デボラの懐妊
バルデル達はセントラルを出立してから三週間ほど、でウエスタンの街に到着した。
ウエスタン領主が家臣と共に、ウエスタンの門外で彼らを出迎えた。
クロードは、バルデルに深く一礼する。
「セントラルでの陰謀に巻き込まれたそうで……ご多難でございましたな。」
バルデルは鷹揚に頷いた。
「愚弟が、私のことを悪し様に父に伝えたのだろう。」
クロードが伏し目がちにバルデルへ願い出る。
「長旅でお疲れでしょうが……まずはバルデル様、そしてデボラと今後のことについて、領主館でお話ししたく存じます。」
バルデルはクロードの申し出を快く了承すると、デボラと共にウエスタンの街へ入って行くのだった。
*
ウエスタンの領主館の応接間に入ると、クロードは人払いをした。
部屋にはクロードとバルデルとデボラの三人だけで、他の者は誰もいない。
何とも言えない重い沈黙が漂う中、デボラがクロードに話しかけた。
「お兄様……この度は、私たちの窮地を救ってくださり、ありがとうございました。」
クロードは彼女の姿を見て微笑した。
「もともと行動的だとは思っていたが、まさか男装までするとは思っていなかったぞ。」
デボラはバルデルの方を見て、あの時のことを思い出す。
「出立する前に、体調がすぐれぬと仮病を侍女に訴えて、人払いをしていました。バルデル様は出立前の挨拶だけはしたいと、半ば押しとおるようにして、親衛隊を連れて私の部屋に入った後、隊士一人の防具を渡して下さりました。わたくしはそれを着て、一緒にウエスタンに出陣したという訳なのです。」
クロードが頷きながらバルデルに話しかけた。
「随分と危ない橋を渡ったものですな……ところで、デボラからの書簡に書かれていた、イースタンの陰謀に関わった者へ私刑を下したということは本当なのですか?」
バルデルが、彼らのことを思い出して吐き捨てるように言った。
「あのような者達を生かしておいても、何の役にも立たないだろう。それならば、我らの理力の発現のために少しでも役に立つほうが、国の為になるだろう。」
クロードは失望のあまり、天を仰ぎたくなるような気持ちになった。
だが、微笑は崩さずにデボラを一顧した。
彼女は悲しげな顔で静かに首を振っている。
クロードはなるべく穏やかな声になるようにしながら、バルデルに告げる。
「実はことの大きさから、ウエスタンの住民への説得に時間がかかっておりまして、兵達の受け入れが出来るような状況ではないのです。ただ、貴族の子女の保護や兵への食事などの提供はしっかりとさせていただきます。大変恐縮ながら、暫しの間我慢していただけないでしょうか。」
バルデルは、しばらく考えたがクロードの申し出を受けることにした。
「急を要する願いだったので、それくらいは呑んでも構わぬ。デボラは最近、本当に体調がすぐれぬようでな……そなたに預ける故、しっかりと面倒を見て欲しい。では、私は外の兵達にそれを伝えるとしよう。」
そして、デボラに口づけをすると、バルデルは堂々たる態度で、ウエスタンの領主館を退出していくのであった。
バルデルが去った後の部屋で、クロードはデボラに向き合って問いかけた。
「さて……デボラよ、あの話は本当なのであろうな?」
デボラは静かに頷き、クロードの袖を引っ張った。
「はい……懐妊致しました。書簡を送ったときは、まだ不確実だったので半信半疑でしたが、ウエスタンに着くまでには悪阻がひどくなってきたので、間違いないと思います。」
クロードは、バルデルのことを思って嘆息した。
「もう少し早く……ほんのもう少し早ければ、この様なことにはならなかったのだろう。デボラ、バルデル様には伝えたのか?」
デボラはかぶりを振る。
「あのような状況で、それを漏らせば貴族達が私を人質にとって、保身のためにセントラルへ戻るということもあり得たので、言うことが出来なかったのです。」
クロードはデボラの肩に優しく手を乗せて諭した。
「バルデル様がこれ以上暴走しないようにするためにも、早めに伝えてやる方が良いだろう……彼もきっと喜んでくれると思うぞ。」
デボラは窓の外から、街の外にいるバルデルのことを想って涙を流すのだった。
*
二人きりになった応接間でクロードは、一通の書簡をデボラに見せた。
デボラはそれを読んだ瞬間に目を見開き、そして嘆息する。
「お兄様、まさかここまで動きが読まれているとは……これではウエスタンは、バルデル様に加勢できますまい。」
クロードは静かにうなずいた。
「サウス……いやフレイ様か、彼女の尋問官としての諜報網を考えれば、おかしくはないことだ。だが、彼女はカイン公との婚姻後に大分変わられたようだ。」
―書状にはこう書かれていた。
クロード殿、バルデル様が王の錫杖に明確に拒絶され、ホッド様は触れることは許された。
推測となるが、ほどなくしてバルデル様は失脚なされることになるだろう。
王都では王子に対する不穏な噂を聞くことも多い。
もしウエスタンがそれに巻き込まれそうになっても、自分から動いてはならぬ。
真実をしっかりと見定めた上で判断されよ。
