新しい工房
新しい燕月亭での楽しい一夜が明けた。
目を覚ますと、朝日が窓から差し込んで部屋の中を明るく照らしていた。
私は誘われるように窓辺に行き、外の景色を眺めてみる。
眼前には市場や港がとてもよく見えており、立地の素晴らしさを感じずにはいられない。
昨日は気づかなかったが、燕月亭のすぐ隣に立派な煙突が付いた石造りの工房があった。
「そうか……新しい工房も出来ていたんだな。」
私は少し感慨深くなり、工房の煙突を見た。
まだ火は入っていないようで、煤などは出ていないようだ。
だが、またこうしてアケロスの工房が出来たのが嬉しくなり、自然と笑みが浮かんでくるのだった。
ひと通り外の景色を堪能した私は、部屋を見渡した。
内装はシンプルながらも、上質な材料を使っていることが一目でわかる。特にベッドやテーブルなどに使われている木材は、とても味のある茶色をしている。
ただ、先ほどまで寝ていた布団の感触やカーテンの色合いを見ると、クラリスさんの存在を強く感じて、ここが燕月亭だという安心感を強く感じた。
しばらくすると、下から貝のスープのような匂いとパンを焼くような香りが鼻をくすぐり始める。
私は、そろそろクラリスさんから朝食で呼ばれる気がしたので、速やかに着替えを済ませて広間へ向かった。
広間にはグエンとダナンがテーブルに突っ伏して寝ていた。
私は呆れた顔で彼らを見て呟く。
「まったく……あれから、また酔いつぶれるまで飲んだのか。酒に飲まれるようでは武人として失格だぞ。」
クラリスさんが私に気づいて台所から声をかけた。
「ガイ君、そこの二人の可愛い海賊さんに、貝のスープを飲ませてあげてね。お酒の飲み過ぎにはとっても効くわよ。」
私は台所へ行くと、とても美味しそうな匂いが鼻に入ってきた。
クラリスさんが私に温かい貝のスープが入った器とスプーンを三つ渡す。
「ガイ君もしっかりと飲んでね。まだ十六なのに、いっぱいお酒を飲んだんだから。」
「こんな美味しそうなスープが飲めるなら、また飲酒がしたいものですね。」
「お世辞がお上手ね。じゃあ持って行ってちょうだいな。」
私はスープを盆にのせ、テーブルに持っていき、可愛い部下たちを起こした。
「いつまで寝てるのだ、母さんがスープを作ってくれたから一緒に飲むぞ。」
グエンとダナンは、まだ酒が残っているのか顔を持ち上げるが、虚ろな表情をしている。
グエンがかぶりを振りながら私のほうをようやく見た。
「う……あ……おはようございます。」
私は彼らにスープを渡して飲むように勧める。
そして、私も一口スープを啜る。
あまりの美味しさに思わず溜息がでた。
「これは……体に染み渡るな。確かに、酒を飲んだ次の日にとても良く効くわけだ。」
口の中に貝の味だけでなく、ほのかに葱や香草の風味がする。
体を労わる様な香草の匂いが舌から鼻孔へ抜けていく感覚は、質の良い枕に頭を乗せた時のような心地の良さすら感じさせる。
そしてその心地よさのままに、スープがすっと胃の中に吸い込まれていく……
私が口に広がるスープの味を楽しんでいる合間に、目の前の二人は一気にスープを平らげる。
二人の顔色がみるみるうちに良くなり、クラリスさんにおかわりを頼みに行った。
それから間もなくして、スープの香りに誘われたアケロスが、桔梗に支えられながら降りてきた。
桔梗がアケロスを嗜めている。
「お父さん、だから言ったんですよ……飲みすぎは駄目ですって。」
アケロスがデレデレしながら、全く反省していない顔で謝っている。
「可愛い娘から酌されて飲むなんて久々だったんでな、嬉しかったんだよ。」
桔梗は嬉しそうな顔になるが、しっかりと釘を刺した。
「それは私も嬉しいです。でも、後でしっかりとお母さんに叱ってもらいますからね。」
アケロスが萎れた野菜のような表情になって呟く。
