七話
多江が実家である泉屋を出たのは幸丸の側に仕える為である。
お美代を亡くして一人きりになった甥の事が心配で、どうにか両親を説得して家老である木村に頼み込み、藤島家に奉公に上がる事になったのだ。
それが無ければ今頃は、新兵衛の決めた手代の留吉と祝言を挙げ、暖簾分けした店を夫と共に切り盛りしていただろう。
とは言っても、多江は現在も頻繁に泉屋に顔を出しているのであるが。
幸丸が通う学問所は、多江の実家の泉屋の近くにあった。
なので、多江はこれに付いて行き、幸丸の気分が沈んだ時には、どうにか慰めになればと、泉屋の菓子を手渡す様になったのである。
その日も、多江は幸丸が学問所へ通うのに付いて行き、幸丸が学問を修めている間に実家へと戻っていた。
先日、幸丸に渡した菓子絵図帳を返す為である。
店の前を掃除する丁稚に声を掛け、泉屋の暖簾を潜ると、多江はそこにいた人物に驚き、目を見張った。
今は千代付きの侍女である藤乃が隣に下男の重蔵を置いて、手代の留吉と何やら親し気に話ながら店の菓子を選んでいたのだ。
「藤乃様、うちの店に何か御用でしょうか?」
多江は藤乃に近付いて声を掛けた。
留吉が何やら物言いた気に多江を見ているが、それに構う事無く、多江は藤乃を窺った。
「これは多江様。今日は幸丸様の御側に居らっしゃらなくてよろしいのですか?」
「幸丸様は今は学問所で御勉強中ですから。それで、藤乃様こそ何をされているのです?」
「これは異な事を仰る。菓子屋に来るのは菓子を買う為に決まっているでしょうに。…千代様の御遣いで御座いますよ。」
藤乃が可笑しそうに多江を見て笑ったのを、多江は顔を赤らめて言い返した。
「まあ、そうなのですか!千代様が、わざわざ姉の実家である泉屋の菓子を好んで食べて下さるのなら、それは誠に有難い話ですね!藤乃様は随分と千代様に気に入られていらっしゃる御様子で、幸丸様が心配では無いのですか!?」
「勿論、心配ではありますよ。ですが、同時に主を二人持つ程の器量が私には無いだけで御座います。」
「…それは、幸丸様より、千代様を取ると言う事ですか?」
「その様な事を言っているのではありません。ですが、そう受け取られても仕方が無いのかも知れませんね。」
多江がその言葉に言い返そうとした時、店の奥から包みを抱えた番頭がやって来て、多江の顔色を窺いつつ、藤乃にそれを渡した。
藤乃は代金を番頭に渡すと、多江ににこりと笑い掛け、重蔵を連れてそのまま店を出て行った。
残された多江は唇を噛み締めると、歯痒い思いのままに店に上がり、両親と兄を当惑させたのだった。
その後は菓子絵図帳を返し、留吉を無視したまま、多江は幸丸の迎えに戻った。
学問所の前では佐々木正吾が幸丸を待っていて、多江も同じ様に佐々木の横に黙って並んだ。
佐々木が帰って来た多江の顔を見て、一瞬、驚いた顔をしていたが、それも多江は無視をした。
程なくして、幸丸が学問所より出て来たのを迎え、来た時同様、三人で帰宅の途を辿る。多江の様子が可笑しい事に、幸丸も佐々木も気付いていた。
いつもであるなら、この帰り道は多江の朗らかなお喋りが続いているのに、今日はその気配が一つも無い。
かと言って、こちらから多江に話し掛けるのも何となく躊躇われ、三人は無言のまま暫く歩いていたのだが、正面から声を上げて飴を売り歩く唐人飴売りを見つけ、幸丸は立ち止まって声を掛けると懐から金を出して幾つか飴を買った。
そうして、未だに膨れっ面の多江を見上げ、幸丸はその飴を差し出すと、
「疲れた時は甘い物を食べるのが一番なのだろう?」
多江の手に飴の包みを握らせて、幸丸が言う。
多江は、手の中に納まった小さなそれをじっと見つめると、漸くいつもの笑顔で頷いてみせるのだった。
「まさか坊から貰う初めての贈り物が、多江様のついでになるとは思わなかったよ。」
赤い鬼は甚だ不本意であると言った顔をして、口の中の飴を転がした。
幸丸は呆れた顔でそれを見やり、畳の上に置かれた飴の入った包みを仕舞う素振りを見せた。
「文句があるのなら、食べなければ良いだろう。」
「別に文句なんて無いさね。ああ、でも、坊が買ったと言っても、その金は坊が稼いだ金でも無し、だとしたら、この飴は、正確には坊からの初めての贈り物には当て嵌まらないか。」
赤い鬼は幸丸から包みを奪い取ると胸元にそれを隠し、飴の乗った舌を意地悪気に出して見せた。
「全く、貴女と来たら…、その内、身動きが取れぬ程に腹が膨らんでも知らぬからな。」
「…坊、それは女性には決して言っちゃあ、いけない台詞だよ?良い男になりたけりゃ、覚えておくんだね?」
黄金色の目を座らせて幸丸を見据えた赤い鬼に、幸丸は背中に冷や汗が流れるのを感じながら黙って頷いた。