十二話
木村が加代宅を訪ねた一刻程前に、多江は幸丸の元へと帰っていた。
奉行所の取り調べで留吉の死は自殺として扱われ、多江は直ぐに放免される事となった。
新兵衛達は多江に療養を勧めたが、幸丸が心配であるのと、留吉の死んだ家では心が落ち着かないと言う多江のもっともな言葉に、不承不承に納得して藤島邸へと送り出したのである。
「多江、無理はするものじゃない。」
屋敷に帰って来た多江を見て、幸丸は眉間に皺を寄せた。
あんな事があったのだ、多江が暫く療養したいと申し出たとしても何もおかしくないと幸丸は思っていた。
それなのに、多江は不在にしていた事を詫びると、直ぐにでも働きたいと申し出ている。献身ここに極まりの態だ。
「いいえ、幸丸様の御側で働いている方が気が紛れますから…」
殊勝にそう行った多江を自室へ促し、幸丸はそんな多江を労った。
「私の様な者に、そこまで尽くしてくれるとは、多江には本当に感謝している。」
「とんでもございません。私が好きで幸丸様に仕えると決めた事ですから。」
「…そうか、ありがとう。だが、疲れた時は甘い物を食べるのが一番だろう?おまえと一緒に食べようと思って、菓子を買っているんだ。今から一緒にどうだろう?」
いつかの遣り取りの再現に、多江の顔は綻んだ。
「ありがとうございます。では、僭越ながらご相伴にあずからせて頂きます。」
多江が仰々しく言ってのけたのを二人で笑って、幸丸は両手を打った。
「藤乃、多江に菓子を持って来てくれ。」
「え…?」
幸丸の言葉に驚いた多江の目の前で、隣室の襖が開き、中から両手で泉屋の菓子箱を持った藤乃が現れる。
藤乃は多江を見るとにこりと笑って、幸丸と多江の間に菓子箱を置いた。
「何故、藤乃様が…」
狼狽し、幸丸と藤乃を交互に見やる多江に、幸丸は何でも無い事の様に告げた。
「昨日、藤乃には無理を言って私の遣いで泉屋に行って貰っていたんだ。私達が菊屋に入る留吉と藤乃を見掛けたのは、その帰りだった。藤乃は千代様の御遣いで頻繁に泉屋を訪ねているから、泉屋自慢の落雁について留吉に色々と教えて貰いたい事があって、菊屋に誘ったそうだ。」
「…っそれなら!何もわざわざ留吉さんに尋ねなくても良かったではありませんか!泉屋の事なら、娘である私の方が何でも分かっているのに!」
多江が怒るのも無理の無い話である。
元とは言え許嫁であった留吉が、幸丸の敵か味方かも分からぬ鼻持ちならない侍女と二人きりで会っていたのだ、そんな場面を見て多江がどう思ったか、幸丸には分からないのだろうか。
「多江が素直に教えてくれるとは思えなかったんだ。」
「…どういう意味ですか?」
幸丸は藤乃に目をやって、多江の目の前で菓子箱を開けてみせた。
菓子箱の形から、その中身が落雁である事が分かっていた多江だったが、箱の中に並んだ落雁を見て息を止めた。
綺麗に並べられた落雁は二十五個。
宝尽くしや、鳥の形をしたそれが周囲に二十四置かれている。
そうして、中央に置かれた落雁は…
「佐々木が叔父上と留吉が言い争うのを目撃した時、叔父上は留吉に『大事な商売道具を盗まれた』事を叱っていたそうだ。留吉が任されていたのは落雁作りの工房だったのだろう?母上が死んでから、泉屋に並ぶ落雁の型が暫くの間、一つ足りなくなっていたのは、千代様の遣いで訪れた藤乃が見て確認している。その落雁は、母上の好んだ梅の花の形をした落雁だ。…留吉が盗まれた大事な商売道具は、落雁用の梅の花の木型だった。…そうだろう?多江。」
菓子箱の中央に置かれたのは、梅の花を象った落雁が一つ。
