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花鬼~紅葉、燃ゆる~  作者: 光沢武
21/29

クチナシと金平糖(三)

幸丸の熱が下がったのは、結局、あれから一週間が過ぎた頃だった。


その間、熱で意識の朦朧とする幸丸を甲斐甲斐しく世話をした紅緒は、道場を訪れる門下生を一旦断り、幸丸に付きっ切りで看病に明け暮れていた。

そうやって、妻の献身のおかげで幸丸の体調も幾らか元に戻り、漸く本日、床を出る許可を得た訳であるが、今日に限って生憎の雨空で外出する事は叶わず、幸丸は縁側に座ってぼんやりと庭に咲くクチナシの花を見つめていた。


しとしとと降り頻る雨に、鬼界に来た当初を思い起こされる。

あの時も、雨の匂いの中に甘いクチナシの花の匂いが混じっていた。

ほんの一週間前の事だが、未だに現実感が沸かず、幸丸は自分が自身に都合の良い夢を見ているのでは無いかと少しだけ疑っていた。



「そんな所にいつまでも居たら、また熱がぶり返すよ。病み上がりなんだから。」


庭を眺める幸丸の肩に、そっと羽織を掛けた紅緒が言うのに、幸丸は妻を見上げて礼を言うと再び庭に目をやった。

紅緒が心配して言ってくれているのは分かっていたが、あと少しだけ、この場所に居れば、これが夢では無いのだと信じられそうで、幸丸はこのまま庭を眺めていたかったのだ。

紅緒はそんな幸丸に呆れた様に一つ溜息を吐くと、一旦居間に戻ってから幸丸の隣に座った。

見れば、紅緒の手には金平糖の盛られた小皿が乗せられている。

妻のぶれない態度に、幸丸は笑った。


「…あなたを見ていると、深く考え過ぎる自分が馬鹿らしく思えて来るな。」


「何だい、そりゃ。ちっとも褒められてる気がしないね。」


幸丸の言葉に紅緒は唇を尖らせると、金平糖を摘まみ口の中に放り込んだ。


幸丸は口元に運ばれた紅緒の指先を横目にして、その掌に視線をやった。

あちらに居た時も何度かその手に触れた筈だが、『合わせ』で藤乃に化けていた事と、幸丸自身が自分の事に必死で気が付かなかったのだろう、確かに、彼女の手は剣を握る者の手をしている。


紅緒の手は、お美代の白く柔らかい手とは全く違っていた。

固く、強く、けれど、とても暖かで優しい手だ…




「…夢を見ていたんだ。夢の中で、夢を、ね。その中で、私は父上と多江に卑怯者と言われていた。真実を告げず、自分だけ逃げ出した私を二人は責め続けていたよ。」


幸丸は紅緒の手から視線を外すと、雨の降る庭を眺めてポツリと言った。


「ここに来た事を後悔している訳では無いんだ。私の事を誰も知らない、何処か遠い処に行きたいと望んだのは私だ。事実、私は父上に真実を告げず、多江を見捨てて逃げた卑怯者なのだからね。…ただ、逃げた後、どうしたら良いのかが分からないんだ。」


「分からない?」


「ああ、そうだ。私は逃げる事だけを考えていた。だから、逃げた先でどう生きたら良いのか分からない。」


藤島の屋敷に居た時は、自分の出自を疑うまでは簡単であった。

兼元に認められる息子である為に、文武によく学び、何れは弟の一松が兼元の後を継いだ時に助けになれる様に、藤島の家を盛り立てる事だけをただ考えていれば良かったのだから。


だが、今の幸丸には何も無かった。


目指すべき道も、これから進むべき道も、何一つ思い描く事が出来ない。

本当にあの場所から逃げる事だけを考えていたのだと、今更ながらに幸丸は自身の不甲斐なさに自嘲する。


膝を抱えて背中を丸めた幸丸を見下ろした紅緒は、二つ目の金平糖を口にしながら「成程ねえ」と幸丸の頭に手を置いた。


「きっと今まで坊の目の前には道が一つしか無かったんだね。だから、急に幾つもの道が出来て迷ってるんだ。」


「…そうかも知れないな。確かに私は迷っている。どの道に進めば良いのか、どの道を選べば正しいのか。」


「別に正しい道を選ぶ必要は無いんじゃないかい?坊の好きな道を選べば良いのさ。」


紅緒が柔らかく幸丸の頭を撫でるのに、幸丸は頭を振ってそれを否定する。


「そう言う訳にはいかないだろう。好きな道を選んだ結果、また私は逃げ出すかも知れない。今度はあなたに卑怯者だと思われるかも知れない。私はもう二度と逃げ出したくは無いんだ…」