「キキョウ……お前はセリスの様にならないでくれ。」
桔梗は、とても良い笑顔でアケロスを見て優しく告げる。
「それはお父さん次第です。」
広間のテーブルからそれを見ていたグエンが私に耳打ちした。
「姐さんは、アケロスさんまで篭絡されてるんですかい?」
私は首を振る。
「いや、キキョウは単純に父親として、アケロスのことが大好きなんだ。」
グエンが納得した顔で笑った。
「アケロスさんは幸せ者だなぁ…俺もあんな素直な娘が欲しかったな。」
「そういえば、お前にも子供がいたな。」
「フェンという名の娘が一人おります……お頭よりもちょっとだけ年下ですね。腕っぷしはいまいちですが、手先が器用で鑑定などに才があるので、ヘカテイアで学ばせてやろうと思っていましたが……俺が騙されたばかりに、悪いことをしてしまいました。」
グエンが残念そうな顔をしていたので、私はアケロスに声をかける。
「アケロス、グエンの娘が手先が器用で鑑定の才能があるみたいなんだが、一度会ってもらえないか?」
アケロスがニヤニヤしながら快く受けようとすると、桔梗がアケロスの腰をギュッと掴んだ。
「お父さん……ほかの娘さんに浮気は駄目ですからね。」
アケロスは桔梗の頭を撫でながら鼻の下を伸ばして優しく言う。
「可愛い娘をほっぽり出すわけがないさ。さあキキョウ、うまいスープが出来ているから飲もうぜ。」
私はグエンに忠告した。
「ああいう風に、婿の候補ができても離さなくなる可能性があるのでな……くれぐれも気を付けるんだぞ。」
そして、アルベルトとセリスの例をグエンに耳打ちする。
グエンは青い顔になったが、娘のためを思ってアケロスに会わせようと考えた。
その時、外から呼び鈴の音が聞こえた。
皆の手が塞がっているので、グエンとダナンを伴って家の外に出ることにした。
*
私達は扉を開けて外に出た。
誰が来たのかと思って門に近づくと、鈍色の長い髪を一本に束ねた気の強そうな女の子が、門の外で腕を組みながら仁王立ちしている。
グエンに気づくと、女の子が褐色の肌に浮かぶ綺麗な水色の目で彼を睨み付けた。
私は彼女の眼光の鋭さに驚きつつ、年相応の可愛らしさを感じた。
そして、幼さは残っているが……きっと数年すれば美人になるだろうということも。
グエンが少し困った顔をしながら、私に囁く。
「あれが、先ほど話したフェンです。」
フェンがグエンと私を見て訝しがる。
「お父さん……また酔いつぶれたでしょ! サウスに引っ越したばかりなのに頭の家に行くと言って、全く帰ってこないんだからお母さんが心配しているわよ。」
そしてダナンのほうを向いて深く礼をした。
「父がいつもご迷惑をおかけして申し訳ありません。まったく…また酔いつぶれたりとかしてご迷惑をおかけしたのではないでしょうか。」
同じく酔いつぶれていたダナンが苦笑いをしながら私の方を向いて指示を待つ。
私はとりあえず門を開けて、フェンに中に入るように促した。
門を通した際に、彼女を見下ろすような形になってしまったが、背丈は桔梗より一回り小さい。
グエンの紹介通り、鑑定などを含めたセンスが良いようで、麦色のシャツに深緑色の長ズボン、そして赤銅色の腕輪が程よく調和していてとても御洒落だ。
彼女は私に会釈して、グエンにつかつかと歩み寄り、その手をぐいぐいと引っ張って帰ろうとする。
「お父さん、今日こそはお母さんに思いっきり叱ってもらうからね!」
グエンが慌てて私に助けを求めた。
「お頭、フェンに言ってやってください。アケロスさんに紹介してくれる約束を取り付けたって。」
お頭という言葉に、フェンが私の顔をまじまじと見つめる。
そして、目を見開いた後に何度も頭を下げ始めた。
「ごめんなさい、白銀のマントをしていなかったので気づくのが遅れました。ガイ様ですね……父が、本当にご迷惑をおかけしました。」
