎玄関の前は何故か虹色のベンチが並んでいる。なぜこんなにも不釣り合いな色にしたんだ、これのおかげで現代アートの作品を集めた美術館に見えるのは俺だけではないと信じたい。デザイナーのセンスを疑う。
二人で仲良く登校するというのは恋人の類だと思われるため、俺だけ記録員という学校の役職に入っておいた。
記録といってもなかなか面倒で、これから登校してくる人の体温を測るというものである。通常5人おり、六人目の記録員が登校してくると一人目が戻るというシステムだ。これで兎々とも離れられる。
それにしても、何故毎日体温を測る必要があるのだろうか、これといって風邪が流行っているわけではないのだが。よほど体調管理に気を配っているようだ。
「ーーじゃあ俺はここで」
「うん!じゃあ後でね〜!」
兎々に別れを告げ、その後ろ姿を見送る。どうせあと数十分もしたらまた会う事になるのだが。
ふと校舎を見上げる。色が付いているとはいえ、近づいて見ると殺風景な感じに見えなくもない。
ーーもしやここは元々は何らかの施設だったのかもしれない。
いかん、今日はテストだというのに変な妄想で台無しにしたくない。とはいえ今は記録員の仕事だ、さっさと取り掛かろう。
俺は駆け足で校舎に入った。