クチナシと金平糖(二)
ちゅんちゅんと外から聞こえる雀の鳴き声に起こされ、幸丸はゆっくりと瞼を上げた。
ぼんやりと目に映ったのは見知らぬ天井で、一瞬、自分が何処に居るのか分からなくなったが、意識が覚醒するにつれ、ここが紅緒の家である事を思い出した。
昨日は紅緒が風呂から上がって来るのを暫く待って居た筈だが、いつの間にか眠ってしまったらしい。
紅緒に抱き上げられ、ここに寝かされたかと思うと居た堪れない心持ちになったが、よくよく思い出してみると、藤島の屋敷から連れ出された時も彼女に抱き上げられている。
「…っ」
あまりの羞恥に両手で顔を覆って、喉元から出そうになる呻き声を押さえていた幸丸だったが、部屋の障子が開けられた事で顔を上げ、こちらを窺っている紅緒と目が合い、その姿に驚いた。
「おはよう、坊。起きてたんだ。食事の用意は出来てるけど、食べれそうかい?」
「あ、ああ…」
「ん?どうしたんだい?そんなびっくりした顔をして。」
「いや、その、あなたのその恰好が…」
「ああ、これかい。」
紅緒は自分の姿を上から下へと眺めて「ふふふ」と笑った。
彼女の着ている物は稽古着だった。
白い道着に紺地の袴、赤い髪は頭上高くで一つに括った、どこから見ても勇ましい女剣士の姿だったのだ。
「朝起きると、道場で汗を流すのが私の日課なんだよ。祖母が道場を開いていてね、近所の子供達に剣を教えてたんだ。今は私が後を継いで、先生なんて呼ばれてるけどね。」
「あなたが剣を?…だが、あちらで出会った時には帯刀していなかった様だが…」
「そりゃそうさ、わざわざ門を渡って人間界に行ったのに何で帯刀する必要があるんだい?別に私は、道場破りをしに界渡りをした訳じゃないんだよ。」
幸丸の言葉に呆れた紅緒だったが、夫問いの為に二度と帰って来れない事も考え、門下生には既に一週間の休館と共に、別れを告げた事を撤回せねばならないと肩を竦めた。
「一週間の休館?」
「ああ、界渡りの門を潜った者はね、一週間過ぎても帰って来なけりゃ、二度と鬼界には戻って来ないんだ。だから、一応、私も門下生や家族とは今生の別れとやらを済ませたんだけどね、それも無駄になっちまったねえ。ふふっ。」
「馬鹿な…あなたは、あちらで一月以上は暮らしていた筈、」
「そうなんだよね、不思議だろ?だけど、私が門を潜ったのは昨日だったんだ。さっき、うちの門下生の子が道場を覗きに来ててね、教えてくれたよ。」
まさか一日で夫を連れて帰る事になるとは思ってもみなかったが、とりあえず日持ちする食料だけは家に残していたので簡単な料理を作る事は出来たのだと紅緒は笑って言った。
だが、幸丸を連れ帰ったのならば食料の買足しが必要になって来る。
朝食を食べ終わったら少し出掛けて来ると言った紅緒に同行を願い出た幸丸だったが、直ぐに紅緒に却下されてしまった。
「自覚が無い様だから言うけど、坊、あんた、熱があるよ。昨日、言ったろう?体に負荷が掛かってるって。暫くは安静にしておくんだね。」
「だが…」
「いいから、ゆっくりしときな。そんな状態じゃ、碌に体も頭も動かす事なんで出来やしないんだから。今、坊に出来る事はしっかり食事を取り、体を養生させて元気になる事だけだよ。分かったかい?」
渋る幸丸の頭を柔らかく撫でた紅緒は、一つ片目を瞑って見せると、幸丸の着物に羽織を着せて居間へと戻って行った。
そうして、盆に乗せた朝餉を幸丸の前に出すと「食べさせてあげようか?」と黄金色の瞳を悪戯に細めたものだから、幸丸は慌てて頭を振って、自分の箸で朝食を食べ始めた。
紅緒がくすくすと笑っているのを聞きながら、昨日から随分と揶揄われているなと思いはしつつも、殊更に嫌な気分になる事も無い。
紅緒が用意した朝餉は柔らかく炊かれた白飯と、椎茸と人参に細かく刻まれた葱を散らしたかきたま汁だった。
家にある食材が少ないと言っていたが、熱のある幸丸の為に作られたそれは、とても優しい味がする。
全てを食べ終わったのを見届けた紅緒が、膳を下げるのをぼんやりと見送った幸丸は再び布団の中に戻ると瞳を閉じた。
