紫陽花に最中(四)
日本橋に似た橋を渡り、鳥居前町を出ると田園の広がる風景が目に映る。
澄芳川を下流に沿って暫く歩いて行けば、話に聞いた宇和灘神社の鳥居が姿を現した。
幸也は鳥居の前で足を止めると、仰ぎ見て思わず呟いていた。
「あちらでは石鳥居や朱色の物が多かったが、白銀の鳥居とは珍しいな。何処となく鬼人の角の色に似ている様だが…」
雨に濡れているにも関わらず、淡く輝く鳥居のそれに、初めは石鳥居の様に何かの鉱物で出来ているのかと思ったが、どうやら材質は木材らしい。だが、塗料が塗られている訳ではなさそうだ。
と、するならば、鬼界には白銀に輝く樹木が存在するのだろう。
何とも不思議な事だと、幸也は改めて白銀の鳥居を見上げた。
「ふふっ、よく分かったね。事実、鳥居の色は角の色だよ。と言っても、私達の角の色じゃなくて、神の角を模してるんだけどね。」
紅緒は幸也の呟きに頷いて言った。
「この鳥居は縁平の大木から作られた物でね、縁平は鬼界の神域でのみ育つ樹木なんだよ。」
とは言え、縁平が白銀の大木になるまでは長い年月が必要で、それまでは他の樹木と見た目は然程、変わらない。
現在、宇和灘神社が建つ霊峰の頂上にも御神木として縁平が生えているが、その色が白銀に変わるのはまだずっと先の話だ。
「折角だし、参拝して行きたい処だけど、それは帰りにしよう。もう直ぐ昼になるし、母者が御馳走を作って待ち侘びてるだろうからね。」
紅緒がそう言うのに頷きながら、幸也は白銀の鳥居に背を向けた。
人の往来も無く、傘を跳ねる雨音を聞きながら一本道を歩いて行けば、まばらに民家が見えて来る。
紅緒の後を追った幸也は、彼女が「ここだよ」と言って立ち止まったのに頷き、傘の中からその屋敷を窺った。
表札の無い門は開けられ、玄関までの小道には黄緑色の小さな花を咲かせた譲葉が並んでいた。平屋ではあるが敷地は広そうで、そこかしこに花木の色が目に映る。
そこには当然の様に、季節の花である紫陽花の花が雨を受けて咲き誇っていた。
玄関までの石畳を歩きながら、幸也は失礼だとは思いつつも、興味を隠せないままにキョロキョロと周囲に目を移した。
玄関に到着した紅緒が傘を畳み、戸を開けたのに気付いて幸也が慌てて倣い傘を畳んだのと同時に、家の中からバタバタと走る音が聞こえる。
紅緒が声を掛ける前に、戸の音を聞きつけた家の者が紅緒を迎えに来たのだろう…にしては、豪快な足音ではあるが。
果たして、現れたのは年の頃二十程の可愛らしい顔の女で、黄金色の瞳をキラキラと輝かせたまま紅緒を認めると嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「お帰りなさい!待ち侘びたわよ!」
女がそう言うのに、幸也はその言葉遣いから、妻の妹なのだろうと思った。
紅緒には足の悪い妹の他にもう一人妹がいた筈だから。
燃える様な赤い髪の美女である紅緒に比べ、可愛らしいものの一般的な美醜の範疇である女の容姿に、紅緒とは似ていないな、と思いつつ、少しだけ母・お美代と叔母・多江を重ねてしまった幸也は、直ぐに心の中で反省した。
だが、そんな幸也の予想は紅緒の返事で大きく外れる。
「ただいま、母者」
その言葉に、幸也は目を瞠り思わず紅緒を凝視してしまった。
幸也の視線を感じたのか、紅緒は苦笑すると「母者だよ」と、改めて幸也に紹介した。
「あら、あら!もしかして、あなたが幸也君?」
義母が幸也を見やって目を輝かせたのに、狼狽しつつも幸也は聞きなれぬ敬称に内心で首を傾げた。
後から聞いた話では、名前の後に「君」を付ける敬称は江戸の後期から使われる様になったものらしく、幸也の暮らしていた時代ではまだ使われてはいなかった。
そうした訳で、聞きなれぬ名で呼ばれた事に違和感を抱いたものの、それよりも義母の印象が強烈過ぎて名前の違和感等、幸也には些細な事の様に思えてしまった。
「ふふふっ、まさに時代劇の若君!って感じね。私は美奈子、この子の母親よ。よろしくね!」
