虚構の指導者の失墜
ハシムの大型帆船の元へ、ダナンからの使者を乗せた小舟が近付いて来る。
ハシムはダナンがあまりにも早く戻って来たことに驚き、使者に問いかけた。
「貢物の荷下ろしで時間がかかるだろうに、なぜこんなに早く我らに追いつこうとしたのだ?」
使者は笑顔で答える。
「実はヘカテイアにに向かう途中にお頭が気付かれたのです。ハシム様の為に、戦勝祈願に用意した最高級の美酒を献上し忘れたことを。お頭は、海賊にとってこういったゲン担ぎは非常に重要な為、貴方様に対して大変な無礼を働いてしまい、後悔するばかりだと申されておりました。」
ハシムが笑みを浮かべてダナンの帆船を見つめた。
「どこまでも殊勝な奴め…だが、念のために毒見の立ち合いはさせてもらうぞ。」
ダナンの船が大型帆船に横付けし、渡り橋が下される。
ダナンはハシムの船に降りると傅いて謝罪した。
「緊張のあまり、貴方様へとんでもない非礼をしてしまいました…大変申し訳ありません。」
ハシムは優しくダナンの肩を叩きながら、笑いかける。
「些事を気にすることはない、お前の忠誠ありがたく思う。」
ダナンはその寛大さに感謝しながら、複数ある酒樽のどれかの毒見をしたいため、ハシムに選んでほしいと頼んだ。
ハシムは少し意地の悪い顔をして、まだダナンの船に積まれている樽を指定した。
「ふむ…折角だからあの樽のものが良いな。」
ダナンは部下に命令して、その樽を運ばせる。
さらに樽の栓を開けて杯に酒を注がせると、ダナンは毒見がてら、味わいながら銘酒を飲んだ。
「ハシム様に献上するだけの価値のある酒だと思います。」
ハシムはジャミルを呼び、その酒を飲ませる。
ジャミルは目を見開いて喜んだ。
「これは…サウス産の中でも最高級の酒です。ここ近年私が飲んだ酒の中でも、これに勝る味はございませぬ。」
ハシムは満面の笑みを浮かべてダナンに命じた。
「そなたの忠節は重々に承知していたが、これ程のものを戦勝祈願に寄越すとは可愛い奴よ。お前の願いを聞き遂げる。しばし、船を止めて戦勝祈願の宴を開くとしよう。」
ダナンの船から次々と銘酒の樽が各船に運ばれていく。
そして大型帆船以外の帆船の元には、王と王妃直筆の書簡も届けられていた。
家臣たちが訝しげに書簡を手に取り、驚愕の顔となった。
王からの書簡はこう書かれている。
『すべての陰謀は露見し、王妃も一命をとりとめた。半日もすれば本国から討伐軍が反乱軍を征伐するために押し寄せるだろう。だが、私は不甲斐ない王だった為に、そなた達を導いてやれなかったことを悔やんでいる。そして、私はこれからのヘカテイアを治めるに当たり、そなたらの才を非常に惜しんでいる。この書状を手に国に引き返すのであれば、そなたらの罪は不問に処すつもりだ。』
さらに王妃からの書簡にはこうに書かれていた。
『私の事を悼み、これほどの者が兵を出してくれたことは嬉しく思います。ですが、私の死を望んだ者達に踊らされ、国を危機に晒してはなりません。私が必ず王にとりなすので、国に帰りましょう。そしてその忠節を今後の国のために尽くして下さい。』
家臣達は逡巡した後に、ハシムに返礼としてダナンの船に使者を送りたいと告げた。
ハシムは快くそれを許可した。
「そうだな、これほどの銘酒を飲める機会はほとんどないからな」
ダナンがハシムに傅いて進言をする。
「ちょうど皆様もお酒が進んでいるでしょうから、私と共を連れて挨拶に行きたく思います。」
酒が回り始めたハシムがダナンの肩を叩き、鷹揚に頷く。
「そなたは本当に殊勝な男よ、許可を出すので挨拶回りに行くがよい。」
ダナンはハシムに深く頭を下げて感謝した後、フードを被った伴達を連れて小舟で大型帆船以外の帆船に挨拶に回っていく。
