九話
兼元の正室である千代の生家は、石高五千石の旗本である三原家である。
千代は三原家の次女で、兼元に嫁いだのは十八の頃。
当時、三原家当主であった千代の父である宗安と、兼元の父である邦正が決めた政略婚であった。
とは言え、千代と兼元の仲は当初は良好な関係でもあったのだが。
しかし、千代がなかなか身籠らず、三原の家も宗安が隠居してからは財政難に陥っているとあっては、千代の立場は次第に危ういものとなって行った。
そんな追い詰められた状況の千代に、更に追い打ちを掛ける様な出来事が起きた。
兼元に側室が出来たのである。
兼元の側室に納まったお美代は、同性の千代の目から見ても美しい女であった。
それが、余計に千代を惨めにさせる。
正室としての矜持と、自分の立場を脅かすお美代に対する憎しみの中、遂に三年後に千代に取って念願の嫡男を身籠る事が出来、この時になってやっと、千代は心から安心する事が出来たのである。
どんなに兼元がお美代を贔屓したとしても、家督を継ぐのは千代の子、嫡男である一松だ。
千代はこれまでの溜飲が下がる思いで、息子である一松をそれは大切に育てたのだが、まさか自分の子が病弱である事を理由に、家督を継ぐ事に難を出されるとは思ってもみなかった。
家臣達が千代とお美代のどちらに付くかで揉めているのを、歯軋りする思いで見守っている中、ある日、お美代が藤島本邸から身を隠した。
そうして、数週間もしない内に、憎きお美代はこの世から去って行ったのである。
「藤乃、藤乃はいるかえ?」
奥座敷の一室、今日も熱の下がらない愛息子を看病しながら、千代が藤乃を呼んでいる。
藤乃は直ぐに御前に参ると、千代からの言葉を待った。
「一松が泉屋の落雁を所望しておる。買って来ておくれ。」
実は一松の好物は、お美代の生家である泉屋の落雁である。
お美代がまだ「藤島家の」侍女であった頃は、千代も好んで食べていたのだが、兼元の手付きになってからは一切食べる事はしなかった。
しかし、兼元が一松にこれを与えた処、一松が非常に喜んだ為、千代は不承不承ながらも、愛する息子の為に侍女を遣いに出してまで、憎きお美代の実家で菓子を買っているのだった。
「…そう言えば、先日、幸丸の元へ其方の母が参っておったそうじゃな?」
「…はい。」
「何ぞ、聞いておるか?」
「お美代様を殺害した例のトリカブトの件で、木村様が我が家を訪れた事を話たそうで御座います。」
「ふん、木村の奴、余程に追い詰められていると見える。…では、藤乃、他にも分かった事があれば直ぐに私に申し出るのじゃぞ、分かっておるな?」
「…はい。」
千代の言葉に素直に頷く藤乃に満足して、千代は一松の枕元へ向かう。
藤乃はそれを見てから、遣いに出るべく直ぐに廊下へと消えて行った。
「ほんに、藤乃はよく働いてくれる。」
千代は眠っている一松を看ながら、うっそりと笑った。
千代が藤乃を味方に付けた事はある出来事が切っ掛けだった。
まだ藤乃が藤島家へ侍女に上がって間も無い頃の話。
藤乃が兼元の大切にしている煙管を掃除中に壊してしまい、咄嗟にそれを隠してしまった事があった。
兼元の煙管は父親の邦正から譲り受けた物で、一点ものの貴重な品である。
兼元の部屋の掃除を任された藤乃は、縁側に置かれたままの煙管箱を仕舞うべく、それを手に取ったのだが、誤って庭に落としてしまった。
踏み石の上に落ちた煙管は、高い音を立てて雁首が割れ、藤乃の顔は蒼白になった。
藤乃は煙管をそのままにし、母親の加代にも言えずに逃げた先の女中部屋で震える他無かった。
庭に落ちた壊れた煙管を目にした兼元の怒りは凄まじく、煙管を壊した者を直ぐに探し始めたのだが、千代がその煙管を壊したのは野良猫であり、それを自分は見ていたと証言したのである。
怒りの矛先を失った兼元の機嫌は暫く悪かったが、藤乃は罪を免れて安心すると同時に不安にもなった。
どうして、千代が藤乃を庇ったのかが分からないからだ。
けれど、直ぐに藤乃は千代の本意を知る事になる。
煙管の件から数日後、千代に呼び出された藤乃は千代の言葉に息を呑んだ。
「殿の部屋への掃除は暫く、別の侍女に任せるが良かろう。次は大事な掛け軸を破かれては堪らぬからな。」
ほほほと笑った千代の目が一切笑っておらず、藤乃はそのまま身を固くした。
そんな藤乃の耳に千代は囁いた。
「この事を秘密にして欲しければ、藤乃、おまえは私の駒におなり。何、簡単な事よ、これからお美代の侍女として仕え、私が必要と思う時にだけ私の為に働いてくれれば良い。…出来るじゃろう?」
千代の言葉に黙って頷く藤乃に満足し、以来、千代は藤乃を秘密裏に自分の為に働かせていたのである。
「…母上、落雁はまだですか?」
目を覚ました一松に、千代はにこりと笑って告げる。
「直ぐに藤乃が買ってくる故、もう暫く眠って御待ちなさい。」
一松は「はい」と短く答えて、目を閉じると直ぐにまた小さな寝息を立て始めた。
「あら?今日はお菓子は無しかい?」
毎晩の様に幸丸の部屋で振舞われていた菓子が本日は無いと言って、赤い鬼が不満気に唇を尖らせる。
そうして、菓子を求めて勝手に棚の中を探し始めた赤い鬼に、幸丸はその腕を捕まえて止めさせた。
「こら、止めなさい。そんな所に隠してなんか無いのは分かっているだろう!?…まったく!以前にも言ったが、貴女がここに来るのは菓子の為なのか?」
「やだねえ、軽い冗談だよ、冗談。」
ちっとも冗談に思えず、幸丸は苦い顔を作ってみせたが、直ぐに本題へと話を戻した。
「どうやら、千代様にもトリカブトの話が伝わった様だな。」
「そうだね、でも、あんまり興味は無さそうだったかも。それより、木村様が追い詰められている事の方が嬉しいみたいだったねえ。…まあ、坊の後見の力が弱まるんだもの、それも当然か。」
赤い鬼は肩を竦めてから幸丸を見やると、彼が何を言うのか待っている。
幸丸は黙って暫く思案していたが、何かに納得した様に頷くと「千代様は分かりやすい方だから」と呟いた。