秘密の風聞け空の子ら
“梢枝”の頂上にある族長の家で、パートは父親を看取っていた。
「忘れるな。息子よ」
族長の枯れかけた手がパートの頬に触れた。
パートはその手を強く握る。
「父さん、忘れないよ。俺はまだ十七だ。今回の“渡り”は異例だ。俺のような若輩が、みんなの指揮を取るなんて……」
族長は弱々しく、
「それもある。しかしわしが本当に懸念しているのは……」
そこで咳き込んだ。パートは深く彼の父親の顔を覗き込み、父さん、父さん、と声をかけ続ける。
咳が止む。
「……わしが心配しているにはな、パート。“中央“が何かをやらかすかもしれないということじゃ。
「”中央“……」
パートは呟いた。
族長は咳き込みながら、震える指で息子の顔を指さした。
「“中央”、そう。その“梢枝”は決して沈むことなく、永遠に浮き続けるという。一世代ごとに移動する必要もないという話じゃ。今では世界から失われた鉄を作る技術も残されているという」
パートが黙って聞いていると、族長がこう念を押す。
「お前には”中央“への憧れがあるな? この空域は年々貧しくなっておる。下層高度から吹く風の中に含まれる栄養素が少なくなってきておるのじゃ。理由はわからん……じゃが、”中央“が関わっているのは確かじゃろう……」
「父さん、それを調べるためにも”中央“へ行かないと……」
「ならん!」
族長は一際ひどく咳き込んだ。
もう長くなさそうだった。
「頼む。頼むぞ。パート。”中央“には決して関わるでないぞ……」
また咳き込み、血を吐き、そして、族長は息を引き取った。
*****
パートは”渡り“の出航の日を翌日に控えながら、仲間たちのもとを離れて”梢枝“の外れ、”恵の風“が強く下から吹き付ける一本の枝の端へ行った。
子供の頃から、何か思い詰めるとよくここにきたものだった。
中天に輝く永久に動かぬ太陽を見上げながらこれからのことを考えた。生まれて初めての”渡り“。
本当なら自分に指揮を取ることが許されるはずだったのに、全例より8年早い出航は、前回の”渡り“を知っているベテラン世代に実権を握られることを意味していた。
パートはため息と共に縮こまる。
「なんで僕の世代だけ、母なる”梢枝“が早めに枯れてしまうんだ……」
「そうそう。まったく、本当なら結婚式を挙げてから”渡り“が始まるはずだったんだけどな」
パートは驚いて振り向いた。
許婚のレンナだった。
彼女はにっこり微笑みかけると、パートの隣に来て枝に座った。
「もうここへくることもないと思ってたんだけどな。”梢枝“の端っこの枝にはいっちゃダメです! 落ちたらもう戻ってこれないんですよ! ……よく言われたっけ」
「俺も親父に言われた。お前が範を示すんだからって」
「族長様、厳しかったもんね」
「……いなくなった今でも厳しく感じる。ずっと背後からのしかかられてる気分だよ。重積。なんだかきついよ、レンナ」
レンナはパートに身を寄せた。
「……大丈夫だよ。私が一生あなたを補佐するから」
パートは彼女の手を握る。
「ありがとう」
レンナは立ち上がる。
「さ、”梢枝“の根本の方に帰ろう。暗幕がそろそろ太陽にかかりかけてる。夜が来たら足元が見えなくなっちゃうよ」
パートはうなずいて従った。
*****
翌日、船団の準備は完了した。
部族の百五十人を五隻の飛空船に分けて次の島まで運ぶ……。
船旅は半年を予定していた。
半年で居住可能な次の”梢枝”に到達しなければならない。
有機物でできた雲が浮揚限界線にガスのように溜まり、空域に雲海のような景色を作り出している。
それが、これから半年間、パートたちの部族が見続けなければならない景色だった。
