過去の呪縛からの解脱
ニエルドは馬が倒れるのも厭わぬ勢いで、ある場所に急いだ。
彼はそこで、秘密の合図をする。
それからしばらくすると、何処からともなく配下である影の者たちが現れた。
ニエルドは彼らに王の書状の一つを見せた。
彼らは書状の内容を見て驚愕した。
「ニエルド様……ユミル王は本気でアルテミスをお潰しになられるおつもりか!」
ニエルドは冷徹な顔になり、鋭い目で部下達を叱咤する。
「それがどうした……我らは王の見えざる手、その意思を体現する者ではないか! その王が新たなる主に仕えるように命じたのだ。」
影の者達は、書状の意味をもう一度考えた。
――ニエルド及びその配下をサウス領主カイン公付きに任ずる。
ニエルドは尋問官の元締めであり、影の者をすべて統率する長だ。
つまり、王はカインへ国の情報全てを託したということになる。
それは二人の王子ではなく、彼こそが国を引き継ぐべきだと暗に示したに等しい。
つまり、王は二人の王子を実質的に見放したのだ。
影の者の一人がニエルドに問いかけた。
「そういうことになりますと、フレイ様の出自を明かされるということになるのですか?」
ニエルドは少し思案した後、静かに答える。
「それは、フレイ様次第だろうな。いずれにせよ我らは王の言葉に従って、これからはカイン公にお仕えすることになるだろう。」
そして彼は影の者達へ命じた。
「私はこれよりサウスへ向かう。お前達は各地方にいる仲間達に、王の意思を伝えるのだ。」
ニエルドの話が終わると、影の者達は音も無く姿を消した。
ほんの少し前まで人が居たはずのその場所には、何の気配も残っていない。
彼らが来る前と全く同じ静寂だけが、当たり前のようにそこに残り続けるのだ。
ニエルドは影の者達と別れた後、途中で馬を変えながら不眠不休でサウスへ駆けていく。
彼は通常二週間はかかる道のりを、たった五日で踏破したのだった。
*
サウスの門外で私とトールが兵の修練をしていると、セントラルからの早馬がものすごい勢いで近づいて来た。
使者が馬から降りて、私達に近づいてくる。
彼から独特の雰囲気を感じて、私は穏やかな口調で問いかけた。
「私はサウスの将軍のガイと申します。セントラルからよくおいで下さいました。失礼ながら……フレイ様のお知り合いとお見受けしますが?」
ここでトールが男に深く頭を下げた。
「これは……ニエルド様が直々にサウスに来られるとは、よほど重要なお役目と思われます。」
ニエルドはトールに会釈をした後、微笑しながら私に話しかけた。
「ガイ様でございますね。私はアルテミス全体の尋問官を束ねるニエルドと申します。フレイは私の娘でしてね……だから雰囲気が似ているのかもしれないですな。」
彼は私たちの近くに控えている桔梗に興味を持ったようで、彼女に会釈をした。
桔梗は深く頭を下げ、音もなくこちらへ近づいて来た。
そのとき、ニエルドの目が光って身構えたことで私は確信した。
――彼は優秀な忍びに違いない。
さりげなくこちらに近づいたように見えたが、今の桔梗の動きは影歩きという技だ。
それに気づいて対処しようとするのは、彼女が何をしているかを知っているに他ならない。
私はニエルドに微笑して、静かに頷いた。
彼は私の表情を見て、自分が何を感じたかを知られたと察して、苦笑しながら桔梗に話しかける。
「素晴らしい動きですね。害意がないと知りながらも、体が本能的に反応してしまいました。」
桔梗はニヨルドの称賛に嬉しそうな顔で答えた。
「貴方のような手練れの方に褒めていただけるとは光栄です。」
ニエルドは満足そうに笑みを受かると、私達と共に領主の館へ足を運ぶのであった。
*
カインとフレイは、ニエルドが使者として来たことに事態の深刻さを感じた。
そして、彼から渡された書簡を見て体が震えた。