私は彼女に会釈して、アケロスに紹介したいから一緒に朝食をとろうと誘う。
初めは遠慮をしていた彼女も、ヘカテイアにも名が轟く位に高名なアケロスと会ってみたいという気持ちが上回ったようで、最終的には私の申し出を受けてくれるのだった。
*
フェン達を連れて広間に戻ると、テーブルの上には焼き立てのパンとスープが用意されていた。
クラリスさんが笑顔でフェンにアケロスの隣に座るように誘う。
フェンは彼女に一礼をして、椅子に座った。
アケロスがフェンとグエンを交互に見て感嘆の声を上げる。
「ほう……グエンにこんな可愛らしい娘さんがいたとはな。まあ、目の色はグエンと同じだな。」
グエンが嬉しそうにフェンを見る。
「それに、口元もなかなか俺似ですぜ……将来が楽しみですよ。」
フェンがそっぽを向いた。
「お父さんにそっくりになったら、間違いなく嫁に貰ってくれる人が居なくなっちゃうわよ。」
力なく項垂れるグエンをフォローするように、アケロスがフェンに話しかける。
「グエンから聞いたが、手先が器用で鑑定眼も優れているらしいな。後で、俺の新しい工房に来てみないか?」
フェンが目を輝かせて喜び、満面の笑みを浮かべてグエンに感謝した。
「アケロスさんにそう言ってくれたんだ。お父さんありがとう……大好きよ!」
目じりを下げるグエンを見て、私はダナンに目で伝える。
―父親は皆、娘に弱いものなのだろうか?
ダナンは苦笑しながら私の考えに同意をした。
*
朝食が終わり、アケロスが私たちを工房へ案内してくれることになった。
家の扉を開け、庭の角を曲がるとすぐに石造りの工房が見えてくる。
堅牢な石造りで、扉もとても重厚感のある鋼でできている。
イースタンの時に比べ、一回りは大きいようだ。
工房の中に入ると、イースタンで見慣れた工具たちが、アケロスの帰りを待つように整然と置かれていた。
私は、イースタンの工房を思い出して思わず呟く。
「全体的には広くなったけれど、イースタンの時と基本的には変わらないようにしているんだな。」
アケロスが感慨深げに窯をなでる。
「そりゃあ、窯の大きさ一つで大分と感覚が変わるからな。使い慣れた方がやりやすいのさ。」
そしてミスリルの鉱石が入った袋を撫でながら漁り始めた。
「うん…これあたりで試してみるか。」
アケロスはフェンにあるミスリルの鉱石をして問いかける。
「こいつは、あんたに何を訴えかけるかわかるか?」
フェンは目を閉じて、静かにミスリルを撫でまわす。
するとミスリルが眩い光を発した。
フェンがアケロスの問いに答える。
「貴方のようにミスリルの意思を組んで、それを導いてやれるような人を求めているように感じました。そして、それを私にやってほしいと望んでる。でも……私にそれができるのかしら。」
アケロスは目を細めて彼女に笑いかけた。
「まずは合格だ。それを製錬してフェンの金槌を作ってやる。あとは、それを使って他の物ができるか試してみねえとな。」
グエンが目を丸くしてアケロスに尋ねる。
「それってことは……もしかしてうちの娘が、あのイースタンの至宝に弟子入りできるってことですかい?」
アケロスが満足そうな顔をしながら深く頷いた。
「恐らく、この娘さんはミスリルという固定観念に縛られず、物をしっかり見てきたんだろうさ。そして天性の器用さと鑑定眼があるように俺も感じる。しっかりと修行に励めば、俺みたいに良い鍛冶師になれそうだぜ。」
フェンが喜んでグエンに抱き着く。
「お父さん! あのアケロスさんが私には才能があるって認めてくれたわ! あら……どうしたの? 嬉しくないのかしら。」
グエンはいろいろと葛藤しているようだ…そしてフェンに問いかけた。
「フェン、鍛冶師を目指すということは、火傷もする可能性もある。そして、力も付けなければいけねえ。それが元で嫁の貰い手が居なくなるかもしれねえが……その覚悟はあるのか?」