「は、はい、幸也と申します。見ての通りの若輩者ですが、どうぞよろしくお願い申し上げます。」
時代劇とは何ぞや?と再度、首を傾げつつ、幸也は慌てて頭を下げた。
口上が『ことぶき』で口にしたものと同じものになってしまったが、上手く頭が回らない。
恐縮しきりの幸也を見やり、美奈子は腰に手を当てると、
「もう!堅苦しいのは無しよ!無し!さあ、さあ、上がって、上がって!皆、幸也君が来るのを楽しみにしてたんだから!」
そう言って、紅緒と幸也を招き入れ、家人が待つ居間へと案内した。
「お姉ちゃん、お帰りなさい。遅かったね。」
居間へ入った幸也達を迎えたのは、そんな第一声で。
声の主を探せば、幸也より少しだけ年下に見える…と、言っても、義母の件があるので見た目通りの年齢なのかは疑問であるが…可憐な美少女が紅緒を見上げて唇を尖らせていた。
「ああ、悪かったね、六鬼。少し、寄り道して来たもんだからさ。その代わり、ほら、土産の最中だよ。」
紅緒がそう言って手の中の包みを見せてやれば、六鬼は「わあ!『ことぶき』の
最中だ!」と手を打って笑顔を見せた。
艶やかな黒髪が肩口でふんわりと揺れ、菓子に喜ぶ姿であるのに一枚の絵画の様に美しい。
紅緒とはまた違った種類の美しさではあるが、年若いとは言えど、それでも人を惹き付ける魅力を六鬼は充分に備えていた。
そんな六鬼の隣で、少しだけ困った顔をした女性と目が合った。
日に焼けていない白い肌に、柔らかな微笑みを口元に浮かべて。
右足を崩して座っている事から、彼女の足が不自由である事が窺えた。
「お帰りなさい、お姉ちゃん。あの、初めまして、お義兄さん。私は鏑鬼家の次女で五鬼と言います。どうぞ、お掛けになってください。」
「ああ、そうだった、立ち話も何だしね。幸也、座ろう。」
紅緒に背を押され、御馳走の並ぶ台の元へ座れば、対面に座る少年が二人の幼子をあやしていた。
「初めまして、幸也義兄さん。僕は七鬼と言います。ほら、八鬼、九鬼、御挨拶して。」
七鬼は幸也に礼儀正しく頭を下げると、弟達を促した。
とは言え、まだ歩くのがやっとと言える幼子である。
一人は黄金色の瞳に好奇心を滲ませて、もう一人は兄である七鬼の背に隠れたまま、初めて見る幸也の一挙手一投足を窺っていた。
「おや?父者は何処だい?今日、来る事は伝えておいた筈だけど、」
上座が空席なのを指して紅緒が言えば、美奈子が頬に手をやって溜息を吐いた。
「それがね、鈹裡から来た参拝客が町で騒動を起こしたみたいで、勝司さんに呼ばれて出掛けちゃったわ。」
「そうなんだ。いつ頃、戻って来るんだい?」
「直ぐに戻るって言ってたけど、先にお昼は食べて良いって言ってたから、あの人の事は待たなくても大丈夫よ。ささっ、幸也君も遠慮なく頂きましょう。」
そう言って美奈子が手を合わせて「頂きます」と言うのに、鏑鬼の家の者達はそれに倣って手を合わせて各々に食事を始めて行く。
八鬼と九鬼も兄の元を離れて美奈子に駆け寄ると、小皿に料理を取り分けて貰っていた。
そんな鏑鬼家の食事風景を眺め、先ず初めに挨拶をせねばと意気込んていた義父の不在がどうしても気になる幸也は、箸を取るのに躊躇した。
隣に座る紅緒が「父者が良いって言ってるんだから、気にせず食べなよ」と言って箸を勧めたので、幸也も漸く食事を取る事にした。
義父が不在とは言え、当然ながら緊張している幸也は出された料理の味が分かるかどうかも疑問であったが。
だが、そんな幸也の思いは杞憂だった様で。
気後れしつつも、そうやって口にした鮎の甘露煮の美味さに、幸也は思わず目を瞠る。煮崩れする事無く、黄金色の美しい姿のまま皿に盛られた鮎は、舌の上で柔らかく解け、骨や尾ひれを残す事なく、箸の止まらぬ幸也の皿の上からそのまま綺麗に消えていた。
醤油と砂糖の差配が絶妙で、深い味わいが幸也の口の中に幸福感と共に広がった。
台の上の御馳走は全て美奈子の手作りだと言うが、義母は食べっぷりの良い女性だけでは無く、その腕前も極上らしい。
