終
「幸也さん、お疲れ様。今日はもう、上がって良いよ。これは、奥さんにお土産。持って帰って一緒に食べるといいよ。」
小太りの店主がニコニコと笑って幸也に菓子の入った包みを持たせた。
幸也は腕まくりした袖を直して礼を言ってから、仕事先である菓子屋を出て家路に向かう。
幸也の背に夕焼けが当たり、長く伸びた影の頭には二本の角が形を作っていて、幸也が鬼へと変わった事を教えてくれる。
鬼界へ来てから約三年、幸也は十八になっていた。
こちらに来て直ぐに十五になった幸丸に付けられた名前、
それが「幸也」である。
代り映えのしないその名を聞いて、不満顔の幸也に妻が笑って言った言葉は、今でも鮮明に覚えている。
「『幸』と言う字は良い字じゃないか。捨ててしまうのは勿体ないよ。これから先、ずっと私と幸せになるんだ。『しあわせなり』で幸也。どうだい?良い名だと思わないかい?」
幸也の妻はあの日の宣言通り、ずっと幸也を甘やかしてくれた。
それが心地良いと思ったのが一年目、もどかしく思い始めたのが二年目、そして三年目が過ぎた今では、自分こそが妻を甘やかしたいと思っている。
仕事先に菓子屋を選んだのは、母の生家が菓子屋だったからでは無い。
菓子好きの妻の為に幸也が選んだ職だった。
もっとも、母を菓子で殺されたのに、その職を選んだ幸也に妻は首を傾げ、心配そうにしていたけれど。
きっと、あの頃、美味そうに菓子を頬張る妻の姿に文句を言いつつ、幸丸の心は慰められていたから。
今では幸也にも、義父が義母の食べる姿に惚れたと言うのも分かる気がした。
「おう、幸也じゃねえか、今日は早上がりかい?」
花屋の前で、法月の三鬼に呼び止められた。
彼はその名の通り、この花屋の三男坊で、三男ながらも跡取りとして立派に店を切り盛りしている。
三鬼の両親が「早く可愛い嫁を貰って来い」と嗾けている姿を何度か見るが、本人はそれをのらりくらりと躱している様だった。
「三鬼さん、丁度良かった。花を幾つか見繕ってくれないか。妻に持って帰りたいんだ。」
「あ~…今日もおまえさん達は、お熱いねえ。良いよ、綺麗な花束を作ってやるよ。」
「ありがとう。」
「その笑顔、独り身には眩しすぎる」等とブツブツ文句を言いながらも、三鬼の手から綺麗な花束が幸也の手に渡される。
幸也は礼を言って代金を渡すと、土産の菓子と花束を持って家路を急いだ。
「紅緒、ただいま。」
玄関を開け、帰宅の旨を告げる幸也に、妻からの返事は無い。
今日は特に外出の予定も無かった筈だと、訝しく思いつつ廊下を歩き、居間を通って縁側を覗いて見る。果たして彼の妻である紅緒が肌掛けを被り、柱を背にして眠っていた。
「こら、起きなさい。こんな所で寝ていると体が冷えてしまうよ。」
幸也は紅緒の肩を揺すって目覚めを促した。
「ううん…あら?旦那様、いつお帰りに?」
眠気眼の紅緒は幸也を見つけると、フワリと笑った。
あどけない顔に毒気を抜かれそうになるのを堪えて、幸也はしっかりと妻を窘める。
「眠るならきちんと布団の中で眠りなさい。ほら、こんなに肩が冷えているじゃないか。」
冷たくなった肩を抱き、肌掛けの上から紅緒の丸くなった腹を撫でた。
丸くなったと言っても、当然、菓子を食べ過ぎて太った訳では無い。
腹に当てた掌に、中から微かな振動が伝わって、幸也の顔は自然に笑みの形を作っていた。
そんな幸也の顔を見て、紅緒の顔にも笑みが浮かぶ。
「今日は天気が良くて日向ぼっこ日和だったろう?そしたら、庭の楓がすっかり色付いてるのに気が付いてね、幸也と初めて会った時の事を思い出してたんだ。その内、眠たくなって、そのままうっかり眠ってしまったみたいだねえ。」
紅緒が庭の紅葉を指して言った。
釣られる様にして幸也も赤く染まった庭を眺めた。
風に吹かれた楓の葉がハラハラと舞って、二人が出会った時の記憶が蘇る。
「ねえ、旦那様、貴方は今幸せかしら?」
小首を傾げて尋ねた妻に、幸也はその燃える様な赤い髪を梳くと、花束と土産の菓子を渡して答えるのだった。