王の苦悩
ユミルがウエスタンへ送った使者がセントラルに戻ってきた。
彼はバルデルの返事を王に伝えると共に、クロードからの書簡を渡した。
ユミルは悲しげな顔をして静かに首を振った。
「あの愚か者が……自ら破滅への道を選ぼうというのか……」
ユミルは使者に問いかける。
「クロードとウエスタンの民達は今回の件に対して、どう動いておるのだ?」
「クロード様は、デボラ様と貴族の子女を受け入れてはおります。それ以外の者については、一兵たりともウエスタンの街には入れておりませんでした。ウエスタンとしては中立を守っておりますが、人道的な観点から、食料の補給を行うに留めているようです。」
ユミルはフレイの忠告が効いていることに満足し、使者を下がらせた。
周りに人がいないことを確認して、ユミルは呟いた。
「フレイめ……味な真似をするものだ。あの娘が大広間での出来事を見てアルテミスの危機を察知し、サウスに戻る直前にウエスタンへ調略をしかけていなければ、クロードはバルデル側に付いていたかもしれぬ。まったく……我が娘ながら恐ろしい才覚だ。バルデルとホッドも、あの娘には勝てないだろうな。」
そして、バルデルのことを思って溜息をつくのだった。
――あの子はあまりにも真っ直ぐに、皆の期待に応えようとしすぎた。
王の子供ではなければ、あの愚直さは美点となっただろう。
バルデルには武人としての才はあったかもしれない。
だが、為政者としては致命的な欠点があるのだ……
彼は周囲の期待に応えようとするあまり、無茶をしすぎるのだ。
十年ほど前のセレーネとの戦いでは、彼の欠点を埋めるためにトールと一緒に戦わせたこともあったが、逆にトールよりも良いところを見せなければという気負いから、大失態を起こしてしまった。
あの時のノースの民達の怒りは大きく、未だにセントラルとの間に大きな禍根を残し続けているのだ。
その結果、バルデルの求心力は地に落ちてしまった。
それでも彼は王子として期待する者達の気持ちに応えるべく、純粋に力を求め続けた。
バルデルの手段は間違っていたが、彼の純粋さと力強さに、特に若い貴族達は惹かれるものがあったようだ。
そして、あの戦いの後、一度はバルデルを見限った貴族達も、ホッドの陰湿さに嫌気を感じて再び彼にへつらうようになった。
だが、彼らは甘言を弄して彼の心を狂わせてしまったのだ。
そこまで考えたところで、ユミルはクロードからの書簡をまだ読んでいないことに気付いた。
彼は、書簡に目を通して驚きのあまり体を震わせた。
「なぜだ……なぜ、このタイミングでバルデルの子が……」
今更ながらに、もっとバルデルのことを気にかけておくべきだったと思う。
その一方で、もはや手遅れなことに気付いてしまった。
ユミルは、悲しげな顔をして呟いた。
「どのような理由であれ、バルデルがしたことは決して許されないのだ。」
彼は側近を呼び、ホッドと貴族達を招集するように命じるのだった。
*
宮殿の大広間でユミルはホッドと貴族達を見渡した。
すでに彼らは、バルデルの返答を知っているようで笑みを浮かべている。
ホッドはユミルにあえて真面目な顔をして問いかけた。
「王よ、兄上からの返答はいかがでしたか?」
ユミルは感情をなるべく出さないようにして静か告げる。
「セントラルには戻らず、自分を慕った者達と運命を共にするそうだ。」
貴族達が小狡い笑みをしているのが目に入り、ユミルは不快な気分になったが、ホッドに命じる。
「バルデル達が我らに従う気がないことは明白となった。直ちに逆賊を打つために出撃するがよい。」
ホッドは、悲しそうな顔をして首を振った。
「それは出来かねまする……実の兄をこの手で殺すなどという非道を、どうして出来ましょうか。それに、これ以上セントラルの兵を動員すれば、北の隣国が動く可能性もございます。」
彼の真意がわからず、ユミルが苛立たしげに問いかける。
「ではどうするというのだ……このままバルデルを放置しても良いと、そなたは申すのか?」
ホッドが微笑して穏やかな口調で答えた。
「そうではございません。王都が苦境に立たされている今こそ、アルテミスで一番余力がある方々に働いてもらうのです。」
貴族達が騒めきだした。
「まさか……サウスを動かすというのか。」
「確かに、ヘカテイアの反乱での見事な采配を考えれば、それも一理ある。」
「カイン公とその家臣達の実力ならば、成し得るかもしれぬな。」
ホッドは貴族達の言葉を聞き、我が意を得たような顔でユミルに進言する。
「王は、カイン公とその家臣達を忠義者とおっしゃいました。もし彼らがそうであるならば、国が二つに割れようとしているこの危難に対し、それこそ命を懸けて戦ってくれるのでしょう。」
ユミルはその言葉に違和感を覚えて、ホッドに問いかけた。
「ホッドよ、カイン公にセントラルを守らせて、お前がウエスタンに行くという考えはないのか?」