幸丸は膝に顔を埋めると、情けなく歪んだその表情を隠した。

こんな弱音を吐くつもりは無かったのに、自分に触れる紅緒の手が悪夢に魘される幸丸を救った手と重なって、つい、本音を吐き出してしまった。


紅緒が以前言った事は正しかったのだ。

どんなに年を重ねたとしても、やはり、それだけで大人とは呼べはしない。

何と矮小で情けない子供である事か、ほとほと自分に嫌気が差してくる。


ますます膝に顔を埋めた幸丸は、けれど、次に紅緒の言った言葉に弾ける様に頭を上げた。


「逃げる事の何が悪いんだい?」


紅緒は小首を傾げて幸丸を見下ろした。

その拍子に、赤く燃える様な髪がフワリと揺れる。


「別に馬鹿正直に正しい道を真っ直ぐ歩く必要は無いんじゃないかい?立ち止まって休んだって良いし、不味いと思ったら逃げ出したって良い。その都度、別の道を選んで進めば良いし、引き返したって良いんだよ…まあ、坊の場合は二度とあちらには戻れないから、それは難しいかも知れないけどね。」


呆気に取られた幸丸の自分と同じ色の瞳を覗き込み、紅緒は「ふふふ」と笑った。


「失敗したって良いじゃないか。坊の人生を代わってやる事は出来ないけど、私があんたの傍らに居てあげるよ。坊が立ち止まって休みたいと言えば、膝枕だってしてあげるし、逃げ出したいと思ったら、また抱えて塀を飛び越えてあげる。…あんたが卑怯な事をしようとしたら真っ先に止めてあげるから、安心して坊の好きな道を選べば良いさ。」


そう言うと、紅緒の黄金色が悪戯気に細められた。


ああ、()()紅緒に救われたのだと、幸丸は思った。


逃げても良いと言った紅緒の言葉に、幸丸は肩に乗っていた何かが無くなったのを感じた。

それは、後悔していないと言っていたが、やはり後悔の念だったのか、罪悪感だったのか分からないけれど。


「…流石に、また抱えられるのは御免被りたい処だな。」


「だったら、坊が私を抱えて逃げてくれるかい?」


「そうだな…次に逃げる事があればな…」


だが、きっともう二度と逃げることは無いだろう。

紅緒の黄金色の瞳を見上げて、幸丸は笑った。

そうして、先程とは打って変わって、憑き物が落ちた様な顔を見せた幸丸に安心したのか、紅緒は話を変える様に問い掛けた。


「そう言えば、坊はいつ十五になるんだい?あちらとこちらでは暦のあり方が違うから、こんがらがっちまうかも知れないけどさ。」


「こちらでどうかは知らないが、恐らく三日前には十五になったのだと思う。」


「何だって!?」


紅緒の手元から金平糖が零れそうになるのを、慌てて幸丸が抑えて小皿に戻してやったが、そんな事は気にしない紅緒は、幸丸の顎を掴むと自分へと向けさせて抗議の声を上げる。


「そんな大事な事、何で黙ってたんだい!もっと早くに言いなよ!」


「…あなたに尋ねられるまで忘れていたんだ。それに、三日前はまだ熱で寝込んでいたから、」


決まり悪気に言い訳する幸丸だったが、その言葉は嘘だった。

十五になったと言うのに、子供の様にグダグダと迷い続ける自分の情けなさに、つい口を結んでしまっていたのだ。

だが、紅緒はその言い訳を素直に信じた様だった。


「そうかい、確かに三日前じゃ、まだ寝たきりだったから碌にお祝いは出来なかったかもねえ。よし!今夜は快気祝いと誕生祝いに御馳走を振舞ってあげるから期待しときな。」


幸丸の背中をバンバンと叩いて紅緒が笑う。

思いの外強い力に幸丸が咽て咳をすると、それを見て紅緒がまた笑った。


「十五になったのなら、もう坊では無いね。約束通り、あんたに諱をつけてあげる。あんたは今日から「幸也」だ。」


「…幸丸とあまり変わらないな。」


密かに紅緒の付ける名を楽しみにしていた()()は、少しだけ落胆の色を乗せてそう返事したが、紅緒は金平糖を一摘まみすると、今度は幸也の口元に押し付けて黄金色の瞳を細めて言った。


「『幸』と言う字は良い字じゃないか。捨ててしまうのは勿体ないよ。これから先、ずっと私と幸せになるんだ。『しあわせなり』で幸也。どうだい?良い名だと思わないかい?」


幸也の口の中で金平糖がコロリと転がった。

それは、落雁の様に滑らかに口の中で溶けて消えたりはしないけれど、確かに甘く幸也の舌の上に存在している。


「一緒に幸せになろう、ねえ、幸也?」


紅緒が笑う。

そうして、その瞳の中に、同じ様に笑った幸也がいた。


雨に混じったクチナシの匂いの中、この日、幸也はこの地で生きて行く決意を固めたのだった。



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