十六話
「母上は美しく、優しい人だった…けれど、愚かな人でもあったんだ。」
あれは熱い夏の日の事だった。
庭で行水をしていた幸丸に、お美代自らが手拭いを渡した時に呟いたのだ。
「あら、胸元にある黒子が、御父上と御揃いね。」
手拭いを渡したお美代は「ここは暑いわね」と言って、呆然と立ち尽くした息子に気付かず、直ぐに部屋へと戻って行った。
幸丸は聞き間違いだと思った。けれど、頭にこびりついた母の言葉は消えてくれず。
あんなに暑かった幸丸の体は、急にガタガタと震え始めた。
「母上は一体何を仰っているのだろうと思ったよ。胸元の黒子が父上とお揃い?そんな筈無い。父上の胸元には黒子なんて無いのだから。」
幸丸は必死で母の言葉を忘れ様とした。
そして、藤島家の息子として恥ずかしく無い様に、学問に剣術にと励み続けた。
けれど、そうやって優秀だと褒められる幸丸を見て嬉しそうに笑う兼元に接する度に、自分の足元がグラグラと揺れて、罪悪感で胸が締め付けられる気持ちになって…
それでも、この時はまだ母を信じていた。
母が父を裏切る筈は無いと、強く祈る様にして、信じていたのだ。
それがどれ程に愚かな事であったか知るのは、東山の屋敷へ母と共に身を隠した時だった…
元々東山の屋敷は、木村の伝手を頼りにした場所である。
幸丸とお美代が屋敷を訪れた日、木村もここに来ており、何かと段取りもあると言う事で、その晩は屋敷に泊まる手筈になっていた。
幸丸とお美代の部屋は奥の座敷に用意され、朝から気を張っていた二人は早々に就寝したのだが…。
夜も更けた頃、幸丸は小用を覚えて目を覚ました。
隣の布団を見ると、一緒に眠った筈の母親がいない。
訝しく思いつつも、一人で厠へ続く廊下を歩いていた幸丸は、途中、灯りが漏れた部屋から母と木村の話声が聞こえたのに足を止めた。
何を話しているのかは分からない。
しかし、母親が楽し気に笑っているのが分かり、幸丸は見ては必ず後悔すると分かっていても、そっとその部屋の障子を開けて中を覗き見てしまった。
「まさか、母上と木村の情事を見る羽目になるとはな…その上、母上を組み敷いた裸の木村の胸には黒子があったんだ。」
木村とお美代の関係は、兼元の手が付いた同時期から始まっていた。
お美代の美しさに目を止めたのは、何も兼元だけでは無かったのだ。
木村もまた、お美代の美しさの虜となり、加代を通じてお美代と東山の屋敷でも密会を続けていた。
だから、加代にはその事を告げて幸丸に協力させたのである。
「加代も木村も、私が不義の子であるとは思っていなかったみたいだが、それでも父上を欺いていた事には変わらない。…いや、真実を知っていながら、兼元様を父と呼ぶ私の方がきっと二人よりも罪深いな。」
そう、家督争い等、初めから無かったのだ。
庶子の子であると言う以前に、幸丸と兼元に血は繋がっていない。
だから、東山の屋敷で母が殺害されたのを見て、犯人を捜し告発した上で、愚かな自分の罪も吐き出そうと思っていた。
「…多江は、憎しみや怒りを隠したくて隠していた訳では無いと言っていたが、私は私の中にあったそれを、隠しておけるものならば、ずっと隠しておきたかったんだ。」
自分の出自を隠しておきたかったのでは無い。
美しく、優しかった母…
けれど、愚かで、浅はかな母の事をきっと誰よりも憎んでしまったのは、幸丸だったろう。そんな母を憎む自身の心を幸丸は隠しておきたかったのだ。
幸丸の目から涙がほろほろと零れて行った。
赤い鬼は幸丸をそっと抱き締め、頭を撫ぜてやりながら言った。
「ここで、坊を初めて見た時に声を掛けたのはね、あまりに坊の顔がしんどそうだったから、私がこの子を甘やかしてやろうって思ったからなんだ。」
「…やはり、私は子供に見えるか」
胸元で涙を流しながらも剥れた幸丸に、クスクスと笑って赤い鬼は頷いた。
