六話
藤島家の家老、木村壮一郎は曽祖父の代から藤島家の家老として要職を任されていた。
兼元の信頼も厚く、それ故に、お美代が兼元の子を身籠った時、養父としてお美代の後見を命じられたのだが、東山の屋敷の件で今その信頼が揺らぐ事態になってしまった。
汚名を雪ぐべく、家老の職をこなしながら、お美代を毒殺した犯人を捜すのに配下の者を使い日々奔走していたのだが、藤島家の主治医である下川典禅から兼元を交え、内々で話があると申し出があり、それが事態を僅かに進展させる事となった。
兼元の体を気遣い、上段の間にも布団が敷かれていたが、兼元はそこに横たわらず、木村と典禅を部屋に通した。
全ての襖がきっちりと閉められ、部屋の中には張り詰めた空気が漂っている。
兼元は、木村を見やり口を開いた。
「…して、お美代を殺した者の手掛かりを掴んだと言うのは誠か?」
「はい、この典禅が本町の薬種問屋組合から噂話を聞いたと申し出がありまして。」
「典禅、申してみよ。」
「はい、本町にある薬種問屋の中に、近江屋と言う店があるのですが、半月程前にその店の裏でボヤ騒ぎがありまして、一時、近江屋の店内が無人の状態になったそうなのです。薬種問屋なのですから、店内には勿論、様々な薬が仕舞ってあります。中には、トリカブトもあった様でして…」
「まさか、そのトリカブトが盗まれたのか!?」
「はい。トリカブトは毒にもなりますが、子根は附子として鎮痛剤にも使われ、薬種問屋では当然、これを取り扱っております。近江屋も取り扱いには慎重を期していた筈ですが、ボヤ騒ぎの為にそれも疎かになったとか。
気付いた時にはトリカブトは盗まれていたそうなのですが、事が事だけに、なかなか申し出る事が出来なかった様でして。
近々、奉行所の御役人様方が取り調べをされるそうで、今、組合の者達が騒いでいる処なのです。」
典禅の話に、兼元は唸り声を上げる。
「…そのトリカブトがお美代に盛られた毒の可能性はどれ程あると思う?」
「はっきりとは申しませんが、限りなく高いのでは無いかと思います。」
典禅の言葉を遮り、木村が言った。
お美代が殺された日から数えると、トリカブトが盗まれたのが偶然の一致だとは思えない。
「そうだな…では、近江屋の顧客、そして最近出入りしていた者を早急に調べよ。金を惜しむな、何としても奉行所の者より早く、犯人を見つけるのだ。」
目を血走らせ、兼元が木村にきつく命じた。
木村が直ぐにでも配下を手配すべく、退去の礼を取ろうとした時、廊下の方が何やら騒がしいのに気が付いた。
それと同時に、締め切られた襖が開き、兼元の正室、千代が姿を現した。
「殿、典禅が来ていると御聞きしました。おお、典禅、よくぞ参ってくれた。一松の熱が今朝から下がらぬのだ、診てやっておくれ。」
千代は典禅を見つけると、そそと駆け寄り、その肩に手を掛けた。
「千代、今は木村と典禅とで大事な話をしている最中だ。弁えよ。」
兼元は千代の態度に苦虫を嚙み潰した様な顔をして窘めたが、千代は気にせず兼元に言い返した。
「まあ、それは申し訳ございませぬ。けれど、私にとっても一松の事は大事。…のう、木村、おまえも死んでしまった女の事で大騒ぎするよりも、藤島家の嫡男である一松を気に掛ける事の方が、余程に大事な事だとは思わぬか?」
「…はっ」
どこまで話を聞いていたのだろう、木村は千代の言葉に黙って平伏する。
千代はそれを満足そうに見て、典禅を再度促した。
「…もう良い、話は終わった。典禅、すまぬが、一松を診てやってくれ。」
「はい。…では、千代様、参りましょうか。」
典禅と千代が去った後、兼元は深い溜息を吐いた。
この件に関わった者の多くは、お美代を毒殺した真の犯人は、千代だと思っている。直接、毒を盛った人物は別にいるであろうが、その者に依頼したのは恐らく千代だろう。
だが、証拠が無い。
兼元は常々、病弱な嫡男の一松が家督を継ぐ事を不安に思っていた。そうして、お美代の子であると言うだけでなく、利発な幸丸が後を継ぐのに相応しいのでは無いかと、随分前から思う様になっていた。
だが、正当性で言うのならば、一松を無視する事は無理な話。
自分が事態を曖昧にした結果が最愛の女を失う事になり、兼元はそれを深く後悔していたが、同時にこれを利用して幸丸に跡目を継がす事を目論んでいた。
千代がお美代殺しの主犯であると分かった時、その罪を持って一松を後継の座から外す。
表立って事を荒げず、千代と一松には黙って藤島家より去って貰うつもりだ。
きっと幸丸は良い後継ぎになるだろう。
だから、それまでは…
兼元は木村が辞するまで、その枯れ枝の様になった自身の腕を組み、天井を睨んでいた。
「おやまあ、綺麗だねえ。これは泉屋の菓子絵図帳かい?」
色鮮やかな絵の具で描かれた菓子の数々に、赤い鬼はその帳面を捲りながら感嘆の声を上げた。
「もうすぐ私の生まれた日だからと、多江が泉屋から借りて来たのだ。この中の好きな菓子を食べさせてくれるらしい。」
「あら、それは目出度い話じゃないかい!それで、坊は幾つになるんだい?」
「十五になる。そろそろ元服して幼名を改め、諱を頂く頃合いだが、それもどうなるか…」
幸丸は赤い鬼が捲る帳面を見下ろして、そう答えた。
赤い鬼は、幸丸の頭を撫ぜながら笑って言った。
「じゃあ、坊は今十四かい?もっと小さいとばかり思っていたよ。」
「…年より幼く見られたのは初めてだ。私は大概、年より多く見られるからな。」
赤い鬼の言葉が意外だったのか、幸丸は頭を撫ぜられるままに呟いた。
事実、幸丸の身長は同じ年の子供の中でも頭一つは抜けている。それに、その生まれた境遇の為に、人の顔色を読むのに長けた、所謂、子供らしく無い子供である事を自覚している。
「ふふふ、それは周りの連中が分かって無いね。坊は、どっから見ても立派な子供じゃないか。」
「…それは、それで不本意なのだが。それに、もうすぐ元服を迎えると言っているだろう。『坊』と呼ぶのも止めてくれないか?」
幸丸は今度こそ、赤い鬼の手を払って不貞腐れる様にして言った。
「馬鹿だねえ、年をどれだけ取ったとしても、それだけでは大人にはなれないんだよ?だから、坊はまだまだ、坊のままだね。」
幸丸の頭を軽く小突いて赤い鬼が物知り顔で言ったのを、やはり幸丸は面白く無い心持ちで子供らしく唇を尖らせた。