先程まではそうでも無かったが、紅緒に言われて自覚した為か、体が熱い。
やはり、熱があるのだろう。
次第に意識が遠のき、幸丸は深い眠りへと落ちて行った。
夢の中で幸丸は夢を見ていた。
そこでも幸丸は熱を出して寝込んでいて、布団の中で荒い息を吐きながら夢と現を繰り返していた。
弟の一松に比べ、体も頑丈で風邪等ほとんど引いた事の無い幸丸だったが、一度だけ酷い流行り病を患った事がある。きっと、その時の夢なのだろう。
広く温かい布団に寝かされ手厚い看病を受ける幸丸であったが、彼の熱は一向に下がらず、幼かった心と体はすっかり疲弊していた。
そんな時に、幸丸の熱い額にそっと伸ばされた白く冷たい手は母の手だった。
母は熱に魘される幸丸の額に浮かぶ汗を手拭いで拭い、着物の隙間から首元や胸元を丁寧に拭ってくれた。
確かな母の愛情を感じ、幸丸はほっと溜息を吐いた。
体の節々に痛みを感じていたのが嘘の様に、強張りが解け、荒かった呼吸も落ち着きを見せ始める。
しかし、優しく柔らかな母の手が幸丸の胸元にある黒子の上で止まった事で、幸丸の体は石の様に固まった。
幼かったあの頃は母の手に癒され、安堵の元で眠る事が出来たと言うのに、夢の中の幸丸は、その手を振りほどきたくなる程の嫌悪感を覚えてしまった。
蘇るのは東山の屋敷で見てしまった木村と母親の睦合う姿。
母の白い手が木村の胸元にある黒子の上を、何度も愛し気になぞっているのを思い出す。
酷い吐き気と不快感に逃れようと身を捩るが、幸丸の体どころか指先一つ、ぴくりとも動かない。
叫び声すらままならず、幸丸は瞑った眼の奥で必死に助けを呼んでいた。
ふと、それまで胸元に置かれていた母の手が退くのを感じた。
瞑った瞳を開いた幸丸は、布団に仰向けに寝かされた自分を見下ろす父親…兼元の姿に息を呑んだ。
「…藤島家を継ぐのは幸丸、おまえだ。おまえこそ、私の後を継ぐのに相応しい。」
「ち、父上…」
「おまえは文武に優れ、しかし、それに驕る事なく謙虚で正直だ。脆弱で頼りない一松とは違う。由緒正しい旗本である藤島家には、おまえの様な者こそが必要なのだ。」
「父上、私は……」
「どうした?幸丸、それ程に脅えた顔をして。この父に、何か隠し事でもあるのか?」
「隠し事…」
「そうだ、隠し事だ…例えば、おまえが不義の子であるとか、」
その言葉に幸丸の体はガタガタと震え始めた。
心臓は早鐘を打った様に鳴り響き、体中に脂汗が噴き出るのを止める事が出来ない。
意を決してカラカラに乾いた喉から必死で声を絞り出そうとした幸丸の眼の前で、けれど、兼元の顔がぐにゃりと歪み、今度は多江の顔が幸丸を見下ろした。
「幸丸様、どうして藤島の御屋敷から逃げ出したのですか?私を置いて自分だけ逃げ出すなんて、卑怯だとは思わないのですか?」
「多江…」
「確かに、お姉ちゃんを殺したのは私です。だけど、あなただってお姉ちゃんを殺したい程に憎んでいた筈。私はあなたの代わりにお姉ちゃんを殺してあげたんですよ?…そう、あなたの代わりに。」
「…っ!!違うっ!私は母上を殺したいとは思ってはいない!そんな事、望んではいなかった!」
「でも、憎んでいたのでしょう?浅はかで、自分勝手な愚かな母親を。」
「それは…っ!」
幸丸は多江の言葉を否定出来なかった。
自分の出自を疑い、それが杞憂では無かった事を知った時の絶望を思い出す。そうして、その時、母親に抱いた感情は、多江の言う通り憎しみの感情だった。
幸丸が必死に隠しておきたかったそれは、しかし、殺意では決して無かったのに…多江の瞳を見ていると何が本当なのか分からなくなってくる。
「おまえは嘘つきの卑怯者だ。」
「ええ、自分だけ逃げるなんて、本当に卑怯だわ!」
兼元と多江の幸丸を責める声が木霊する。
布団の上で目を固く閉じ、両手で必死に耳を塞ぐも、その声は消えてくれず。
「私は…私は…っ」
眦から涙が溢れた時、そっと誰かが幸丸の頬を伝う雫を拭ってくれたのを感じた。
その誰かの手は母の柔らかな手と違い、暖かであるが硬い掌で…
「…紅緒?」
うっすらと開けた瞳の先に、燃える様な赤い髪の妻が、優しく幸丸に触れていた。