「坊、私に名前を付けておくれよ。」
「名前?それが貴女の望みなのか?」
「そうだねえ、正確に言えば、私の旦那様にならないかい?ってところかねえ。」
「なっ!?」
驚きのあまり、幸丸は自分を抱き締める赤い鬼の腕から逃れて目を剝いた。
そして、言葉の意味を理解する内に、その顔はどんどんと色を変え、赤く染まって行く。
「あらあら、こりゃあ、見事に茹でダコだねえ。」
「あ、貴女が急におかしな事を言うからだろう!…ほ、本気なのか?」
「勿論だよ。」
赤い鬼は黄金色の目を細めて頷き、何故自分がこの人間が住む世界へ来たのか、鬼の婚姻にまつわる話を幸丸に語り聞かせた。
鬼が自分の住む鬼界から門を潜り、人間の世界へ渡って来るのは、夫問いの為であり、その生涯で門を往来する事が出来るのは一回限りの事。
門を渡った先で伴侶と決めた者から名を与えられると、それが真名となり婚姻が結ばれる。
その後、再び伴侶を連れて門を渡り二人で鬼界で暮らすか、残って人間界で暮らすのか選択する事が出来るのだが、その場合、鬼界に人間が渡れば鬼へ、人間界に鬼が残れば人間へと体が造り変わり、寿命もそれに応じたものになる。
鬼の婚姻とは、やはり人間のそれとは遠く離れたものだった。
「私にもね、親の決めた二鬼と言う仮の名前ならあるんだよ。鏑鬼が氏の様なもので、その家から生まれた二人目の子だから、鏑鬼の二鬼、それが今の私の名前。仮の名は何れ呼ばれなくなるから、何処の家も大概、長子には一鬼と名付け、あとは順に名前が決まって行くもんなんだ。まあ、おかげで未婚の連中は同じ名前の奴らばかりになるからね、それを区別するのに、氏と合わせて呼ばれるものだけど。」
「…それで、私が貴女に名を付ければ、あ、貴女と私は…め、夫婦になる、のか?貴女は私の事等、子供としか思っていないだろうに。」
動揺しつつも、幸丸は赤い鬼の本心を探る様に、その黄金色を見つめた。
「私が鬼界の門を潜る時にね、決めた事があったんだ。門を渡った先で、偽り無き姿のまま最初に声を掛けた男を旦那様にしようってさ。確かに、坊を男として見てるかって言われたら困るんだけど、それでも、坊をこの先もずっと甘やかしてやりたいと思っちまったからねえ。ずっと一緒にいるなら、旦那様になって貰うのが一番だろう?」
赤い鬼は赤くなった幸丸の頬を撫でて片目を瞑る。
それが本心なのか、それとも幸丸を哀れに思って情けを掛けたのか分からない。
けれど、幸丸の心は決まった。いや、初めから決めていたのだ。
「『ここから離れた、私の事を誰も知らない遠くへ行きたい』…確かに、鬼界とやらは、ここより遥か遠く、私を知る者もいないのだろうな。」
幸丸の望みと赤い鬼の望みが一致した。
けれど、幸丸には一つだけ不満がある。
「この先ずっと一緒にいるのなら、いい加減に私を坊と呼ぶのを止めてくれないか。」
「あら?では、旦那様と御呼び致しましょうか?」
赤い鬼が幸丸の腕を絡めて耳元で囁くと、幸丸は赤い顔のまま嫌そうに顔を顰めた。揶揄い過ぎたかと内心で反省しつつ、以前から思っていた事を口にする。
「じゃあ、坊が十五歳になった時、私が諱を付けてあげる。それまでは、坊は坊のまま。どうだい?」
「貴女が私の諱を付けるのか?」
「坊だって私の真名を付けるんだから、これでお相子だろう?」
赤い鬼が「ふふふ」といつもの様に笑う。
幸丸には何がお相子なのかさっぱり分からないけれど、それはとても名案な気がして、十五になるのが楽しみだと思った。
自分達のこの関係は、今はまだ「婚姻」と呼べるものでは無いだろう。
けれど、幸丸にはこの先の予感が確かにあった。
「では、貴女に名を与えよう、貴女の名は―…」
燃える様な紅葉の中、告げられた名に微笑んだ赤い鬼を、月と幸丸だけが見ていた。