二話
お美代が死んで一週間、幸丸にも漸く外出が許される様になった。
但し、必ず御付きの者を連れて出掛ける事が、兼元によって厳命されているのだけれど。
一週間分の遅れを取り戻すべく、学問所や道場へ通い仲間と共に切磋琢磨する毎日は、母が生きていた時と何も変わらず。
それ故に、幸丸はその何も変わらない日常に苦痛を感じていた。
無論、その年にしては何かと聡い幸丸は、自分の苦痛を表に出す様な事はしなかったのだが、叔母である多江には分かったのだろう。
ある日、学問所へ通うのに付いて来た多江は、帰りに幸丸に菓子の包みを手渡した。
何でも幸丸が学問所で勉学に励んでいた間、ひとっ走りして実家の泉屋から持って来たらしい。
「うちの自慢の落雁です。疲れた時には甘い物を食べるのが一番ですから。」
にこりと笑い、護衛役の佐々木正吾にも同じ物を渡している。
幸丸は手の中の包みをまじまじと見やり、呟いた。
「…母の好物だ。」
「ええ、お姉ちゃんもこれが大好きでした。鯛に宝尽くし、鳥に花の型。特に梅の花の型がお気に入りで、美味しいだけじゃなくて、目にも楽しいって、…あ…申し訳ありません。」
あの日、東山の屋敷を訪れたお美代の母と多江は、実家で作られた彼女の好物である落雁を手土産に持って来た。
それは茶菓子として、あの毒入りの茶と一緒に振舞われたのである。
幸丸にとって落雁は、母の好物と言うだけでなく辛い記憶を呼び起こす物であり、決して愉快な話にはならないだろう。
その事に気付き、多江は自分の配慮の無さを後悔した。
「多江が謝る必要は無い。…私も落雁は好きだから。」
幸丸はそう言って多江に笑って見せると、母との思い出ごと、落雁の包みをそっと懐に仕舞った。
藤島家へ戻った幸丸は、先ずは病身の父に帰宅の旨を告げ、本日の勉学の成果を報告した。
今日は体調も良好だと言って、久し振りに小書院で手紙を読んでいた兼元は、幸丸の話に目を細めて聞いている。
これまでの幸丸に対する過保護さでも分かる様に、兼元はお美代を寵愛し、その子である幸丸をそれはもう可愛がっていた。
そこには、正室の千代との間に長く子が出来ず、愛した女の産んだ初めての男子と言う事もあったのだろう、本来ならば千代が嫡嗣を産んだ時点で、家督争いが起きぬ様に立場を明確にする必要があったものを、何かと理由をつけて曖昧にしていたのである。
石高の低い下級の旗本であったならば、側室は外で囲うのが一般的であったが、
藤島家は九千石の大身旗本、兼元は愛するお美代を木村の後見の元、側室として本邸に住まわせた。
当時、正室であった千代の権限は子の産めぬ事で随分と弱まっていた事も幸いして、男子を産んだお美代は一時、正室並みの扱いを受けていたのだ。
そうして、千代が嫡男を産んだ後であっても、一松の病弱を理由にお美代と幸丸を本邸に置き続けたのが、そもそもの事の始まりであった。
「東斎先生が褒めておったぞ、おまえは太刀筋も良いし、呑み込みが早いと。」
「いえ、私などまだまだです。」
「それに引き換え一松は…今朝から熱が下がらぬと奥の者達が騒いでいたが。未だ病がちな儂が言うのも何だが、あやつの病弱ぶりにも困ったものだ。」
兼元が溜息を吐いて奥座敷の方を見やった。
幸丸は父の言葉に曖昧に頷くと、退去の礼を取り自室へと戻って行った。
「おや、落雁かい?いいねえ、私も好きだよ、落雁は。」
包みの中から一摘まみ。
赤い鬼は黄金色の目の前で『打出の小槌』を翳して暫し眺めている。
そうして、「鬼に打出の小槌とは洒落てるねえ」と言って口の中に放り込むと、にんまりと笑った。
「それにしても、坊は秀才なんだって?その上、武芸も達者だとか?屋敷での評判も上々、父親も自慢の息子だって鼻も高い事だろうねえ。…その代わり、千代様方からの評判は頗る悪いみたいだけれど。」
「それは当然だろう。学問も武芸も皆が褒める程、私は優秀では無いし、そもそも一松様とは年も三つ離れているのだから、比べるのは可笑しい。それに、一松様は病弱の身、一松様が思う様に学べずに、千代様が私にあたるのも仕方が無い。」
「ふふ、謙遜も過ぎると嫌味になるって知ってるかい?坊のそう言う所が千代様は嫌いなのかもねえ。」
包みの中からもう一摘まみ、今度は『隠れ蓑』が赤い鬼の口の中へ放られる。
幸丸も同じ様に包みの中から一掴みして、『巻物』を口の中へ放り込み、
「…そうだな、きっと殺したい程、私は嫌われているだろうな。」
口の中で溶けた甘い筈の落雁が、その日は何故かとても苦く感じた。