フレイが感情をあらわに、ニエルドを詰った。
「父上……あなたがクレアの両親にしたことをお忘れか? その上でカイン公の配下になるということが許されると思っておいでなのか!」
ニエルドは深く頭を下げてフレイの言葉を受け止めた。
カインは深く嘆息して私と桔梗を見る……そしてトールを見た後、決意をしたようにニエルドに告げる。
「ニエルド様、マグニの父であるトールは私情を挟まないために、敢えてガイ殿の配下となったことは知っておりますね?」
ニエルドは静かに頷き、カインが何を言いたいのかを察した。
「ならば、私はキキョウ様の配下となったほうが宜しいですかな?」
桔梗が驚いた顔をして、ニエルドを必死で諭そうとする。
「待ってください……王の側近ともあろうお方が、私の部下だなんてとんでもございません!」
カインが困り果てた顔をした桔梗を一顧して、フレイを優しく見つめて小声で囁いた。
「最後まで僕に付いてて来てくれるんだろう? だったら、僕は昔ではなく今を見て進んでいくさ……」
フレイはクレアの手紙を思い起こしていた。
――あの人は、すべて乗り越えてでも自分が護りたい者を救いに行く人……
彼女は真っ直ぐな目でニエルドを見据えた後、カインに決意を込めて告げる。
「カイン公、戯れはお止め下さい。ニエルド様はアルテミス全ての尋問官を束ねるお方……サウス方面の尋問官止まりの私より下の身分の者に仕えては、影の者達が黙ってはおりませぬぞ。」
カインは満足げな顔をして頷いた。
「それならば仕方がない、ニエルド様は私の直属の家臣ということでよろしいかな?」
ニエルドは深く礼をして答えた。
「ありがたき幸せにございます……生涯の忠節を誓います。」
カインは微笑して彼に優しく伝えた。
「貴方はもう知っていると思いますが、キキョウ君は前の世界で忍びの長をしていたそうです。なので彼女のお願いについては優先的に聞いてあげてくださいね。」
ニエルドは少し驚いた後に、静かに笑みを浮かべて桔梗に傅いた。
「キキョウ様が超越者ではないかということは考えておりましたが、それについては知りませんでした。あの身のこなし方、只者ではないと思いましたが……まさか、忍びの長でしたとは。ご用命がありましたら、何なりとお申し付けください。」
桔梗は恐縮しながらも、ニエルドの好意をありがたく受け取ることにするのだった。
*
ニエルドの件が一段落したところで、カインは応接室にマグニとアルベルト、そしてアケロスも呼ぶことにした。
カインは人払いをして、他に誰もいないことを確認した。
そして、私達に静かに告げる。
――フレイが王の隠し子であることを。
私達が全く驚かないので、ニエルドが不思議そうな顔をして問いかけた。
「貴方達は、彼女が王女だということに驚かないのですか?」
アケロスはこともなげに答えた。
「ガイやキキョウが超越者だったことから始まって、マグニが酒場の看板娘と結婚したり、カインがフレイと結婚するとかありえねえことが多すぎて、いまさらそんなことで驚いてもいられねえってことさ。」
カインとフレイが同時にアケロスに突っ込みを入れた。
「そのうちの一つは間違いなくアケロスのせいだろう! マグニの婚姻の件で、私達は胃に穴が空くほどの苦労をしたんだからな。」
ニエルドは久々に心から笑った……そして、涙を流しながら私達に頭を下げた。
「フレイがこんなにも自然な表情をしている姿を見ることが出来るとは……皆様にどうお礼を言えばよいのか分かりませぬ。」
カインはフレイとアルベルトを見ながら静かにニエルドに告げる。
「過去を悔いる気持ちがあるのであれば、今をよく生きてください。恐らくフレイやアルベルトもそう思ってくれています。」
アルベルトはフレイを見て優しく笑いかけた。
そんな彼を見て、フレイは諦めたようにニエルドに声をかける。