ふと近くの帆船を見ると家臣達は、ダナンの酒がよほど気に入ったのか。ダナンの横に居る伴にまで手を握り、涙を流して喜んでいるようだった。
ハシムはジャミルを呼び大いに笑う。
「あの海賊は中々に使えそうだな…おかげで我らの士気も大幅に高揚した。」
ジャミルはダナンを値踏みするように見て厭らしく笑った。
「彼は、私達のために大いに役立つでしょうね。」
二人が機嫌よく笑う中、ダナンが険しい顔をして戻ってくる。
ハシムが訝しげな顔をして問いかけた。
「どうしたダナン、何か問題でもあったのか?」
ダナンが静かに頷く。
「斥候に回した者より、グエンという海賊の一派がこちらに迫ってきているとの情報が入ったのです。」
ハシムが哄笑する。
「五千もの兵を有する我らに対してどう攻めようというのか? 馬鹿な奴らめ、蹴散らしてくれよう。」
ダナンが笑みを浮かべながらハシムに傅いた。
「ハシム様があのような下賤な海賊などを相手になさる必要はございませぬ。私共が軽く蹴散らして参りましょう。」
そして彼はハシムに耳打ちをする。
「どのみち、本格的な戦となれば、これだけの大軍の中に我らの出る幕などはありませぬ。せめてこれ位はしなければ、貴方様の役には立てますまい。」
ハシムは上機嫌でダナンに命じた。
「どこまでお前は忠義者なのか…とはいえ、何の護衛もつけないのも忍びないからな、そこの帆船を五隻ほど護衛につけてやろう。存分に手柄を立てるが良い。」
ダナンはハシムの寛大さに心を打たれた様子で、少し感情のこもった声で答えた。
「お任せください。必ずや貴方様に逆らう海賊どもを蹴散らして参ります。」
ハシムが満足げに頷くと、ダナン達の船は滑るように海の向こうへと消えていく。
そして、百人乗りの帆船五隻がそのあとに続いた。
だが、次の瞬間ハシムは目を疑う…
なんと大型帆船の周りにいた残り二十五隻の帆船までもがダナンの船を追いかけ始めたのだ。
ハシムは慌ててジャミルに状況の確認をさせる。
しばらくしてジャミルが笑みを浮かべながら戻ってきた。
ハシムがジャミルを怒鳴りつける。
「このような非常事態に、何故笑っているのだ!」
ジャミルは笑みを消さずにハシムに報告した。
「あの者たちは酒で気が大きくなったのでしょう。そのせいか、ハシム様へ何としても手柄を持って帰りたいと功を焦っているようです。」
ハシムは憮然とした表情で帆船達の行く先を見る。
「だからといって、私の命令もなく勝手に出撃するのは駄目だ…後できつく叱らねばならぬな。」
ジャミルは諂うような表情でハシムに耳打ちをした。
「ハシム様が偉大だからこそ、彼らはあのように忠義を尽くそうとするのです。彼らは、先代の王達のような狭量な人間と貴方様の格が違うということを本能的に感じているのでしょう。」
ハシムはようやく機嫌を直して、ジャミルに告げた。
「いずれにせよ、しっかり手柄を立てて戻ってきてもらわねば。私に逆らう者の末路がどうなるのかということを示すいい機会だ。」
大型帆船の甲板では、戦勝祈願に酔いしれる兵士達が歓談をしている。
「五千もの兵で威圧すれば、奴らは戦わずして降伏するだろう。」
「この戦は勝ったも同然よ…ハシム様万歳!」
「非道なるカマル王に死を与えよ!」
ハシムは満足そうな顔をしながら、銘酒を口にする。
芳醇な香りと絹のように滑らかな舌触りの酒は、先ほどまでの苛立ちを優しく癒すように彼の喉をすり抜けた。
*
それから半日ほど経ったが、ダナンと帆船三十隻は帰ってこない。
ハシムは苛立たしげにジャミルに問いかける。
「いくらなんでも遅すぎではないか…海賊程度にどれほどの時間をかけているのだ?」
ジャミルが少し思案して答える。
「我らの帆船は、海賊の船に比べると遅いため、追いつくのに時間がかかっているのかもしれませんね。」