フェンは笑顔でグエンに答える。
「そんな奴は、こっちから願い下げよ。それに……私、お付き合いしてる人がいるの。」
娘からの衝撃の発言に、グエンの目が見開かれた…そしてフェンの肩を揺すりながら問い詰める。
「おい、それは聞いてねえぞ! 何処のどいつだ、その不埒者は?」
フェンが横目でダナンを見ているのを見て、グエンは察してしまった。
「まさか……まさか、ダナンの息子なのか!」
ダナンが気まずそうに頷く。
フェンがグエンの目を見ながらしっかりと伝えた。
「ちなみに、お母さん公認だからね。邪魔しても無駄だから!」
グエンが膝から崩れ落ちる……アケロスが気の毒そうに彼の肩を叩いて慰める。
「俺のセリスの時も同じだった。あいつもクラリスを説得していたもんだから、俺も歯噛みするしかなくってな……」
グエンがあまりのことに我慢できずに、アケロスに抱き着いて泣き出した。
ダナンが呆れた顔で私に目で訴える。
―お頭……ごつい男が二人抱き着いていると暑苦しいですね。
私は何も言えずに、桔梗を横目で見た。
桔梗は二人の元へ歩み寄り、優しく肩を撫でている。
そんな彼女の優しさに心を打たれたアケロスが、心の叫びを漏らした。
「ちくしょう……こんな天使みたいな優しい娘を、ガイみたいなヘタレた奴の嫁になんか出来ねえよ…俺が一生かけて守り尽くしてやる!」
桔梗は穢れなき純粋な眼差しで、アケロスの肩を抱き、優しい声と共に残酷な未来を告げる。
「お父さん……私、お父さんのことは大好きだけど、十八になったら凱さまと結婚するって決めているんです。その時はお父さんはお母さんと一緒に絶対に祝ってくれますよね? 私、お父さんが大好きだから、結婚式の時に言おうとしている感謝の言葉がたくさんありすぎて、どう伝えたら良いのかを今から悩んでいるんですよ。」
アケロスもグエンに抱き着いて、声をあげて泣き出してしまった。
ダナンがさらに私へ目で訴える。
―何だか俺も見ているのが苦しくなってきた。
フェンは呆れた顔で彼らを見ている。
「やっぱり父親ってどこも同じなのかな……」
私はとりあえずアケロスをフォローすべく、フェンに優しく話しかけた。
「あんな感じだけど、アケロスは色々な人の為に頑張っている良い人なんだ。鍛冶の腕も最高だしね。」
フェンが苦笑しながら同意する。
「そうですね、あの気難しい父とも意気投合しているみたいなので、きっと良い人なんでしょうね。」
桔梗は、娘達が嫁に行ってしまう姿を思い浮かべ、泣き叫ぶ二人を撫でながら慰め続ける。
ただでさえ、火が入れば暑苦しいと思われる工房の中、大の男二人が娘を思って抱き合いながら泣き叫ぶ姿は、居た堪れないほどに暑苦しく感じるのだった。
*
それから数日後。
フェンは私たちが見守る中、自分用に作ってもらったミスリルの金槌を使って、見事にミスリル鉱石の精錬に成功する。
アケロスは当然だという顔をしながら、優しく彼女を弟子として迎え入れた。
余談となるが、グエンが悪い虫が付かないように、同士アケロスの保護の下、成人するまでは燕月亭に住み込みで修行させるべきだと、彼の妻に提案したそうだ。
だが、彼はヘカテイアに妻子を残した時に、常日頃から妻に言い聞かせていた言葉により自滅することになるのだった。
グエンは『結婚するまで、俺の娘を下宿させるなんてとんでもねえ。』と言い続けていたらしく、今頃になってその言葉が彼自身に突き刺さり、彼の邪な抵抗はそこで潰えてしまった。
後日、私と桔梗はサウスの市場で、どことなくダナンの面影を持っている少年とフェンが一緒にいるのを見かけた。
さらに、彼らが幸せそうに愛の実を一緒に飲んでいる場面を目撃してしまったが、グエンがあまりにも可哀想なので、それは教えないことにしたのだった。