十三話
多江とお美代は二つ離れた姉妹だった。
大店泉屋の長女として産まれたお美代は、それは昔から美しい子供で、そんなお美代を両親は目に入れても痛くない程に可愛がっていた。
一方、多江が可愛がられていなかったかと言えば、そうでは無かったが、それでも、何かと贔屓されるのはお美代であり、比べられて落とされるのは必ず多江であった。
そんな多江に対して、お美代は器量の良くない妹を貶める事も無く、何かと言っては可愛がっていたのだが、それを見る大人達は妹を可愛がるお美代を優しく、気立ての良い娘だと言って更に可愛がる様になり、ますます多江の立場は無くなっていた。
小さな多江の中で不満がどんどんと募って行く。
けれど、そんな不満を口にしようものなら、途端に多江は悪者扱いだ。
幼心にもそれが分かっていたので、多江はにこにこと笑って、お美代の好きな様にさせていた。
当然、周りからは仲の良い姉妹だと思われる様になっていたのだが、多江にはそれに違和感を感じざるを得なかった。
そんな姉妹は成長し、やがてお美代は十四歳で泉屋を出て藤島家に奉公へ上がる事となった。
直ぐにお美代の美しさが当主の兼元の目に留まり、側室へと召し上げられる事が決まると、泉屋では「流石お美代」だと大騒ぎになった。
両親も兄も喜んだ。勿論、多江も喜んだ。
側室となった姉は、もう二度と泉屋に戻って来ない。
それだけで、多江は安心し、やっと姉を心から祝福出来る様になったのである。
そうして年頃になった多江は恋をした。
手代の留吉は多江に優しく、耳障りの良い甘い言葉を惜しむ事無く囁いてくれるし、お美代と多江を比べたりもしなかった。
多江にそんな事をしてくれたのは、留吉が初めてだったのだ。
留吉に取っては、奉公先の娘だから無下にも出来なかったのかも知れないが、多江はそれでも構わなかった。
新兵衛から口利きして貰い、暖簾分けの話を餌にしてでも多江は留吉と夫婦になりたかった。
だから、留吉がこれに頷いたのを、天にも昇る気持ちで受け止めたのに…
ある日、泉屋の敷地にある落雁作りの工房で、職人と留吉が何やら楽し気に話をしているのを見掛けた。
多江はこっそりと近付いて、留吉が何を喋っているのか聞き耳を立てた。
留吉があまりにも楽しそうだったから、その口で多江の話をしているのでは無いかと期待して。
身を隠す多江の胸は幸せに満ちて高鳴っていた。
「…それにしても、留吉さんは上手い事やりましたね。もう直ぐ、多江お嬢さんと祝言でしょう?そうしたら、自分の店を持ちなさるとくりゃ、この先、楽しみで仕方無いでしょうね。」
「ああ、そうだね。だけど、相手が多江お嬢さんなのがね。お美代様の様に美しい女だったら、夫婦の事も倍に楽しめたんだけどねえ。」
「ははは、悪い御人だ。そんな事言っちゃ、多江お嬢さんが不憫ですよ。…だけど、確かにお美代様と比べると多江お嬢さんは地味だからなあ。」
「そうだろう?まあ、多江お嬢さんは私にとことん惚れてるからね。扱いやすい女ではあるかな。」
二人の話はまだ続いていたが、多江はその場に居る事に耐えられず、気付かれない様にしてその場を去った。
確かに留吉は多江の事を話していた。
留吉に悪気は無いのだろう。ただの軽口で、人によっては祝言を前にして惚気ている様にも聞こえたかも知れない。
けれど…
けれど、それは、多江に取って決して言ってはならない言葉だった。
―結局、お姉ちゃんが生きている限り、これからもずっと比べられるんだ…っ
心の中で幼い多江が泣いていた。
我慢して、我慢して、ずっと我慢して来たのに、それも全部無駄な事だったかと思えると、今度は何もかもが馬鹿々々しくなって、多江は笑いが止まらなくなった。
―もう良い、もう充分私は我慢した。だから、我慢するのは止めよう。
この時、多江はお美代を殺害する事を決意した。
直ぐに、お美代が側室になる前に、父親の遣いで薬種問屋の近江屋で薬を取りに行った事を思い出す。
近江屋は評判の良い薬種問屋であったが、人通りの少ない道に店を構えており、店に入ると直ぐに薬を仕舞う百目箪笥が置かれている。
多江は新兵衛を口実にして近江屋へ向かうと、扱っている薬の話を聞きながら、それとなく毒草の取り扱いも聞いてみた。
毒草は取り扱いによっては薬にもなる物もたくさんある事と、まさか大店のお嬢さんが物騒な事を考えているとも思わず、近江屋の主は何の疑問も持たずに店で取り扱っている様々な薬草と毒草の事を教えてくれた。
それから暫くして、お美代が東山の御屋敷に身を隠す事になったと父親から聞かされた多江は、これを好機と見て近江屋の裏手に火を点けた。
炎に気付いた誰かが「火事だ!」と声を荒げて騒いでいる。
慌てた近江屋の店の者達が、次々と店から飛び出して来るのを確認し、無人の店内に入ると、多江は目当てのトリカブトを盗む事に成功した。
多江は待った。
その時を待っていた。
そして、多江の思惑通り、隠れ家生活に飽きたお美代が無理を言って両親の訪問を強請っている事を聞きつけた。
姉の危機感の無さと、甘え上手な処は相変わらずだ。
多江はその晩、工房に忍び込むと梅の花の木型でトリカブト入りの落雁を作り、木型ごと自室に持ち帰った。
あとは、毒入りの落雁を持って、母と一緒に東山の屋敷に同行するだけ。
お美代は母親と多江を見ると大層喜び、息子の幸丸と一緒に茶で持て成してくれた。
菓子箱を開けたお美代が、直ぐに真ん中の梅の花の落雁を手に取った事に、多江は思わず笑い出しそうになった。
茶を飲みながら、お美代が落雁を口にするのを今か今かと待っていた。
お美代の赤い唇の中に、小さな梅の花がするりと入った。
途端に苦しみ始めたお美代は嘔吐し、その美しい口元を汚して行く。
お美代は息をするのも苦しいのだろう、必死で喉を掻きむしり、首には爪の痕から血が滲み始めた。
母親のおしんが慌ててお美代に駆け寄り、必死で「誰か!誰か来て頂戴!」と助けを呼んでいる。
おしんが踏みつけた茶器は割れ、折角持って来た落雁も畳の上に散乱していた。
多江は苦しむ姉を前に、きっと自分は笑うのだろうと思っていた。
惨めに死んで行く姉を見て、笑い出さない様に気を付けようと思っていた。
けれど、あまりに長い間自分の感情を殺していた為だろうか、多江は苦しむ姉の姿を見ても、感情の見えない能面の様な顔を張り付けるだけだった。
勿論、それは瞬時に隠し、姉を心配する心優しいいつもの妹の姿を装ったのだけれど。
この時になって、多江は気付いたのである。
我慢しないと言う事が、自分に取って酷く難しい事であるのだと。