十話
幸丸が通う学問所の途中に、菊屋と言う茶店があった。
その日、多江と佐々木を連れて、幸丸がいつもの様に学問所へ歩いていると、菊屋の暖簾を潜ろうとする藤乃と泉屋の手代である留吉を見掛けた。
先に気付いたのは佐々木であったが、立ち止まった佐々木を訝し気に見た多江と幸丸も二人を認めると思わず足を止めた。
「どうして藤乃様と留吉が…」
目を見開き、唇を震わせた多江がこぼしたのを、佐々木は心配そうに見つめている。
ふと、藤乃の顔がこちらを向いた。
そうして、それに釣られる様にして留吉の視線が多江を捉えた。
留吉と多江は、お美代の件が無ければ夫婦になっていた間柄である。
現在、その話は泉屋の当主である新兵衛により破談となり、幸丸の侍女となった多江も己の決意が揺らがぬ様にか、留吉と充分な話し合いをせずに今日に至っている。
留吉は多江に気が付くと直ぐに駆け寄り、多江が逃げ出す前にその腕を取った。
多江は慌てて袖を振ったが、留吉の握る力が増すばかりで、腕の痛みに眉を顰めた。
そんな多江の様子にも気付かず、留吉は目を血走らせて多江に迫っている。
「逃げないで下さい!多江お嬢さん、話を聞いて下さい!」
「おい、乱暴は止めろ」
すかさず佐々木が割って入ったが、多江が首を振ってそれを止めた。
そうして、菊屋の前で立つ藤乃に目をやり、留吉に尋ねた。
「藤乃様は良いの?」
「…でしたら、改めて私の話を聞いて下さい。明日、泉屋で待ってますから。」
「私にはあなたと話す事なんて何も無いわ。」
「でしたら…」
多江が断ると留吉は多江の耳元で何事かを囁き、「話を聞いて下さいますね?」と再度尋ねた。
そうして、多江の返事も待たずに留吉は菊屋の前で待つ藤乃の元へ戻ると、今度は振り返る事も無く暖簾を潜って店内へと入って行った。
遺された多江は呆然として、菊屋の店先を見ていたが、佐々木がそんな多江の背中を落ち着かせる様にそっと撫ぜてやると、幾分か正気に戻ったのだろう、「行きましょう」と言って、学問所へ続く道へと幸丸を促した。
そんな事があった翌日、多江は留吉の言う通りに泉屋へと戻っていた。
多江が店に入るなり、待ち構えた様にして留吉は多江を奥の部屋へと促した。
事前に今日の事を聞かされていた新兵衛親子は、物言いた気にそんな二人を見つめていたが、確かに、二人がじっくりと話をするのは必要な事だと納得もしていた。
多江が留吉と夫婦になる事を楽しみにしていたのは、つい最近の事だった。
多江は留吉を心から慕い、暖簾分けの話も実は多江から言い出した事である。
けれど、お美代が多江の目の前で殺された事が余程に辛かったのだろう、そうして、同じく側にいた甥の行く末を憂いて、多江は自らの幸福を投げ捨てて幸丸に仕える事を決めてしまった。
当初、新兵衛は多江の言葉を取り合わなかったのだが、婚姻が決まってからの留吉の怠慢な働きぶりと、やはり可哀そうな孫を思って、多江の願いを聞き届ける事にしたのである。
しかし、そうは言っても、多江の恋心は未だに留吉にある様に思えて、二人をそっとしておく事にしたのだが…
多江と留吉が部屋に篭って半刻もしない内に、多江の悲鳴が店まで聞こえた。
慌てて駆け付けた兄の時治郎と新兵衛が見たのは、嘔吐し、首に引っ搔き傷を作った血塗れの留吉の死体であった。
その横では多江が顔を白くして震えている。
時治郎が震える多江に、何があったのか問い質す中、新兵衛は留吉の死体に既視感を覚えて立ち尽くしていた。
それは、その死体が、あの日、東山の屋敷で見た娘の死体と全く同じものであったからだった。
「それで多江様は今日は泉屋に残って取り調べを受けてるって?」
落雁を摘まみながら赤い鬼が言った。
「ああ、先程遣いの者が来て、そう告げて帰って行ったな。」
幸丸は苦い顔をして溜息を吐いた。
そんな幸丸を気にする風でも無く、赤い鬼は落雁を食べ続けて言った。
「それにしても、随分と思い切った事をしなさったねえ。まさか、留吉がトリカブト入りの茶を飲んで自殺するとは。…多江様は疑われなかったのかい?」
「茶を煎れたのは下働きの女で、運んだのは留吉本人だったそうだ。それに、留吉の部屋からトリカブトが出て来たらしい。…近頃、留吉は誰が見ても、精神的に病んでいた様子だったし、当てつけに多江の目の前でトリカブトを飲んで自殺したんだろうと、遣いの者が言っていたな。」
「ふーん、お茶に入ったトリカブトねえ。」
「近江屋の顧客台帳には泉屋の名前もあっただろう?留吉もお祖父様の遣いでよく近江屋に薬を取りに行っていたそうだ。」
「あらまあ、それは偶然だねえ。ふふふ。」
赤い鬼は大袈裟に驚いてみせ、肩を竦めた。幸丸を見る黄金色の目が笑っている。
幸丸はそんな赤い鬼を一瞥し、きゅっと唇を噛み締めてから腹を括った。
人には誰しも隠しておきたい気持ちがある。
例え母を殺した者だとて、その者の隠しておきたい気持ちを暴く事をしたいとは思わない。
それは、以前に幸丸が赤い鬼に言った言葉であり、今でもそう思っている。
けれど、ここに至ってはそうも言ってはいられなくなった様だ。
本当は早くここから逃げだしたい。
どうして自分が、何故こんな目にと、何度思って毎夜、枕を涙で濡らした事か。
けれど、あの日、燃える様な紅葉の降る中、赤い鬼と出会って幸丸は決意した。
だからこそ、まだ自分はここにいる。
―…あの東山の屋敷で起こった惨劇の幕引きをする為に。