ホッドは静かに首を振って、貴族にも聞こえるように少し大きな声で答えた。
「兄上が千五百ものを率いてセントラルを出撃した以上、我らは兄上とウエスタンが手を組んだ場合も想定して、六千程度は兵を動員する必要があると思われます。カイン公のことは信じておりますが、彼がもし翻意を持たれたとしたら、セントラルが陥落する恐れがあるのです。」
貴族達は、自分達が戦っている間に、カイン公に漁夫の利を狙われるのではないかと考えて、ホッドの意見に賛同する。
ユミルは呆れた顔でホッド達を見つめて、吐き捨てるように言った。
「カイン公が、我らにどれほどの忠誠を尽くしたのか忘れたのか! 今まで彼がしてきたことを忘れたとは言わさぬぞ。」
ホッドはユミルの言葉に強く反論した。
「兄上も父上には絶対的な忠誠を誓っておりました! ですが、今こうしてアルテミスに反旗を翻しているではありませぬか。今や日が昇る勢いで貪欲に戦力を集めているカイン公が、欲望に負けて王位を狙わないと、誰が言えるのでしょうか?」
そして貴族達を見回して叫んだ。
「今の私の言に反論できるものが居れば、申してみよ!」
貴族達は皆ホッドの方を向いて傅き、彼の言葉を肯定するのだった。
ホッドはユミルへ向き直り、笑みを浮かべた。
「王よ……いかがいたしましょうか? ここにいる者達は皆、私の意見に同意してくれたようですが。」
ユミルは周囲の貴族達を見て考えた。
――確かにホッドが言うことにも一理あり、正論ではある。
だが、この戦いの重要性が理解できていない時点で、ホッドは王の器ではないということがはっきりと分かった。
なぜならこの戦いは、一世一代の大勝負だ。勝った者がアルテミスの王を継ぐものとなるのだから。
その戦いに、ホッドは自ら赴こうとすらしない……
そんな情けない者が、次の王となると考えただけでも寒気がしてくるのだ。
そして、その戦いをさせようとする者を全く信用もせずに、使い捨ての駒ように考えているのも気に入らない。
そんな狭量な者が王になったところで、讒言に惑わされて無用の処刑を繰り返すだけだろう。
ユミルは目の前が真っ暗になるような眩暈を感じた。
王宮に残っている側近以外の貴族は、ホッドに諂う者ばかりで、今か今かと王が退位するのを待ち望んでいる。
そんな彼らに何を言っても、もはや声は届かないだろう。
今更ながらに、バルデルの返答が心に刺さってくる。
――公正に話を聞く気が無いところに出向いて死を賜るぐらいなら、私を慕った者達と運命を共にしたい。
ユミルは苦悩したが、一筋の光明を見出して顔を上げた。
彼はその場にいる者全てが思わず畏怖するような、そんな威厳のある声で問いかける。
「そなたらの言い分、確かに一理ある。だが、此度の戦いは世紀の一戦となるだろう。カイン公を説得するためには相応の使者が必要だが、誰かそれに志願する者はいるか?」
誰も答えないのを確認した時、ユミルの決心はついた。
「それならば、私の側近を直接サウスに使者として送ろう……皆の者、異存はあるまいな?」
ホッドと貴族達は王に傅き、その方策を肯定するのだった。
*
ユミルは自室にて一人の側近を呼び、二通の書簡を手渡して告げる。
「そなたは、フレイの出自をよく知っておったな。」
側近は静かに頷いた……そして王の顔を見てすべてを察した。
「ユミル様、時が来てしまったのですね……貴方が最も望まなかった時が……」
ユミルは静かに頷く。
「今更、父親面をしたところで、彼女が許してくれるとは思えぬ。だが、この国の滅亡を防ぐにはこれしかないだろう。」
そして彼に深く頭を下げた。
「ニエルド……すまなかった。私の過ちのために、そなたにどれ程の苦悶を与えただろうか。それでも私に仕え続けたことを感謝する。」
ニエルドは複雑な表情をしたが、ユミルに傅いた。
「妻の不貞の相手を知った時、私は苦悩しました。さらに、フレイの産後に妻が死んでしまったことで、私は打ちのめされた気持ちでした……ですが、フレイがあそこまで優秀に育った今となっては、運命だったと諦めるより他はありません。」
ユミルは静かにニエルドに語り掛けた。
「カイン公に、クレアの件はすべて私が指示したことだと伝えよ。そして、お前は書簡を届けた後は彼に仕えるのだ。」
ニエルドは王の恩情に感謝したが、静かに首を振った。
「クレアの両親に手を下した者について、フレイは気づいております。私も暗部の仕事に少し疲れました……もしカイン公や彼女が私を処断するのであれば、寿命が尽きた時だと覚悟しております。」
彼は穏やかな表情で深く一礼をして、滑るように部屋から去っていった。
ユミルは部屋の窓から、外を眺める。
ちょうど夕刻で、沈む太陽は美しかったが……そのあとには暗い夜が待っている。
現在のアルテミスの栄華が失われる予兆のような気がして、彼の心は目に映る太陽のように少しずつ沈んでいくのであった。