「クレアの息子ですら憎しみから解脱しているのに、私がそれに縛られていては立つ瀬がないでしょう。どんな経緯であれ、私がここまで成長できたのは貴方のおかげなのです。これからの戦況はより厳しくなるでしょうから、力を貸してください。」
ニエルドは涙を流しながらカインに深く頭を下げた。
カインは穏やかな顔をして、ようやく和解できた義父と娘を見ていた。
そして、真面目な顔になって、私達に王からのもう一つの書簡の内容について話し出した。
――王はバルデルを調略することを望んでおられる。
バルデルがしたことは許されぬ……だが、今までの忠誠を考えれば、彼を殺すのは余りにも忍びない。
王太子の地位を捨て、クロード公の下で再びアルテミスに忠誠を誓うのであれば、恩赦を与えることもやぶさかではないだろう。
――そしてカインに王位継承権があることを公表することを望んでいる。
フレイが王女であることを公表して、カイン公にも王位を継承する権利があることを主張させたい。
バルデルにはもはや王を継ぐだけの兵力はなく、ホッドは王の器ではない。
ならば、王の才覚のあるものに後を継がせたいというのも一つの道理であろう。
フレイは私をみて意見を求めた。
私は深く思案した後、カインに献策する。
「バルデルの調略については、早めに行うべきでしょう。彼ではなく、彼の取り巻きが暴走する前にクロード様に使者を送り、双方をこちらに引き込むようにするのが先決ですね。」
カインは深く頷いて、王位についてはどうかと私に聞いた。
私は、それについては即答した。
「王位については、バルデル様とクロード様については明かしてもよいと思われます。ですが、セントラルにまでそれを知られた場合は、非常にまずいことになるでしょう。ホッド様を支持する者たちが我らを脅威とみなして、何らかの手段で戦力の弱体化を謀る可能性があるからです。」
カインは私の進言を聞き、ニエルドに問いかけた。
「彼の考えについて、どう思いますか?」
ニエルドは感服した様子で私に頭を下げた。
「私が口を挟む余地がないですね。一つお聞きしたいのですが、ウエスタンの街の前にはバルデル様の兵たちが布陣しております。それをどうやって突破してクロード様に謁見するおつもりですか?」
私は桔梗のほうを見て笑みを浮かべた。
「地上がそうならば、空から詣でるまでさ。」
ニエルドは……一瞬、呆気にとられていたが、大笑いした。
「私は、これまで感情をあらわにして笑うことを控えておりましたが、今日を最後にそれはやめることにします。これほどまでに面白い方がいるのに笑えないのは、勿体ないですからな。」
そして静かに桔梗に伝えた。
「ウエスタンにも私の手の者がおりますので、事前に貴方達が向かわれることだけは、伝える用意しておきます。とても楽しみにしておりますよ。」
私はかぶりを振って彼に伝える。
「ニエルド様にも一緒に来てもらうことになると思いますので、その時はよろしくお願いしますね。」
ニエルドは嬉しそうに頷いた。
「この年になって、そのような面白い体験が出来ると思うと、武者震いがしまする。」
アケロスが呆れた顔で私たちを見て言った。
「国が割れようとしているのに、呑気なこった……だが、お前ららしくて良いんじゃねえか?」
応接間にいつものように笑い声が響いている。
ニエルドは、彼にしては珍しく本当に幸せな顔をしながら王に感謝した。
娘と和解できただけでなく、これほどの英雄たちとともに最高の仕事をこなすことができるということに。
カインは穏やかな顔をしながらガイとキキョウを見ていた。
――超越者が災厄を呼ぶなんて伝承は誤りだろう。
彼らが居なければ、こんな風に皆が笑っていることすら出来なかったに違いない。
カインは彼らの笑顔を守るためにも王の道へを進むことを、改めて決意するのだった。