クロード殿は賢明な方であり、王の覚えもめでたい。
最悪の事態が起こった場合は私が王にとりなすことになるが、貴方はそれが出来る程度の余地してくれると私は信じている。
クロードは深くため息をついて、デボラに問いかける。
「バルデル様は、この後どうされるおつもりなのだ? まさかセントラルと一戦を交えるおつもりか?」
彼女は憂いを帯びた顔をして、涙を流しながら答えた。
「バルデル様と貴族達は、力に呑まれてしまったのでしょう……王の理力というものに囚われてから、彼らは理力を発現されることに傾倒していきました。」
クロードは、ウエスタンに伝わるメイガスの伝承を思い出していた。
「やはり理力というものは、世を乱すものなのかもしれないな…」
デボラは、窓からウエスタンの街の外にある大穴を眺めて、メイガスと共に、異なる世界へと旅立った人たちのことを考える。
――彼らはメイガスと共に異なる世界へ旅立ち……そして帰って来なかった。
彼女は、バルデル様も同じように帰って来れなくなるのではないかと、考えそうになった。
だが、急いでかぶりを振ることで、その考えを打ち消した。
*
街の外でバルデルは貴族達にウエスタンの事情を伝え、彼らの子女をウエスタンに預けるように伝えた。
貴族達は激怒した。
「ウエスタンの領主如きがなんと無礼なことを……目にもの見せてくれる!」
「われらに長期間野営をさせるつもりか? ウエスタンを攻め落としてくれる!」
「子女を預けろだと? 人質にしようとしているに違いないわ。」
バルデルは彼らを怒鳴りつけた。
「馬鹿者どもが! 今、ウエスタンと事を構えてどうするつもりか。ウエスタンとセントラルに挟撃されて、我らが壊滅するのが目に見えておる。」
一人の壮年の貴族がバルデルに詰め寄った。
「王子、貴方があんな愚かなことをしなければ、我々はこのような苦しみを味わうこともなかったのだ! どう責任を取るつもりか。」
バルデルは彼を静かに見下ろして問いかける。
「俺は王の期待だけでなく、貴様らの期待にも応え続けてきたつもりだ。そしてお前のような弱き者が連座して処罰されるのを防ぐために、ウエスタンまで導いた。そして、私はウエスタンへの行軍については何も強制はしていない……ここまで付いて来たのは、お前自身の選択ではなかったのか?」
若い貴族たちが壮年の貴族を取り囲んで、それぞれの武器に理力を込める。
彼らの武器は鈍い赤色の理力を発現していく。
壮年の貴族は怯えた顔をして逃げ出そうとしたが、時すでに遅く彼はすぐに物言わぬ屍となった。
若い貴族達は、赤黒く光る武器を掲げながら周囲を怒鳴りつけた。
「真の忠誠というものを知らぬ者たちめ、恥を知るがよい! この期に及んで裏切ろうとするものは、我らが土に還してくれる。」
バルデルは彼らを諭しつつも貴族達に告げる。
「俺を思ってしてくれたことについては感謝する……だが、俺が指示するまでは勝手に動くでない。さて、ウエスタンまで付いてきたということは、もはや俺と運命を共にするしかないということはわかるな? セントラルで内乱罪で死ぬか、戦って未来を掴むかは貴様らの好きにするが良い。」
若い貴族達は皆バルデルに傅いて忠誠を示した。
バルデルは武器を天にかざして理力を込める。
武器から鮮血のような赤色の理力が発現し、天高く伸びていく。
あまりの禍々しさに、残った貴族たちもみな傅いて、ひとまずの忠誠を示すのであった。
*
それから三週間ほどたった頃、セントラルからの使者がウエスタンに到着した。
クロードはバルデルを呼び、ウエスタンの門外でセントラルの使者に会わせた。
使者はバルデルが素直に顔を見せたことに驚きながら、彼に王からの書簡を見せることにした。
バルデルは王の書簡に心を動かされたような顔をしたが、首を振る。
「恐らく、私が素直に召還に応じたところで、王宮に残っている貴族はあの臆病者の取り巻きだけだろう。公正に話を聞く気が無いところに出向いて死を賜るぐらいなら、私を慕った者たちと運命を共にしたいと、王に伝えるがよい。」
使者は逡巡したが、バルデルの言葉を王に伝えることにした。
使者が去り二人きりになると、バルデルはクロードに静かに言う。
「恐らくは、二か月もしないうちに王はウエスタンに兵を差し向けるだろう。その時までにどちらにつくのかの覚悟を決めるがよい。」
クロードは悲しそうな目でバルデルの肩を叩く。
「バルデル……その度量を何故使うべき時に使わないのだ! お前を支持している貴族達は、お前を死地に引きずり込むだけだというのに……」
バルデルは穏やかな顔をしてクロードの肩を叩き返す。
「デボラに子が出来たそうだな……すまないが、あいつらのことを頼むぞ。」
クロードは手に爪が刺さりそうなほど強くこぶしを握った後、バルデルに背を向けてウエスタンの街へ戻ることにした。
バルデルは小さく呟いた。
「王の息子などに生まれたくはなかった……そうすれば、もっと自由に生きることが出来たのかもしれない。」
メイガス達の理力によって造られた大穴は、バルデルの空虚な気持ちを表すように、底知れぬ深さの闇に包まれていた。