序
幸丸の母、お美代は美しい女だった。
お美代は大店の菓子商である泉屋の長女として産まれ、十四才になると九千石の旗本、藤島家へ奉公に上がる事となった。
藤島家当主、兼元には正室の千代がいたが、二人の間には長く子が出来ず、そんな中、美しく成長したお美代は兼元の手付きとなり、子を身籠った。
お美代は家老である木村壮一郎の養女となり、正式に側室として召されて幸丸を産んだのだが、それから三年後、今度は正室である千代が身籠り嫡男である一松を産んだ。
その時点で、庶子である幸丸は家督を継ぐ事は不可能となったのだが、この一松が病弱な子であり、御家を継ぐのを不安視する者が出て来てしまった。
それ故に、藤島家で嫡男の一松を後継に押す派閥と、庶子である幸丸を後継に押す派閥が出来たのも仕方の無い話だと言えるだろう。
幸い、兼元が達者であった為、派閥争いもゆっくりと水面下で行われていたのだが、幸丸が十三歳になった頃、父の兼元が突然病で倒れてしまった。
次第に家督争いが激しくなって行く中、お美代と幸丸の身に危険が迫る様になり、一計を案じた木村がお美代と幸丸の身を暫く隠す事にした。
お美代の生家である泉屋の協力の元、ある霜月の朝、母子は幸丸の乳母である加代とその娘である藤乃、そして護衛を五人付けられ東山の隠れ家に身を寄せた。
信頼の置ける者に囲まれた静かな環境に、母子の心は慰められたのだが…やはり、悪意からは逃れられず。
その日、東山の屋敷を訪れていた実母と妹、そして息子の目の前で茶に入れられていたらしい毒を飲み、お美代は嘔吐すると呼吸困難の末に息を引き取ってしまった。
余程苦しかったのだろう、その遺体は自身の爪で掻き毟り血に染まった真っ赤な首を晒した惨たらしいものだった。
直ぐに、お美代の実父である泉屋の主と木村が東山の屋敷に駆け付け、検分を行った。
屋敷中が蜂の巣をつついた様な状況の中、幸丸は一人、こそりと屋敷を抜け出して屋敷裏にある雑木林にいた。
身に危険が迫る中での愚かな行動だと充分に理解して、それでも一人きりになりたかったのである。
真っ赤に染まった楓の葉がハラハラと降って来る。
屋敷の中にも色付く楓が植えられていて、紅葉を前に、母もその美しさに目を細めていた事を思い出す。
だが、その赤い色はやがて母の首元を染めた血の色を思い出し、幸丸は胃の腑から這い上がって来た何かを必死で堪えた。
そうして、目を閉じ、浅くなった呼吸を整えていると、カサリと落ち葉を踏む音が聞こえる。
女中の誰かが幸丸を探しに来たのだろう、面を上げると、
「おやおや、これは可愛らしい坊じゃないか。こんな所で何をしてるんだい?」
燃える様な赤い髪をフワリと揺らした艶やかな女が立っていた。
見た事も無い様な美しい女。
けれど、その耳は天を向く様に尖り、目の色は黄金色で、頭頂部には銀色に光る二本の角が生えている。
瞠目する幸丸を見やり、面白そうに赤い唇を持ち上げたその女は、紛れもなく鬼の姿をしていた。