「あたしは三番船だよね」
はしけの枝で、レンナが言った。
うなずくのはパート。
「ああ。二番船に戦士を含む若い男たちを集めたから、他は老人と女達ばかりだな。世話を頼むよ」
「そっちも、オオクチクジラを近づけさせないようにしてね」
二人はしばらくお預けになる抱擁を、名残惜しむことがないようにしっかりと味わった。
揚力帆が張られ、推進帆が展開される。
いよいよ船出だ。
前回、つまりこの”梢枝”にやってきたときの経験が豊富な壮年の部族の者は、一番船で先導する役割だ。
出港直後、一番船から”梢枝”の葉で出来た信号旗で合図が来る。
(チュウオウカラトオザカル。ワレニツヅケ)
パートは指示を出して返答を返させた。
(チュウオウヘムカエ)
一番船は動揺するように揚力帆を揺らした。
何度か葉旗信号でのやり取りがあったあと、結局一番船が折れ、パートの意思が通ることになる。
3番線のレンナが心配そうな信号を送ってくる。
パートは心配するなとだけ送って航行を続けさせた。
*****
一ヶ月、航空をつづけた頃である。
風は変わらず吹き上げてくる。
収まる気配も向きが変わる気配もなく、船の飛行を助けてくれている。
一番船の尻を見続ける生活にもパートは飽き飽きしていた。
いっそ、自分だけ船列を離れてしまおうか……。
いや、どうせ目的地はあの船の向かう先だ、と思い直す。
ぼーっと舳先に座って一番船の船尾を見続けていた。
それが一瞬で花が咲くように炎を上げ、沈んでいくさまも目の当たりにした。
「事故か!?」
パートは驚いて立ち上がる。
船員たちが穂先に集まってくる。
唖然とするもの、叫ぶもの、様々だ。
だが思いは一つ。
大変なことになったと。
パートは唖然とする方だった。
他の船員からこづかれ、族長、しっかりしろと喝を入れられる。
「か、舵を取れ! 一番船を回避!」
炎上しながら大煙を上げて高度を下げていく一番船を面舵で回避する二番船以下。
煙の向こうに、何かが見えた。
なんだあれは?
大きい……。
船なのか!?
帆がないぞ!
どうやって浮いているんだ……。
皆口々に、誰に言うでもないセリフを口にした。
そう、一番船をあんなふうにしたのはこいつだ……。
その船は、部族の誰の常識に照らし合わせてもあり得なかった。
揚力帆のない船体が横っ腹をこちらに向けている。
見たことのない構造の船だった。
どうやって浮かんでいるかもわからなかった。
「バ、バリスタ準備!」
パートは声を上げた。
あの正体不明の船影に気を飲まれていた船員たちも、慌ただしく動き始める。
オオクチクジラ対策のバリスタに矢が装填される。
「撃て!!」
矢が敵の船体に吸い込まれる。
しかし、それは遠目に見ても全く効いていないようだった。
未知の硬い船体がそれを弾いた。
「ダメだ! 勝負にならない! これが……鉄なのか?」
*****
敵船はパートたちの二番船に横付けした。
三番船以下は非武装なので、放って置かれる形だ。
パートは身構える。
乗り込んできたのは、見たこともない全身を覆う黒い服を着た男たちだった。
「いかにも蛮族だな」
彼らの一人は言った。
「あ、あんたらは一体……よくも一番船のみんなを……」
黒い服の男は石の仮面のような顔にギョロリと付いた目玉をパートに向けた。
「小僧、あまりでしゃばるといいことがないぞ」
パートは歯を食いしばって、
「小僧ではない! この部族の族長だ!」
男は少し驚いたようだった。
「ほう。少し若すぎるな。お前たち蛮族は”梢枝”を移るたびに若者に未来を託すそうだが…いささか若すぎやしないか?」
我々の風習を知っているのか?
パートは冷や汗を垂らした。
相手の目的はなんだ?
