紫陽花に最中(二)
しとしとと降り注ぐ雨の中、幸也は興味深く町の様子を眺めながら歩いていた。
傘を差して道々を行き来するのは確かに鬼人ではあるものの、町の景色は幸也に取って馴染みのあるものばかりで。
見れば、見る程に江戸の町に似ている。
店先に掲げられている看板には平仮名や漢字が使用されていて、当たり前の様に読めるのが何だか妙に可笑しかった。
紅緒が言うには、この町は鬼界の神を祀る宇和灘神社から形成された鳥居前町らしい。
本日は生憎の雨ではあるが、晴れた日であれば参拝客や商売人の往来で町は活気立っているそうだ。成程、確かに旅籠らしき建物も多く見受けられる。
「鬼界には四つの国の様なものがあってね、ここは西の宇和灘と呼ばれる土地さ。」
「西の宇和灘…では、近くに海があるのか?」
そんな処まで江戸の町に似ているなと、幸也が妙に感心していると、紅緒は「ところが、それ程近くには無いんだよ」と首を振って否定した。
「ここから海を見る為には山を五つ超えなくちゃならないんだ。ほら、前に弟達が暮らしてるって言った村があったろ?あそこも宇和灘の一部ではあるけど、そこまで行かなくちゃ海は見れないのさ。」
「栄えている様に見えるが、この町は宇和灘の中心地では無いのか?」
「いや、紛れもなく、ここが宇和灘の中心地だよ。」
宇和灘と言う名は、その昔、この地が海の中に沈んでいた頃、鬼界を作った神が天界より糸を垂らし、この地を引き上げた事に由来している。
その糸が巻き付き、最初に海から引き上げられた場所が宇和灘神社が建てられている霊峰であり、それ故に、宇和灘神社が形成するこの鳥居前町は紛れもなく宇和灘の中心都市に違いなかった。
「鬼界にも神話の様なものがあるのだな。」
幸也に取っては紅緒に出会う前なら、鬼人こそ神話や御伽噺に出て来る存在であり、場所によってはそれこそ鬼は信仰対象にもされている存在だ。
そんな鬼人達が、こうして神を崇め人間と変わらぬ生活を送っているのを見ると、やはり不思議な気持ちになるものだった。
「人の世みたいに多くの神はいないけどね。こちらの神は鬼界を作った神だけさ。その神が宇和灘を海中から引き上げた日が七月二十二日って伝えられててね、その日から三日間、毎年ここいらでは祭りが催されるんだ。結構、大きな祭りでね、町も人も賑やかになるから、その時はまた一緒に見物しよう…ああ、幸也、あそこに見える学び舎だけど、少し暮らしが落ち着いたら通うと良いよ。」
そう言って、紅緒が指差した建物を見れば『招道館』と言う看板が掲げられている。
真っ白な二階建ての学舎が構えるその門は、開講中なのだろう大きく開かれ、脇には薄紫色の紫陽花の花が道行く者達へと顔を覗かせていた。
「ここは界渡りをした元人間が、こちらで暮らすのに必要な知恵を得る為の学び舎だよ。鬼界は人の世と似てはいるけど違う事の方が多い。ここに通えば、あんたが疑問に思った事には大概答えが見つかるんじゃないかな。」
「…確かに、私にはこちらで生きて行く為の知識が必要だが、ここに通う為には金が必要だろう?」
「まあ、学費は必要だけど、鬼界に連れて来たのは私だよ。『招道館』に通うのに必要な費用は、連れて来た鬼人が払うのが筋ってもんさ。あんたが気にする事はこれっぽっちも無いんだよ。」
「私はあなたに無理矢理連れて来られた訳じゃない。ここに来たのは私の意思だ。それに、衣食住にしろ、今でも充分にあなたに助けられている。これ以上、あなたの世話になるのは申し訳無い…学ぶ事は必要だが、まずは自分の食い扶持位は自分で稼ぎ、何れはきちんと家にも納めるつもりだ。ここに通うのはそれからでも良いだろう、」
「私としては旦那様が甲斐性があるのを喜ぶべき処かも知れないけど、それは順番が逆だね。あんたが今必要なのは、ここで上手に暮らす為の知恵を身に着ける事さ。考えてもご覧よ、暦でさえ人の世とは全くの別物だっただろ?こちらの常識が皆無の今のあんたが、一体どうやって働く先を見つけるって言うんだい?」
「それは…っ、」
紅緒の正論に、けれど、幸也は素直に頷く事は出来なかった。
成人を迎えてもまだ、紅緒に助けられてばかりの自分が酷く情けなく、腹立たしくて。
そんな幸也を見やり、紅緒は一つ溜息を吐くと苦笑した。
「この町には『招道館』とは別に『訪道館』って学び舎があってね、そこは、鬼人があちらの常識を学ぶ為の場所なんだ。界渡りをするにも、やっぱり人の世の必要最低限な知識は持ってなくちゃ、妻問いどころじゃないだろ?そこでは資料も多く取り扱われてるけど、より詳しいものがあれば助かるってんで、元人間達からの知識を常に集ってる。あちらでの生活様式や地図なんかをまとめて資料にすれば買い取ってくれるよ。どうする?」
「やる。」
「そうかい。じゃあ、今度、『訪道館』に案内してあげる…但し、『招道館』には通って貰うよ。いいね?」
「だが、」
「学費の事なら、あんたが気になるなら貸しにしといてあげるから。いつかまとまった金が出来た時にでも返しておくれ。」
「…分かった。すまない、」
幸也が悔しそうに礼を言うのに、紅緒は小さく笑う。
「うちの二階に書斎があるだろ?お祖父様は人の世で教鞭を執られてたそうだけど、こちらに来てからも『訪道館』で暫く講師を務めてたんだ。後年は妖術に関心を持たれて、そちらの研究に勤しまれたけど、他の分野でも様々な研究を発表されてね、それこそ料理の本なんてものもある位でさ。それらの蔵書はあの書斎に納められてる。弟が引っ越す時に術書なんかは持って行っちまったけど、他のは残ってるから参考にすると良いよ。」
紅緒の言う通り、屋敷の二階には広い書斎があり、たくさんの蔵書が納められていた。
所々に隙間があったのにはそう言う理由があったのかと、納得しながら幸也は紅緒の話を聞いていた。
妾腹ではあれど父親の兼元に誇れる息子である為にと、幸也はあちらの世で文武によく励んでいた。学問所でも道場でも幸也の評判は良かったが、優秀であるのとはまた別に、それは幸也自身が学ぶ事が好きであったからだ。
そんな幸也であったから、勿論、二階の書斎にも興味を覚えたが、鬼界に来て漸く一週間と少しが過ぎたばかりで…その上、そのほとんどが床の上の住人であった幸也は、何処まで紅緒やあの屋敷の中に関して干渉して良いのか、その境界線を測りかねていた。
藤島の家にいた時とは違い、ここでは幸也自身が考え、行動しなければならない事が多かった。だからこそ焦燥感にも駆られていたのだが、こうして幸也の言葉にきちんと耳を傾け、一緒に考えてくれる紅緒の存在に救われる。
「ありがとう、」
幸也が礼を言うと、紅緒はふわりと笑って、もう一度傘の中から手を出すと、幸也の頭に触れた。
「…だから、袖が濡れると言ってるだろう、」
「ふふふっ、そうだねえ。」
幸也は己の顔が赤くなっている事を自覚して、ふいと顔を逸らしたが、紅緒の手を払う事はしなかった。
だから紅緒も、気の済むまで幸也の頭を撫で続けていた。




