クチナシと金平糖(一)
十六話直後のお話。
以降、幸也と紅緒のそれからを月日を順に書いて行こうと思います。
紅緒と名付けた妻の手を取り、光り輝く界渡りの門を潜った先で幸丸が最初に見た物は、クチナシの白い花だった。
先程までは燃える様な紅葉の中、宵闇には丸い月がくっきりと浮かんでいたと言うのに、気が付けば空は雨が降っているものの、どうやら昼間の様子。
鬼界と言うものは、確かにあちらとは別の世にあるのだと、柔らかく降る雨に肩を濡らしながら幸丸はそんな事をぼんやりと考えていた。
「ほら、坊、いつまでもここに突っ立っていちゃ、雨に濡れて風邪を引いちまうよ。家に入ろう。」
紅緒が眉を顰めて幸丸を促したのを、未だ現実感の無い幸丸は、妻の手に引かれるままに目の前の屋敷の中へと連れ込まれる。
どうやら、ここが紅緒の持ち家らしい。
二階建てのその家は広く、居間に通された幸丸は所在無さげに立ち尽くしたのだが、直ぐに紅緒が手拭いを持って来て、幸丸の濡れた髪を丁寧に拭いて行く。
されるがままになっていた幸丸だが、紅緒の髪こそが濡れている事に気付き、慌てて彼女の手を掴むとその手を止めさせた。
「何だい?まだ濡れてるよ。」
「違う、そうじゃなくて…私の事は良いから、あなたこそ髪を拭かなければ、風邪を引いてしまう。」
「そんなにやわな体じゃないんだけどね。」
「そう言う問題では無い。」
幸丸は紅緒の手から手拭いを奪うと、それを彼女の髪へと向けた。
炎の様に真っ赤な髪が、雨に濡れてしっとりと冷たく幸丸の手に触れる。
幸丸は丁寧に水気を拭きとりながら、躊躇い勝ちに紅緒に問い掛けた。
「…見た処、誰も居ない様だが、御両親は留守なのだろうか?」
「ん?ああ、父者と母者かい?この家は元々は祖父母の持ち家でね、祖父母が亡くなってからは、私が継いで今は独りで暮らしてるんだ。両親は近くに住んでるから、その内、紹介するよ。」
そう言うと紅緒は再び幸丸から手拭いを奪うと、今度は幸丸の髪を拭った。
「…まだ、拭き終わって無いのだが。」
「私なら、もう大丈夫さ。それより、坊の方が濡れてるよ…人の身から鬼人に変化して、界渡りをしたばっかりだし、自分じゃ気付いて無いかも知れないけど、随分と精神と体に負荷が掛かってる筈だ。髪を拭いたら直ぐに風呂を沸かしてあげるから、体を温めたら、今日は直ぐに休むと良いよ。」
「鬼人に変化?」
首を捻った幸丸に、紅緒はその手を取ると、彼の頭へと導いた。
そうして手に触れたそれに、幸丸の動きが止まる。
紅緒はそれを見て、そっと立ち上がると隣の部屋から手鏡を持って来て、幸丸に渡してやった。
手鏡に映った幸丸の頭には白銀の角が二本生えていて、両耳は天を向く様に尖っていた。
更に目を瞠ったその色は、紅緒と揃いの黄金色だ。
見慣れた自分の顔の筈が、すっかり見慣れない色と形に変っていた。
「…私に真名を与えて、こちらに来ると承諾した時にはその姿に変わっていたよ。界渡りの門は鬼人にしか潜れないからね。」
「…そうなのか。」
「まあ、鬼に変化したと言っても、元が人間の坊には妖力は無い。寿命がちょいと長くなった程度で、それ程、人間と変わらないから安心しなよ。」
手鏡から顔を外さない幸丸に、やはり人とは違う異形そのものに変化した事は衝撃だったのだろうと、紅緒が慰める様に言った。
「…こちらに来ると決めた時に、覚悟は出来ていた。ただ、少し、驚いただけだ。」
幸丸はそう言うと、手鏡から顔を上げて紅緒を見上げた。
「それより、寿命が長くなったと言うのは?」
「ああ、それも含めて後でゆっくり教えてあげるよ。でも、今は駄目。先ずは風呂に入らなくちゃね。」
紅緒がそう言って立ち上がったのに、追う様にした幸丸を手で制し、
「いいから、そこで待ってな。勝手の分からない家で、手伝いも無いだろう?今は客だと思って、寛いでおくれ。」
柔らかく笑うと、廊下の向こうへと歩いて行った。
幸丸は紅緒が見えなくなった廊下を暫く見つめていたが、再び手鏡に映る自分の姿を見下ろした。