幸也が美奈子に賛辞を贈れば、美奈子は照れながらも気持ち良く自分の作った料理を食べている。その上、幼子二人の面倒を見ながら、既に二杯目のご飯のお代わりをしているのだから、驚きだ。
それでも、その姿が下品に映らないのは、美奈子の箸使いが美しく、見ている者が思わず喉を鳴らしてしまう程に、実に美味そうに食事している為だろう。
義母に目をやりながら、幸也は何となく菓子を頬張って笑う紅緒の顔を思い出していたのだが、何かの直感が働いたのか六鬼が味噌汁を手にしたまま幸也に顔を向けると、可愛らしく小首を傾げて問い掛けた。
「それで、幸君はお姉ちゃんのどんな処を好きになったの?」
その言葉に幸也は箸を持ったままカチリと固まってしまった。
少女らしい疑問であるが、こんな大勢の眼の前で口にする度胸は幸也は持ち合わせていない。そもそも、紅緒に対しての気持ちを言葉で表すのは、今の幸也には難しかった。
「六鬼姉さん、義兄さんが困ってるから、その質問は止めた方が良いよ。」
幸也が答えに窮しているのを見やり、七鬼が溜息を吐いて六鬼を制止した。
しかし、六鬼は不満げに唇を尖らせると、矛先を弟に変えて悪態をつき始めた。
「え~!何でよ!?そこが一番知りたいのにーっ!!七鬼のバーカ、バーカ!」
「…馬鹿って言った方が馬鹿だって、母さんが言ってたよ。」
「だったら、今、七鬼も言ったじゃない!」
「それは六鬼姉さんが馬鹿って言ったから、」
「ほら!また言った!七鬼のバーカ!バーカ!」
「六鬼、お客様の前よ。いい加減になさい。」
見兼ねた五鬼が六鬼を叱るのに、六鬼はまだ不満顔で言い募る。
「いっちゃんだって本当は気になってるくせに!それに、幸君はお客様じゃないでしょ?紅緒お姉ちゃんの旦那様なんだから、私達の家族になったんでしょ?」
六鬼の子供じみた反論は…実際、六鬼は子供なのだが…けれど、幸也の胸にほんのりと温かさをもたらした。
あちらで家族を失い、捨てて来た幸也を、当たり前の様に受け入れ、家族と呼んでくれるとは…
「うふふふ、そうだよ、六鬼、幸也は私の旦那様で、私達の家族になったんだよ。だけど、だからって何をしても構わないってのは別の話さね。六鬼だって、私が気になるからって、あんたの秘密にしてる日記を皆の前で読ませてくれって言ったら嫌だろう?」
「えっ!?何で、日記のこと、知ってるの!?…って、ウソ、ウソ!そんなの無いから!」
慌てて誤魔化す六鬼に紅緒は笑いながら頷いて「例えばの話だよ」と返し、末の妹を見やった。紅緒の黄金色の瞳に見つめられ、反論しようとした六鬼は、やがて肩を落として幸也に向かうと素直に頭を下げて謝った。
「…幸君、ごめんなさい。」
「あ、いや…それは、」
へにゃりと眉を下げた六鬼の姿に、幸也は申し訳無い気持ちで一杯になる。
そんな幸也に代わって応えたのは、やはり紅緒で。
「きちんと謝る事が出来て、六鬼は良い子だねえ。そんな良い子の六鬼の為に、幸也と私の出会いを教えてあげよう。私が幸也に一目惚れをして、旦那様になってくれる様にお願いしたんだよ。幸也は旗本の若君だったからね、家族に反対されるのを振り切って、二人で逃げて来たって訳さ。」
「ええっ!?お姉ちゃんが一目惚れ!?それに、それって、駆け落ちって言うんでしょ!?」
「うふふっ、追っ手は真剣を手にして私達を止めたけど、私はそれを次々と素手で躱して見事、幸也を屋敷から攫ってみせたのさ。あの時の私の雄姿を六鬼にも見せて上げたかったねえ。」
「凄い!流石、お姉ちゃん!恰好良い!」
「…」
六鬼に語った紅緒の話は一目惚れ云々を除けば間違ってはいない…間違ってはいないが、何故だろう、猛烈に否定したくなった幸也は、それでも己が何か言えば余計にややこしくなるのが目に見えて、眼の前の御馳走を食べるのに専念する事にしたのだが、
「随分と面白そうな話をしてるじゃねえか、オレもまぜてくれよ、」
その声に驚き、振り向いた先で、いつの間に現れたのか、開けた障子に寄り掛かる黄金色の髪と瞳を持つ美丈夫が幸也に目をやり、面白そうにくくっと喉奥で笑っていた。