ハシムは怒りをあらわにしてジャミルを怒鳴りつけた。
「ダナン達と帆船三十隻が向かったのだぞ! 海賊相手に三千もの兵士を差し向けて何も成果が出ないなんてことになれば、我々は後世の人々から愚人と評されるだろう。」
ジャミルは冷や汗をかきながらハシムに伺いを立てる。
「そうですね…大型帆船二隻あたりにダナン達の後を追わせましょうか?」
ハシムがの怒りが頂点に達して激昂した。
「ジャミル…お前はどこまで愚かなのだ。先ほどお前は、海賊の船に比べると帆船は遅いと申していたではないか! 二百人も乗った大型帆船が、通常の帆船よりも速いとでも考えているのか?」
あまりの正論にジャミルは何も返事ができず黙り込んだ。
ハシムは苛立ちながらも、周囲の大型帆船に指示を出す。
『ここで動いては合流ができなくなってしまう。あと半日待っても彼らが戻ってこないようであれば、ダナン達の後を追うぞ。忍耐も時には必要なのだ…皆も周囲を気を付けて何か異変があれば報告するように。』
周囲に少しずつ疑念が生じつつある中、ハシムはダナン達の帰りを首を長くして待ち続けた。
*
そして…ダナン達が出撃してから一日が過ぎてしまった。
ジャミルは不安に包まれた顔をしながら、ハシムの顔色を窺う。
「彼らは戻ってきませんでしたね。まさか全滅したのかも…」
ハシムは首を振りそれを否定する。
「ダナンだけならまだしも、三十隻もの帆船が随行していたのだ。一隻もこちらに帰って来ないのはおかしい。」
ジャミルがある可能性に気付いて目を見開く。
「まさか…まさか、彼らは私たちを…」
その時、見張り台の兵士から報告が入った。
「サウス方面より帆船と小船がが近づいています。」
ハシムが歓喜の表情を浮かべた。
「ダナンの船か! 我らの帆船はどれだけ戻って来たのだ?」
「いえ…どうやらアルテミスの帆船二隻と小舟十隻のようです。また、その背後にカマル王の船とみられる帆船と親衛隊の帆船二隻が続いております。」
ジャミルが嬉しそうにハシムに笑いかける。
「ハシム様、おそらくカマル王はアルドに唆されて、嫌疑を晴らすために慌ててヘカテイアに戻ろうとしたのではないでしょうか? そして迂闊にも我々に見つかってしまったと考えられます。」
ハシムは自信を取り戻して深く頷いた。
「カマルも運がないことよ…我らに出くわしてしまうとはな。」
ハシムは少し思案する。
敵の数を最大数想定しても恐らくはサウスの軍が二百程度、王の軍勢が百五十人程度といったところだ。
こちらは大型帆船のみで動きが遅いとはいえ、兵数は二千いる。
兵力差を鑑みるに、使者を送れば王の引き渡しに応じるとハシムは考えた。
彼は、使者に『ヘカテイアと戦争をしたくないのであれば、カマル王を引き渡して頂きたい』という内容の書簡を持たせてサウスの軍を率いるものへ派遣した。
だが、その返答は彼の意にそぐわないものだった。
『カマル王とアイシャ王妃は既に貴国にお戻りになられた。私達は王の重臣であるアルド様と共に友好のために貴国へ向かっている。何故、貴方は無用の兵を出されてこのような真似をされるのか?』
ハシムは使者の返答を聞いた時に目を見開いた。
「アイシャ王妃が…国に戻られただと?」
そしてジャミルの方を見て睨み付けた。
ジャミルは慌ててかぶりを振る。
「そそそ…そんなはずはありません、確かに私は勇敢なる親衛隊の一人と侍女から王妃が毒を飲まされたと聞いたのです。」
ジャミルは近くにいた元親衛隊員のほうを振り返ると、彼は何度も頷いて肯定の意思を示した。
ハシムは怒りのままにジャミルに詰め寄る。
「では、このサウスからの返答はどういうことなのだ?」
ジャミルは焦りながらもハシムを宥めた。