箱の中にあった落雁で花の形はそれだけだった。
「お祖父様の薬を取りに行くのに、留吉の名が上がっていたが、近江屋に行っていたのは、何も留吉に限らず、店の者ならちょっとした遣いで誰でも行っていたそうだな。…勿論、多江、おまえもだろう?」
何も答えない多江を見ながら、幸丸は続ける。
「東山の屋敷でお祖母様が持って来て下さった落雁は、これと全く同じ物。
勿論、中身も同じ物を用意している。…多江、お前はこの梅の花の落雁を食べる事が出来るか?」
「…」
「あの日、箱の中身を選んだのは多江、おまえだと聞いている。…おまえは以前、言っていたな、母上が好きなのは梅の花の形をした落雁だと。おまえは、母上が必ずこの梅の花の落雁を選ぶ事が分かっていた。だから、盗んだ梅の花の木型でトリカブト入りの落雁を作り、それを東山の屋敷へ土産として持って来た。…母上を殺害する為に。」
唇を噛み締めて幸丸が言った。
その顔は、込み上がって来る何かを必死で抑えようと、努めて冷静を装う痛々しいものだった。
だが、それでも無言を貫く多江に、幸丸がとうとう声を上げた。
「どうして、…どうしてですか!?叔母上!」
多江とお美代は仲の良い姉妹と言われていた。
多江はお美代に比べて地味ではあるが、心根の優しい娘で、事実、姉の忘れ形見である幸丸にも親身になって世話をしてくれて…
それが、全くの偽りだったのだろうか?
自分が殺した姉の子供の世話を焼いたのも、幸丸を隠れ蓑にするつもりだったのだろうか?
「…姉を殺したのが私であると、いつから気付いていらっしゃったのですか?」
漸く返事を返した多江の顔に表情は無かった。
幸丸が、そんな顔の多江を見たのは、これで三度目である。
それは昨日、菊屋に留吉と藤乃が入って行った時に見せた顔であり、そしてその顔を最初に見たのは…
「…初めは私も千代様を疑っていたのです。あの方には母上を殺す動機があるから。けれど、よくよく考えてみると、それもおかしな話だと思いました。」
「何故ですか?千代様は姉の事が憎かった筈です。兼元様の御寵愛を一身に受け、まんまと側室に納まった姉を殺してしまいたいと思った筈です。」
「そうですね、きっと憎んでいたと思います。ですが、あの方は一松様が大事であり、御家が大事な方なのです。一松様に家督を継がせる事が何より大事なあの方が、自分の憎しみの為だけに恋敵を殺すとは思えない。殺すならまず私からでしょう。だから、初めは、千代様に頼まれた間抜けな誰かが私と間違って母上を殺したのだと思っていたのですよ。」
あの時は自分こそが狙われていたのだと、幸丸は信じて疑いもしなかった。
母は自分のせいで死んだのだ。
だから犯人を捜して、家督争いを続ける愚かな輩に幸丸の罪と共に、言ってやりたい事があったのに…
「藤乃に調べさせたりして、泉屋や近江屋の事が次第に分かって来た時に、少し疑問に思う様になったのです。そして、確信したのは昨日の事。菊屋に入って行く二人を見ていた時の顔と、母上がトリカブトの毒で苦しんでいるのを見ていた時の叔母上の顔が一緒だったのです。…勿論、母上の時は一瞬の出来事で、私も見間違いだと思いました。私もあの時は相当混乱していたから。だけど、そうでは無かった。…叔母上、貴女の身の内に巣食っているそれは、今はもう、どんなに隠しても隠しきれない処まで来ているのですよ。」
幸丸の悲痛な声をしても、多江の表情は変わらない。
けれど、その変わらない表情のままに、多江は訥々と自分と姉の事、そして留吉の事を語り始めた。