紅緒は気にしていた様だが、彼女が思う程には衝撃を受けた訳でも無く、この姿に嫌悪感を抱く事も無かった。
寧ろ、素直に受け入れる事の出来た自分に驚いている。
勿論、見知った自分とは違う容姿になっているのだから、当然、違和感はあるが、きっと、それもその内慣れるだろう。
程なくして戻って来た紅緒の手には、男物の着物が乗せられていた。
「弟が坊位の年に着てた着物だけど、大きさは多分大丈夫だと思うから、風呂から上がったらこれを着ると良いよ。」
「…弟と言うのは、」
「ああ、例の東山のあざみ野原の鬼のことだよ。」
紅緒が「ふふふ」と笑って答えると、幸丸は何と言って良いのか分からずに眉根を寄せた。
昔話として伝えられていた人食い鬼が、まさか妻の弟であったとは…
紅緒の人為りを知った今だからこそ、それが誤って伝えられただろう事は分かったが、何があればそこまで間違って伝えられたのだろう。
「弟は、ここから山を五つ超えた海の見える嘉雁村って処に住んでるんだ。年に一度は里帰りしてるけど、ついこの間、赤子が産まれたばかりだから、暫くは帰る予定は無いだろうねえ。」
「そうなのか。」
「ふふ、弟は双子でね、お嫁さんも双子だよ。」
紅緒の言葉に「ああ、そうなのか」と幸丸は思った。
京から攫って来た双子の姫と言うのが、彼らの妻なのだろう。
そうして、こちらへ連れて来た事から、あの昔話が生まれたのか。
「坊も、何れ、あっちの世では、悪~い鬼に攫われた可哀そうな旗本の若君って昔話にされるかも知れないねえ。」
けらけらと笑った紅緒に「それは笑えない話だ」と幸丸は顔を顰めた。
「…ふふっ、そろそろ風呂が沸く頃合いだね。案内するからついといで。」
「私より、先ずはあなたが入るべきだろう。」
「私は後で良いよ。」
「いや、駄目だ。あなたが先に入りなさい。」
幸丸が頑なに固辞するのを、紅緒はやれやれと言った風に肩を竦め、
「だったら、一緒に入るかい?ああ、夫婦なんだし、それも良いか。ねえ、旦那様?」
黄金色の瞳を細めて、そう言った。
幸丸は絶句し、見る見る内に全身を赤くすると「分かった、先に入る」とだけ告げて、大人しく紅緒の後に続く。
そんな幸丸の様子に紅緒は含み笑いを漏らしていたが、幸丸は最後までだんまりを決め込んだ。
一緒に入るのは論外としても、このまま紅緒を先に入らせたとしたら、その後、自分が入っている処に乱入されかねない。
揶揄われている事は充分承知の上で、紅緒ならやりかねないと、短い間ながらに彼女の性格を幸丸はしっかりと把握していた。
案内されて入った浴場は広く、幸丸はゆったりと湯に浸かる事が出来た。
紅緒に早く入って貰う為にも、直ぐに出ようと思っていたが、当の本人に「早目に出たら、次に風呂に入る時は一緒だからね?」と脅されてしまった。
仕方なく、足を伸ばして湯船に入る事にしたが、少し熱めの湯が体を芯から温め、幸丸はほっと一息ついた。
今日は色々な事があり過ぎた。
考える事も多いが、こう考える事ばかりだと、纏まるものも纏まりそうに無い。
「…私の事を誰も知らない遠く、か…」
ぱしゃんと湯船で顔を洗って、幸丸は風呂から上がると、紅緒の用意した着物に袖を通して居間へと戻った。
「おや、もう上がったのかい?もう少し、ゆっくりしてても良かったのに。」
「いや、充分だ。ありがとう。」
手拭いで首筋を拭きながら、幸丸は用意された座布団の上に座ると紅緒に早く風呂へ入る様に告げた。
紅緒は苦笑いしつつ「隣の部屋に布団を敷いておいたから、休みたかったら先に休んでおくれ。」と言って、幸丸の額を一つ小突いてから風呂場へと向かって行った。
幸丸は小突かれた額を擦りながら、台の上に置かれた金平糖に気が付いた。
先程まで無かった色鮮やかなそれは、皿の上にコロリと置かれて幸丸を見上げている。
小腹の空いた紅緒が幸丸を待っている間に、金平糖を摘まんでいる様子がありありと目に浮かび、幸丸はそっと口元を上げて笑った。