その時、部族の戦士が男たちに飛びかかる。
すると、バン、と、パートが聞いたこともないような音が響いた。
雷にも似ているが、より破裂音に近かった。
部族の戦士は倒れた。
「なっ……」
その戦士はパートが子供の頃から武術の訓練をしてくれた人だった。
信じられない顔で恩人の死体を見つめるパート。
「よし、部族長はやはり二番船にいたな。連れていけ。あとは処分だ。後ろの船を沈めろ」
「なっ!? 待て!」
パートがそう叫ぶや否や、先程の破裂音とは比較にならない轟音がして、敵船が火を吹き、パートたちの後ろに浮かんでいた三番船を打ち砕いた。
「レンナーーーーーーー!!」
パートは声を上げたが、四番船以下が同じ運命をたどるのを見つめることしかできなかった。
戦士たちが、戦士でない若い男たちが、敵に飛びかかる。
しかし、みな、返り討ち。
パートは呆然とそれを見つめることしかできなかった。
そして、敵の男の一人に組伏せられ、船の甲板に顔を押し当てられる。
(こんな、こんなことって……)
靴を履いた足しか見えないが、男たちのリーダーらしき男が指示をとばしている。
もはや部族で生き残っているのはパートだけだった。
(部族のみんなは死んだ。俺の全ては今、全て、奪いさられたんだ)
(いや! まだだ!)
パートは訝しんだ。
そうか、これは夢なんだ。
そんな現実逃避すら感じているさなかのことだった。
頭の中に声が響いたのは。
(部族のものよ! 何故そうすぐに諦めるのだ!?)
(何故って、もうどうしようもないじゃないか)
声は笑った。
(笑止! ここからだ! お前という部族はここから始まるのだ!)
(何を……言っている?)
(さあ、パートよ。本当のことを言ってみろ。いや、心に思い描くがいい。お前は本当は部族の長になどなりたくなかった!)
パートは答えられない。
それが真実なのか、どうなのか。
心に自分の本心の形を思い描くことさえできなかった。
(パート、さあ、答えてみろ! お前は本当はあのレンナという女さえ手に入ればよかった! 二人だけで逃げ出したいのが本心だった! 部族など捨てて! お前は全てを失った気でいるが、その実本当に傷ついているのはレンナのことだけだ!)
「そうさ」
手を後ろに拘束され、立ち上がらせられる。
そんな中呟いた一言だった。
「なんだと?」
敵の男が呟く。
しかしパートは構わない。
「レンナだ、レンナだけだ。本当に大切なのは彼女だけだった! 畜生、まだキスもしてなかったのに! レンナ、レンナ、レンナああ!」
パートがそう叫ぶと、もう声は答えなかった。
ただ、船が代わりに答えた。
幾本ものワイヤーが現れると、敵の男たちごと船を包んだ。
「ぐああああ!!」
絡みつく黒いワイヤーに巻き込まれた男たちの体は潰されていった。
ただ一人、パートだけを避けるワイヤーは、船を覆い尽くし、“梢枝”の枝でできた粗末な船体を鍛え上げていく……。
鉄に覆われた敵船が警笛を上げた。
男たちを助けるのを諦め、パートの二番船から離れていく。
パートの収容も放棄し、大砲で処理するつもりだ。
実際、砲が火を吹いた。
打ち出された砲弾は木製の船体を粉々に引き裂く、はずだった。
しかしそれはまるで鉄の船同士の砲戦のように、金属音を上げて弾かれた。
パートの船は、完全に生まれ変わっていた。
(パート、パート……)
「レンナ!? レンナか!?」
一人残されたパートの頭の中に声が響いた。
たった一人で飛空船の操作ができるはずもない。
帆を張り、舵を取るだけでも最低五人は必要だ。
しかし、今や船はオーバーテクノロジーの塊と化し、パートは思念でそれを操作することができた。
(パート、念じるだけでいいんだよ?)
パートは心の中に思い描く。
鉄の船を一瞬で沈められる武器を。
新生の船が答える。
斥力翼を大きく広げて回頭すると、舳先を敵船に向け、船首にある主砲を放った。
鉄でもない。
ましてやバリスタの矢でもない。
プラズマ砲だった。
敵船は一瞬で火花に変わった。
*****
(こんなことになってごめんね。私はこの船に再現された人格なの……)
「ううん。なんだかよくわからないけど、いいんだよ。もう、いいんだ。君と一緒なら」
部族はもはや彼一人だった。
たった一人の、新しい部族。
なんのしがらみもない、新しい船出。
黒く染め上げられた破壊不能の構造の斥力船は行く。
秘密を抱えた風の吹き上がる青い空だけの世界を。