「恐らく、サウスの領主が王を庇っているのでしょう…何らかの取引をしたのかもしれません。王妃は確実に殺されたはずですし、カマル王がヘカテイアにお戻りになられるならば、王の船に乗っていないほうが不自然でしょう。」
ハシムが納得した顔になり、サウスの船にもう一度使者を送ろうとした。
その時、見張り台から連絡が入る。
「左舷よりダナン殿の海賊団と十隻の帆船が戻られました。」
ハシムは訝しげな顔をする。
「十隻だけだと…残り二十隻はどうした?」
見張り台の兵がダナンの船の進む道を見て絶句する。
「あ…ああ…こんな…馬鹿な…」
なんとダナンと一緒に帆船十隻がサウス側のほうに向かっていくのだ。
ハシムが激怒してジャミルに詰問する。
「あいつらは私を裏切ったようだぞ…先ほどから、お前が言うことと全て真逆のことが起こっているようだがどういうことなのだ?」
その時、見張り台から歓声が上がった。
「ハシム様、ヘカテイアから四十隻の帆船がこちらに向かっております。」
ハシムが驚きのあまり声を失う…。
「四十だと…四千もの兵が…いったい何が起こっているのだ。」
そして、ヘカテイアから来た大船団の先頭に、かの国に住む者ならだれでも知っている二人がいた。
―そう、カマル王とアイシャ妃だ。
ハシムがジャミルの胸ぐらをつかんで大きく叫んだ。
「お前は私を騙したのだな…王と通じてこの私を殺す気だったのだろう!」
さらに、彼は冷酷な顔になり、兵士たちに命じた。
「この男を船から突き落とせ。今まで奉公ご苦労であった。」
ジャミルが必至で許しを請う中、兵士たちは彼の体を持ち上げて海に放り込んだ。
哀れな声をあげながら周囲の船に助けを求めて叫び声をあげるジャミルの声に、ハシムの船だけでなく、周囲でそれを見ていた他の大型帆船の兵士にも動揺が広がっていく。
そして、王の船よりハシムの船団の一番外側にある側近の船へ使者が向かう。
ハシムが必死に兵士に命じて止めようとするが、ジャミルの必死に助けを求める声と死んだとされる王妃の姿を見てしまった兵士たちは、動揺してしまって言うことを聞かない。
そして、使者と兵士が何かのやり取りをした後にその船で反乱がおこった。
皆が恐慌状態となり、あまりのことに膝から崩れ落ちる兵士も出てくる。
その状態の中、サウス側より王の船が近づいてくる。
皆がその船を見つめる中、その船からアルドが姿を現した。
アルドが周囲の大型帆船に対して堂々たる声で叫んだ。
「ハシムの陰謀はすべて暴かれた。先代の王と王妃は側近たちの陰謀により毒殺され、アイシャ様はそこにいるハシムの手のかかったものにより毒を盛られたが、一命をとりとめられた。」
一部の大型帆船の兵士達の目が怒りに燃え、今にも側近を殺しそうな顔になっている。
さらに、アルドは言葉を続ける。
「王は、先代の王と王妃の死は、家臣達の功績を顧みなかったせいもあったであろうと悔いておられる。だから今一度、今回の王妃の暗殺にかかわらなかった者については恩赦を与えようと申された。ハシムに踊らされた者達よ…今ならまだ間に合う、国に忠誠を示すのだ!」
ハシムの大型帆船と、彼の前方と右左舷の三隻の大型帆船以外で反乱がおきて、側近たちが処刑、若しくは捕縛され、アルドの帆船の方へ向かった。
アルドが残った船に向かって叫ぶ。
「お前たちに未来はない、潔くヘカテイアの法の下に裁かれるか、海の藻屑と消える…どちらでも好きな方を選ぶが良い。」
ハシムは周囲を見渡した。
いつの間にか右舷にも帆船が回り込み、逃げ場はない…
絶望の中で彼は思いを巡らせる。
―何故? いや…どこで道を誤ってしまったのか。
周囲の者達が彼を見て、この先どうするのかの指示を待っている。
そして、何とも言えない静寂の中、静かな波の音だけが彼の耳に入ってくる…
いつもなら穏やかな波の音だが、今の彼には死を誘う死神の呼び声のように聞こえるのだった。